呉座勇一氏とオープンレターの問題点を考える【11/14追記】

      2021/11/15

【11/13追記】本稿についてフェミニストの方から批判を頂いたので、それに応じて幾つかの追記を加えた。また、私個人の考えから幾つかの表現を修正した。追記・修正箇所はイタリック体に文字色を変えるなどして明確に記載する。(11/14追記)ブログの仕様上の問題ゆえ、イタリック体が反映されず、文字色もブロック単位でしか変更できないようである。遺憾ではあるが、ブロック中の些末な変更に関しては、読者の可読性を優先し、変更箇所の明記を諦めた箇所がある。

・表題の件を私はここしばらくずっと考えていたのだが、ある程度、考えがまとまってきたので少し文章化しておこうと思う。

・本題に入る前に、最近、起こったフェミニストによる問題をいくつか見てみよう。

「性的なもの」レッテルをめぐり議論…ご当地VTuber・戸定梨香の応援運動が盛り上がる背景

・まずはご存知、松戸Vtuber騒動である。女性たちが作ったご当地VTuber「戸定梨香(とじょうりんか)」 を一部のフェミニストたちが圧力によりキャンセルしたことで、広く世間からの批判を受けた。

・また、戸定梨香の製作者である女性たちが活躍の機会を奪われたことで、「なぜフェミニストが女性の活躍を邪魔するのか?」との疑問も持たれたが、フェミニストは「女性を解放するためのイデオロギー」を広めることが目的であって、女性の活躍を応援することは目的ではない。彼らはとにかく女性が活躍すれば喜ばしい、というわけではなく、「女性が活躍するための状況を作る」ことが目的であって、その状況を作るのに不都合な女性の活躍など決して応援しない。それを現した言葉が「名誉男性」である。

https://twitter.com/colabo_yumeno/status/1455089555636252672

・次は仁藤氏による問題発言である。これは元新潟県知事であり衆議院議員となった米山隆一氏に対する話なのだが、流れを解説すると、米山氏が「ジェンダーの問題に取り組むのはいいけど、先に経済の話とかしないと票が取れないよ」というプラグマティックな技術論を語ったところ、

 人の話をまともに聞かない一部のフェミニストたちが「ジェンダー問題が 「余裕のある人の趣味」 とは何事だ」と怒り出したという話である。米山氏は「まだ世の中はジェンダー問題を「余裕のある人の趣味」 だと見ているから、本懐を達したいなら、こういう方便(技術)が必要ですよ」という話をしているのだが、彼らにはそういう話が通じなかった。なぜか分からないのだが、私の受ける印象では、フェミニストは彼らは日本語を頻繁に読み間違える傾向がある

・まあ、それはさておき、仁藤氏の発言の問題性は米山氏のかつての行状をあげつらって未だに人格攻撃を行っているところで、まるでキャンセルカルチャーの権化のような所業である。当たり前であるが、犯罪者であっても刑期を終えれば一般人であり、その後、政治家になっても何もおかしくはない(そもそも米山市の「買春」は違法ではあっても罰則も逮捕もされないため「禊」を済ます済まさない以前の問題であるが、知事職を辞任したことをもって十分に禊は果たしたと考えるべきだろう)。また、有権者はそのような過去を含めて判断した上で一票を投じたわけであるから、仁藤氏の発言は米山氏に投票した新潟県民に対する侮辱でもある。

・本多平直氏の事件の時もそうであったが、フェミニストたちは「守るべき大義」のためならば、それ以外の人権を気軽に軽んじる傾向にある。このような時、彼らは平然と差別的な言動を行うので、ごく当たり前に人権を重んじている者であれば、必然的にこういったフェミニストの言動に対して必然的に批判を行うことになる。

・その結果、「人権を重視しているのでアンチフェミニストになる」という、一見するとよく分からない事態が現出する。「人権を重視すると男女差別解消を目指すフェミニストを批判することになる???」 事情をよく知らない人であれば混乱すること間違いなしである。しかし、これが今回の本題に繋がってくるのだ。

