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では、ここからは、なぜみんなが「坊さんなら幽霊退治できる」と考えたのかについてです。
識者の意見としては、「幽霊はこの世のものではない」「坊さんもこの世の論理を超えるべく修行してる」「じゃあ、幽霊もなんとかできるんじゃね?」という論理が働いているというのが、まず一つ。同様に、
>> また僧侶が生者と死者の中間であることも関係があるかも知れません。僧侶というのは生きながらにして魂は既に死んでいるものとして扱われますので、もしかすると理論上死者に影響を与えられるのかも。(愛忍者さんより)
ここで言われている意味は、精神的に「涅槃に入っている(=悟りを開いている)」という意味かと思われます(釈迦は精神的に涅槃に入った(=悟った)後、体も涅槃に入った(=死んだ))。このような彼我に関するイメージから、「坊主は幽霊と戦える」イメージに至ったというアイデアが生まれるのではないかと。
>> 普通に得度して僧侶になったら先づ幽霊を斥ける方法を知る機会はありませんし、また教義的にも幽霊がいると考えるのは難しいので、まぁ殆ど誰も気にしていないといったところです。手前は真言坊主ですが、真言坊主にしてそんな感じなので、他宗派は推して知るべし、幽霊と僧侶が戦うイメージは、先づ間違いなく仏教と関係ありません。(愛忍者さんより)
※真言ってのはアレです。孔雀王です。そんな真言宗でも幽霊にはノータッチということです。
>> 幽霊の実在を信じ斥ける方法を編み出したのは、恐らく修験者です。修験道は仏教思想を取入れた神道系の山岳宗教なので、仏教とは似て非なるもの、この山岳宗教の部分が幽霊と戦うイメージを最初に作ったと考えられます。また修験道は陰陽道も取込んでいます。これも関係あるでしょう。(愛忍者さんより)
幽霊と戦うイメージの一つとして「修験道」。
>> もともと仏教には先祖崇拝(死者の信仰)なんてものはなく、従って幽霊(死者)を怖れる観念とも無縁でした。先祖崇拝は明らかに儒教由来のもので、今日の日本で「如何にも仏教」といった風情になっている仏壇や位牌、戒名、墓碑といったものも、儒教発祥です。抑も「宗教」という語じたい、「死者を如何に扱うか」を説くもの、という意味があって、中国に於いては一般的にそれ以外の目的で信仰されたことはありませんでした。仏教は(インド発祥なので「宗教」という言葉と関係ないけども)死者は輪廻転生しているから、祀る必要も怖れる必要もないけども、儒教は死者を祖霊(先祖の霊の集合体)として祀りなさい、と教えているので、祀られない霊がグレて悪さをしたりすることがあれば、祀られている霊でも念を残して死んだ霊ならば出て来ることもあります(祖霊は個性が有耶無耶になった先祖の霊の塊だから、個性があるうちは融合できない、と考えるといいのかな?)。(愛忍者さんより)
次に「儒教」。儒教で「死んだ後の霊魂」のイメージが作られます(仏教は中国を経由した時点で儒教の影響を受けて日本に伝わっています)。
>> また道教というのがあります。もともと道教と儒教は同じ「祖霊(土地神)信仰」でした。それが高度に理論化されたものが儒教になり、そのまま民間信仰として残ったのが原始道教です。その原始道教が後漢末期に「太平道」と「五斗米道」で組織化され、隋唐の頃に興隆した仏教に対抗する為仏教理論を吸収、模倣し、今のような道教になりました。これが日本に渡来して陰陽道に変化、やがて修験道を介して仏教と結合(もともと道教は仏教を模倣してるのでよく馴染む)、また天台の座主などは親王がなったりしていたので、宮中で陰陽道を学んだ者が仏僧になったりして、陰陽道と仏教の境界が曖昧になりました。密教と道教に共通の思想(オカルト的要素)があることも、それを手助けしていたでしょう。多分、これが直接的に「幽霊と戦う僧侶のイメージ」を産み出した要因です。道教は死者と木剣持って戦いますから(キョンシーが出て来るアレみたいな)。(愛忍者さんより)
さらに「道教」。「修験道」「儒教」「道教」など、これらと仏教が混じったり、混同されたりした結果、「幽霊と戦う坊さん」のイメージが作られたということでしょうか。