【11/13追記】 文中で指摘しているフェミニストはどのような定義か、すベてのフェミニストを雑に同一視していないか、という批判を頂いた。これには頷かざるを得ない面があったため、ここではフェミニストは「法整備による男女格差の解消にとどまらず、個人の私的領域に介入しようとするフェミニスト」を指すものと定義する。一般にはラディカル・フェミニストと呼称されるものだろうか(こちらを参考にされたい)。一方で「過激なのはラディカル・フェミニストだけである」といった言説にも批判的な声があり(「リベラル・フェミニストも過激である」)、それの影響により私が「フェミニスト」という雑な括りをするに至った面があるが、今回は分けることにする。また、ラディカル・フェミニストであっても仁藤氏の暴言に対して問題意識を抱える良識的な人もきっといるであろうから、そういった方々に配慮し、過度な一般化を抑え、客観的事実というよりは私的な感覚であるといったように表現を適宜調整した。

・さて、本題の呉座勇一氏の事件の話に移ろう。これは歴史学者の呉座勇一氏が、ツイッターの鍵アカウントで、フェミニストであり英文学者である北村紗衣氏の「陰口」を繰り返し、女性蔑視などの差別的言動を行ったとして非難され、大河ドラマの時代考証を降板。さらには所属先の国際日本文化研究センターから停職一ヶ月の処分を受けて、また、事実上の「解雇」に近い仕打ちを受けた(内定していた常勤を取り消された)という事件である。この処分を不服として、現在、呉座氏は日文研に対して訴訟を起こしている。

・この件に関しては意見を述べる上で様々な問題がある。いかんせん鍵アカウントにて行われた発言なので、その全てを網羅的に確認することが難しい。そのため私の以下の私見も「私が見た範囲では」という保留がつきまとう。

・なお、呉座氏の問題を考える上で重要になるかもしれない森 新之介氏のnoteは読んでいない。申し訳ないが、ちょっと読む気が起きなかった。あまりに長いのと、文体が辛いので……。この点がフェアではないという指摘があれば、それはもっともである。

【11/13追記】後に出る嶋氏の批判文章においては、嶋氏は自己が参照した資料を明確化しているが、拙稿にはそれが欠けているといった批判を受けた。適切な批判であろう。呉座氏のツイートは、私がこの問題に興味を持って以降、散発的に目にしてきたたため、どの資料に当たったかは明確化できないのだが、読者の参照性も考えて、こちらの記事を挙げておく。これは呉座氏の問題とされるツイートを取り上げるだけではなく、その前史とも言うべき流れを捉えてまとめてある。これを見るだけでも(善悪の価値判断は置いておくとしても)「呉座氏の抽象とされる発言が全くの無から出てきたわけではない」ことが分かるだろう。なお、全ての資料に当たって目を通さなければ言及すべきでないという指摘には賛同できない。それは誠実な態度ではあるかもしれないが、それを徹底するならば、大抵の人間はほとんどの事象に言及する資格を持たないであろう。私が未参照であった資料が問題で、私の論に不都合が生じているならば、その点を逐次ご指摘・ご批判頂きたい。

・他の問題としては、これの論点がいくつかのレイヤーに分かれることだ。「呉座氏は鍵アカでなければ良かったのか」「呉座氏は北村氏を揶揄していたが、正面から批判していれば良かったのか」「呉座氏の発言自体に差別的要素があったのか」など。どこを論点とするかで何に言及すべきかが変わってくるが、今回は北村氏らを中心として出されたオープンレターの趣旨を汲み取り、「呉座氏が差別的視点を醸成するに至った文化(悪い仲間)から距離を取る」という提言の問題点について言及したい。

・先に私の私見と結論を述べておこう。

「呉座氏の一連の発言に明確かつ重度な差別的発言はない」
「しかし、呉座氏の発言に北村氏が気分を害し、それを表明したこと自体にも問題はない」
「呉座氏が北村氏のリアクションを受けて謝罪したことにも問題はない」
「『差別的言動を生み出す文化』から距離を取るべきとの提言はキャンセルカルチャーである」

・では、なぜ呉座氏の発言が「女性蔑視」などと言われるのか。これが冒頭の部分と関わってくる。呉座氏やそれを取り囲む「文化」に存在した思想的背景は「フェミニズムに対する警戒心」である。上述したように現にフェミニズムは警戒すべき思想なのであるから過激な言動を起こしているので、それに対して警戒心を持つものがいたとしても何も不思議ではない。