つまり、「仏教」自体には幽霊もいなければ幽霊と戦うこともないのだけど、それはそれとして、日本にも中国にも昔から霊魂とか死者の霊とかいう考えはあり、それに対応できる儒教が仏教に混じり、また日本で修験道(神道や仏教などの混交)が仏教と入り乱れ、(もともとの仏教にはなかった)「幽霊も扱える仏教のイメージ」が出来上がったという意見です(で、いいのかな?)。
で、それはそれとして、じゃあなんで般若心経が幽霊退治に「効く」のか、という点(以上のようなことを考えても哲学で幽霊が消える理由にはならない)にも愛忍者さんは答えてくれていて、
>> 多少『耳なし芳一』に出て来る和尚のように魔術めいたことをする僧侶もありますが、あれは『般若心経』→「空を説いている」→「空」→「見えない」という言葉遊び的なお呪いで、芳一の体に『般若心経』を書いたのは小僧ということになっていますし、あれはお経の力であって僧侶の力ではないようです。(愛忍者さんより)
という、まさに「おまじない」な意味合いしかないのではないか、とのことです。
また、wikipediaでもこの点が書かれており、
>> 一般の人々にとっては、「空」を説く経典と言うより、むしろ、「霊験あらたかな真言」の経典として受け止められており、一部には悪霊の力を空ずるという解釈もされた。古くから般若心経の利益で病気が治るという信仰があり、既に日本霊異記にその説話が残っている。お守りとして所持したり、病気になったときに写経して平癒を祈願したりした人が多い。(wikipediaより)
要するに「中身が哲学書だと思っていなかった」ということでしょうか。「空ずるという解釈」も言葉遊びの一種ですよね。僕もこないだまで般若心経の内容を知らなかったので、無知だと笑うことはできません。
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さて、ここまで書いたところで本論はとりあえず終了。後は掲示板や日記コメントに寄せられた面白いアイデアを紹介しておきます。
>> 悪霊や幽霊、悪魔と戦う聖職者的な存在と言えば仏教やキリスト教以前にはシャーマンなんかがそれに該当していたように思えますね。
>> 聖職者(ここでは宗教的に特別な地位を持つ人といった意味)は総じて教養があり、医療などの知識も持ち合わせていた。
>> また、ウイルスなんて知らないどころか、文字も読めないし、そもそも書物を手に取る機会さえない昔の一般人にとって病気はまさに悪魔や幽霊などとにかく目に見えないものの所業も同然だった。
>> その結果、医療で病を治す聖職者が目に見えない恐怖(悪魔や幽霊)を祓う不思議な能力者として認識されるようになったんじゃないでしょうかね?
>> 勿論、宗教者がそのように見られるように振舞って、信仰を集めようとしていたということもあるでしょうが。
>> 要するに「理系の先端技術が凡人にはワケの判らない魔法にしか見えない」のと同じ・・・いや、大分違うか・・・?(掲示板より)
極めて理系的な解釈ですが、この線はあると思います。少なくとも精神疾患に関しては、現在の精神科医に相当する役目が聖職者に期待されていたというのはあると思うので、医療との関係性は十分考えられます。(余談ですが、西洋合理主義により宗教の力が衰えたことによって、「新しい宗教」として宗教の役割を担うべく登場したのが精神分析という説もあります)
>> 聖職者が幽霊と戦える理由よりも普通の人が幽霊と戦えない理由の方がわかんないです。
>> 幽霊の正体が人間の魂だとすれば生きている人間にも魂があるんだから普通にぶん殴れる気がしてならないのですが・・・(日記コメントより)
本論とはあまり関係ないけれど、個人的に面白かったアイデア。幽霊が何らかの物理的干渉をもたらすのなら、こっちだって幽霊に物理的干渉ができるはずだし(ブン殴れるし)、幽霊の正体が魂であり、こちらに精神的干渉が可能なら、(人間に魂があることを前提とすれば)特に特定宗教に帰依してなくとも、誰でも幽霊に逆に精神的干渉を及ぼせるということでしょうか。これはつまり、僕たちの中に、「幽霊は(死んだ後の人は)物理的にどうこうできない」というイメージが出来上がっているということですね。そのイメージがどこから来てるのかも面白そうではありますが、今回はこの辺で!
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