【11/13追記】私の筆致がやや過激であった。無用な分断を割けるために表現を調整した。

・もう少し補足しよう。百歩譲って「フェミニズムは最先端の価値観であり、10年後は誰からも疑われぬ価値観のスタンダードとなる」と考えるにしても、少なくとも今現在においては様々な軋轢を引き起こしているため、現在において批判され、警戒されるのは当然である。そういった思想的文脈を背景に行われた発言であることを鑑みれば、呉座氏の発言に大きな問題は存在しない。口が滑っているところはあるが、それに関しては後に述べる。

・具体例を見てみよう。おそらくこの辺りが呉座氏の発言の中で最も「過激」なものだろう。

 いかんせん議論の全容が分からないので想像を入れるしかないのだが、最初に「そういう議論なら分からないではない」とある通り、呉座氏は女性の立場の上昇に関して単に否定的というわけではない。これに関しては與那覇氏の解説が適切だろう。

 たとえば呉座氏が医大入試での不正採点問題に際して述べた、「お嬢様の自己実現なんて知らんがな」という発言を抜き出し、同氏が「女性の自己実現自体を否定した」かのような非難がなされている。率直にいって、露悪的な表現としても度が過ぎているのは事実だと思うが、あきらかに恣意的な切り取りだ。

 呉座氏のもともとの発言は、「数千万円ないと入学できない医大入試を女性差別の象徴にするのは馬鹿馬鹿しくて話にならない。お嬢様の自己実現なんて知らんがな」である(太字強調は引用者)。女性全体の地位向上を目指すべきフェミニズムが、運動のシンボルに選ぶべき事例をまちがえてはいないか、と述べているのであって、医大による男女差別自体を肯定しているわけではない。

https://researchmap.jp/blogs/blog_entries/view/137817/8c1b9642f73e022e8cab9084b3d75e42?frame_id=478704

 與那覇氏の原文は課金しないと読めなかったため、與那覇氏を批判している嶋氏の文章から引用させて頂いた。なお、嶋氏はこの與那覇氏の解説に対して以下のように批判しているが、説得力があるようには思えない。

  「お嬢様の自己実現なんて知らんがな」という呉座さんの暴言はネットに広まってしまいました。與那覇氏はそれを指して「切り取り」だと言っていますが、果たしてどうでしょうか。これをフェミニズム運動の批判と読み取ることこそ無理強いではないでしょうか。「お金持ちのお嬢様⇔一般人」のような対比がこの場合に意味があるのでしょうか。同じスタートラインに立っていることになっている、男女の医学部受験者が、性別によって恣意的に点差をつけられていたのです。お前は恵まれてるんだから男女差別を受け入れろ、と書き換えると、そのおかしさが分かるでしょう。このことを呉座さんはわざと捻じ曲げており、與那覇氏はそれを無理くりに擁護しているといわざるを得ません。

 恵まれているのだから男女差別を受け入れろ、という話ではなく、ジェンダー指数は中間層の女性の活躍にこそ目を向けるべきだ、という話をしているのだから、これは文脈的にはフェミズム批判の一環であろう。それがどのような議論から導き出されたロジックなのかは全容が掴めないため評価はできないが、その評価自体はここではさておくことにする(そのロジックに問題があれば批判をすればいいのだ)。なお、「率直にいって、露悪的な表現としても度が過ぎている」という点には私も同意する。そんな言い方しなくてもいいのに、とは思う。

・ところで、


 このツイートが「差別的言動を生み出す文化」に見えるだろうか? 前後の流れが見えないのが難点だが、これだけを見る限りでは「差別的言動を生み出す文化」にはとても見えないのではなかろうか?

・このまま嶋氏の批判について、こちらからも批判を行おう。

これを利用して、呉座さんが例えば、「主婦」についてどう発言していたかが分かります。

 リンク先をご覧になって、いかがでしょうか。「主婦は甘えてやがる」という偏見を呉座さんが持っているといわざるを得ないでしょう。

 また「伊藤詩織」で検索したデータもあります。これには呉座さん自身のツイートは含まれていないようですが、RTにネットで「女叩き」をして喜んでいるようなアカウントがいくつも並んでいるのには、げんなりせざるを得ません。女性差別的なSNS上の雰囲気に、呉座さんがどっぷりつかっていたのは否定できなさそうです。

https://researchmap.jp/blogs/blog_entries/view/137817/8c1b9642f73e022e8cab9084b3d75e42?frame_id=478704

 まず単純な問題として、「主婦」についての呉座氏の発言がリンク先に見つからない。リツイートをしている=呉座氏の意見である、という認識だろうか? それならそれで、まあいいのだが……。

 では、そこで挙げられているツイートを例示しよう。これもパッと見は「主婦はニート同様!」と言っているように見えてギョッとするが、言ってることは別におかしな話ではない。「旦那を助けて子供を立派に育てるのが女の喜び」的な価値観が失われたことにより、現代では専業主婦の自己肯定感が保ちにくくなっている。育児をしているとか家事をしているとか関係なく、社会との関係性の話であり、その点でニートとの共通点を指摘している。その評価はさておくが、問題があると思うなら批判すればいい。

 次はこちら。他者を精神病と安易に見ることには問題があるかもしれないが、上述の小山氏の論点を踏まえれば、理解はできる。社会からの疎外感が原因で適応障害となって意欲低下が起こり、それが傍からは怠惰に見える、という話だろう。 その評価はさておくが、問題があると思うなら批判すればいい。

 

 これなどはもっともな問題提起であろう。男女の規範意識を解体すれば(それはフェミニストの主張でもある)、このような考え方も自然と出てくるだろう。
その評価はさておくが、問題があると思うなら批判すればいい。

・また、伊藤詩織氏に関しては私はよく存じ上げないのだが……

 これをRTしていることから見えてくるのは、呉座氏にはこの件を「素直に応援できない」という気持ちがあり、「この件に疑問を抱く者は性暴力容認派みたいなレッテル貼り」に対して反発しているということだろう。

RTにネットで「女叩き」をして喜んでいるようなアカウントがいくつも並んでいるのには、げんなりせざるを得ません。女性差別的なSNS上の雰囲気に、呉座さんがどっぷりつかっていたのは否定できなさそうです。

https://researchmap.jp/blogs/blog_entries/view/137817/8c1b9642f73e022e8cab9084b3d75e42?frame_id=478704

 嶋氏の言う「女叩きをして喜んでいる」とはまさに 、「この件に疑問を抱く者は性暴力容認派みたいなレッテル貼り」 そのものではなかろうか。

・このように、嶋氏が「呉座氏は紛れもなく女性蔑視だ!」と主張し、論拠として挙げているものも、「フェミニズムに対する警戒心」という思想的背景を前提にすれば十分に許容範囲のように思える。……いや、ここは私が百歩譲ろう。おそらく同じものを見ていても、各自がどのような思想的背景を背負っているかで「ギルティ/ノットギルティ」の判断が分かれるのだ。私には「フェミニズムに対する警戒心」という思想的背景があるので、ノットギルティに見えているのだろう。だが、冒頭の段落に書いた通り、フェミニズムは現に警戒すべき思想ではないだろうか? 警戒というとやや言葉がキツイので穏当に言い換えるなら、現在抱えている問題点を批判されて、より善くなるべき思想ではあるだろう。

・続けよう。

 そして與那覇氏は、呉座さんの北村さんへの誹謗中傷が、まるでまっとうなフェミニスト批判であるかのように論じます。これは事実に即していません。呉座さんが北村さんのニックネーム「さえぼう(先生)」でどんなツイートをしていたかは、魚拓などに残されています。

 現在見ることができるのは、2019年ごろの魚拓2020年ごろのアーカイブ今年3月時点での魚拓などがあります。どうでしょうか。これらがフェミニズムに対するまっとうな批判と呼べるでしょうか。ただの誹謗中傷ではないでしょうか。

https://researchmap.jp/blogs/blog_entries/view/137817/8c1b9642f73e022e8cab9084b3d75e42?frame_id=478704

 例えばこれなどは(例によって前後が分からないのが難点だが)まさにフェミニズムに対するまっとうな批判ではないだろうか? この時に北村氏が何を言っていたのかは分からないが、私としてもフェミニストの「欧米ではこうなんです(だから日本もそうすべきなんです)」には辟易としている。何の説得力もない。ただの権威主義だ。ただ、北村氏のどのようなコメントに対する批判なのか分からないので、これ以上の評価は保留する。

 ついでに、リンク先からこれも出てきたのだが、呉座氏のこの見解もまた重視すべきであろう。上で見たとおり、呉座氏の発言は概ね批判の範囲は出ていない。ただし、フェミニズム自体を戯画化することは戦術の範囲であろうが、特定個人の戯画化がどこまで許されるのかは、たしかに少し考えるべきところではある。

・一方で、北村氏がこれを見て気分を害したのだとしたら、それに対して怒ることは問題ないとも思う。批判が正当であろうがなかろうが怒ることは自由だし、それを見て呉座氏が謝罪するのも良いだろう。そこは「正しい/正しくない」ではなく、人間関係の問題である。「怒った」「謝りたい」という個人の感情はいずれも尊重したい。

【11/13追記】上記に関して「判定の基準が分からない」といった批判を受けた。確かに少し説明が不足していたかもしれないので追加説明を行う。これは私個人の価値観が強いのだが、正しくなければ怒ってはいけないわけではなく、正しい場合でも謝ってはいけないわけではない。念の為述べておくが、これは北村氏・呉座氏の場合の価値判断を含んでおらず一般化した話である。感覚的には分かりづらいかもしれないが、物事の客観的正しさに関わらず、主観的な「怒り」や「謝りたい」という感情に私が一定の価値を認めているということである。例えば恋人同士の関係において、一方が何らかの理由で怒ったとして、その怒りに理がなかったとする。だが、それに対して相手側が理屈のみをもって、その怒りの不当性を追求することが常に正しいだろうか? 「相手が怒った」という感情そのものを尊重し、それに対して惹起された自身の感情(謝りたい)を述べることを全くの愚策と断定することに私は躊躇する。無論、その関係性が真に健全かどうかは分からない。だが、それは二人の選択の問題である。その選択が適切かどうかはともかく、私は当人の選択と行動を尊重したい。

・では、ここでオープンレターを見ていこう。

【11/14追記:このオープンレターは、呉座氏の「騒動」が巻き起こった後、北村氏を含む十数名の発起者の連名による呼びかけであり、期間を区切って賛同者が募られていた】

 同様に、呉座氏の一方的な中傷とそれに対する抗議とがあたかも適正な「議論」「論争」であるかのように扱おうとすることもまた、アカデミアの無自覚な男性中心主義のあらわれだと言えるでしょう。女性研究者への中傷を多くの男性同僚たちが見逃しているような性差別的な状況によって女性研究者たちはしばしば公正で冷静な学術的「議論」「論争」を阻まれてきました。中傷それ自体を「議論」の一環であるかのように扱うことは、そのような中傷が「議論」を成立させない効果をうんできた事実を、隠蔽してしまいます。

 要するに、ネット上のコミュニケーション様式と、アカデミアや言論、メディア業界の双方にある男性中心主義文化が結びつき、それによって差別的言動への抵抗感が麻痺させられる仕組みがあったことが、今回の一件をうんだと私たちは考えています。呉座氏は謝罪し処分を受けることになりましたが、彼と「遊び」彼を「煽っていた」人びとはその責任を問われることなく同様の活動を続け、そこから利益を得ているケースもあります。このような仕組みが残る限り、また同じことが別の誰かによって繰り返されるでしょう。

https://sites.google.com/view/againstm/home

 ここには大きな問題があるように思える。上で見てきた通り、フェミニズムに対し警戒心を抱くこと自体は特別おかしなことではない。確かに、その警戒心が度を越してしまえば「誹謗中傷」となることもあるだろう。そのような行き過ぎたケースでは批判を受けるべきだし、反省も謝罪も必要だろう。呉座氏の発言が「行き過ぎ」かどうかは微妙なラインだが、呉座氏が批判を受けてそう自覚し、謝罪したのならそれは良いとも思う。しかし、議論をすること自体を問題視し、封殺するのは話が全く別だ。仮にそのような「行き過ぎ」が発生しやすい状況にあるのであれば、その問題こそ批判・是正すべきであるが、議論自体を封殺してはいけない。

 以上により、私たちは、研究・教育・言論・メディアにかかわる者として、同じ営みにかかわるすべての人に向け、中傷や差別的言動を生み出す文化から距離を取ることを呼びかけます。

 「距離を取る」ということで実際に何ができるかは、人によって異なってよいと考えます。中傷や差別的言動を「遊び」としておこなうことに参加しない、というのはそのミニマムです。そうした発言を見かけたら「傍観者にならない」というのは少し積極的な選択になるでしょう。中傷や差別を楽しむ者と同じ場では仕事をしない、というさらに積極的な選択もありうるかもしれません。何らかの形で「距離を取る」ことを多くの人が表明し実践することで、公的空間において個人を中傷したり差別的言動をおこなったりすれば強い非難の対象となり社会的責任を問われるという、当たり前のことを思い出さなければなりません。

https://sites.google.com/view/againstm/home

 ここで言う「差別的言動を生み出す文化」なるものは、実際はどのようなものだろうか。例えば仁藤氏による米山氏に対する暴言を冒頭に挙げたが、これに対する批判が「差別的言動を生み出す文化(=アンチフェミニズム)」 である。……本当にそうだろうか? 差別的言動を生み出すだろうか? 差別とは何なのか??

・いや、確かに物事にはグラデーションがある。仁藤氏の件は明らかに仁藤氏に問題があるだろうが、そこまで明確ではないケースもあるだろうし、むしろ「差別的言動を生み出す文化 」側の言説に問題がある場合もあろう。しかし、問題があれば批判し、修正していけば良いのだ。誰しも勇み足や口が滑ることはある。「距離を取る」と言って対象のキャンセルを周囲に呼びかけるやり方が健全とはとても思えない。

・これはフェミニスト側にも同じことが言える。彼らの口もだいぶ盛大に滑っているが、私は彼らもキャンセルされるべきだとは思わない。ただ、われわれは批判するので、呉座氏のように、誤りを認めたら素直に謝罪して欲しいとは思う。

・発言には思想的な背景や文脈がある。そこから切り離されて、それ単体を見ればギョッとすることもあるだろう。だが、文脈を追えば「なんだそんなことか」となる程度の話だったりもする。今回はその文脈がフェミニズム批判という馴染みのないものであったため、読み取りづらかったというのが大きいだろう。

・以上である。なお、上で「これはこういう見方をすれば大きな問題はない」といった解説をいくつか行ったので、皆さんの中には「じゃあこれはどうなんだ?」といった疑問を持つ方も当然いるだろうが、流石に全部解説することはできないので、そこはご容赦願いたい。リンク先の魚拓にはまったくのセーフからストライクギリギリのものまで色々あるし、いくつかは精査するとボールになるものもあるかもしれない。

【11/13追記】冒頭におけるフェミニズムが引き起こした2つの問題と結論がどう繋がっているのか分からないという批判を受けた。私としては分かるように書いたつもりであるが、改めて説明を行いたい。ほとんど本文の繰り返しとなるので、本文を読んで十分に理解できた方は特に読む必要はない。

 結論としては、オープンレターにあるような「差別的言動を生み出す文化 」なるものは最初から存在していないということだそれはオープンレターの起草者たちや嶋氏などが「自分たちの論敵がそうであって欲しい」と願った願望の反映にすぎない。彼らの願望がそのようなありもしない巨大な悪の組織を作り上げた。だが、実際にそこにいるのは、現代社会に対して問題意識を持ち、自分たちの言葉で言語化を試みる、一定の節度を保った人たちである。その問題意識の例として挙げたのが冒頭の2例である。

 確かに、これら冒頭の2例は時系列的に言って、呉座氏やその周辺の「文化」が思想的背景を組み立てる前提となったものではない。ここで私は確かに文学的レトリックに頼っており、やや不誠実であったことは認めるところだ。だが、同様の問題が過去にもあったことを、私がわざわざ列記する必要があるとも思えない。これらの直近の話題を見ても、「彼らがなぜ問題意識を育んだのか」という傍証としては十分であると考える。

 話を戻そう。「差別的言動を生み出す文化 」なるものは彼らの見た幻である。なぜ嶋氏の批判に説得力がないのかも、ここから導き出せる。嶋氏は幾つかの事例を上げて、「見れば分かる」といった態度で読者に迫るが、見ても分からないのである。なぜなら、嶋氏には「彼らは主婦を蔑視しているに決まっている」「彼らは女叩きをしているに決まっている」といったフィルターがかかっているため、それら資料がそのように見えてしまうのだが、そのフィルターが掛かっていないものにはそうは見えないのだ。とはいえ、私の方に逆のフィルターがかかっている可能性はある。実際の内容がどのようなものであったかは私が例示し、説明を行ったので、後は読者諸氏の判断に委ねる。

 ところで、「文化」側の彼らが一定の節度を保っているからと言って、彼らの無謬性を保証するわけでもない。物事にはグラデーションがある。時には言動が行き過ぎになることもあるだろう。しかし、それはその都度、批判をすべきであって、そういった思想的潮流に対して「距離を取るべき」などといった社会的村八分を勧奨するべきではない。それを言って良いのであれば、私だって「フェミニズムから社会は距離を取るべきだ」と言いたい。だが、私はフェミニズムを批判こそすれ、社会的に排除すべきとまでは考えていない。それは多様性として不健全である。

 なお、付言すると「明確に一定の節度を保っていない人たち」も残念ながら存在する。例えば特定のフェミニスト女性への容姿に対する侮蔑などだ。私はそれは適切な批判ではなく、感情的な対立を煽り立てるだけだと思う。だが、呉座氏は流石にその一線は守っており、彼がRTしたツイートは概ね一定の節度を保っていたと思う。とはいえ、その判断は個々に委ねよう。

 人は何か事件が起こった時に「わかりやすい悪者」を生み出そうとする。呉座氏のような高名な学者が女性蔑視(?)を行ったとなれば、そこになにか理由を見つけ出したくなる。そうして生み出されたのが「差別的言動を生み出す文化 」なるレッテルであろう。それを悪者にして、呉座先生はそそのかされただけだという話にすれば心理的な安心感が得られる。だが、そのような手法が健全かどうかは大いに疑問だ。

 繰り返すが、北村氏が怒ったこと、呉座氏が謝ったこと、それ自体に関して、私としては特に言及することはない。それは二人の問題である。だが、そこから話を拡大して特定の思想潮流を悪者に仕立て上げ、社会的に抑圧しようとするのであれば、私は反対せざるを得ない。

【11/14追記】

 冒頭で書いた「批判を頂いたフェミニスト」の方から、突然、ツイッター上でブロックされた上に中傷を受けた。互いに節度を守って対話していたはずなのに、ブロックした上で一方的に事実を捻じ曲げて印象操作に励むその姿に、私は腹立たしいやら情けないやら、複雑な感情を惹起させられたのだが、結果的には本論の正当性を補強する傍証が得られたと言えるだろう。世界のグラデーションを理解せず、「敵か味方か」で二分して世界を単純化し、敵と認定した相手には下品な振る舞いをもって当たる。そのような精神性ゆえに人々から警戒され、批判されているのである。

 なお、ブロックされた上で中傷を受けるという明確な「陰口」を叩かれたわけであるが、そのような些細なことで、私は先方の社会的立場の失墜などを求めたりはしない。私の気分は害されたが、所詮はインターネット空間におけるよくある諍いであり、先方も普段は社会人として相応の社会的責任責務を果たしているのであろうから、今後も引き続きそちらの方面に励んで役務を全うして頂きたい。インターネット上のいざこざなど所詮はその程度のことなのである。軽口で私の気分を害した程度で社会的責任を負う必要などない。

 また、先方から頂いた批判は一部納得の行くものであったため、それに関しては先日、追記・修正を行っている。発言者の人格と発言内容の妥当性を過度に混同するべきではない。適切な批判に関しては、この場を借りて改めて礼を述べておく。

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