【4/25】メモ「キリスト教史5」


キリスト教史〈5〉信仰分裂の時代 (平凡社ライブラリー)
ヘルマン テュヒレ コルネリウス・A. ブーマン ジャック ル・ブラン
平凡社
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 ↑これを読んでのメモ

 
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P29 新世界への宣教は政治と不可分に結びついていた。教皇がスペインとポルトガルの占領政策の仲裁をした時は、「原住民への布教をする」という条件を付けて、東インドはポルトガルの、西インドはスペインの勢力圏と定められた。

P31 宣教師たちは学校を作って、インディアンに宗教だけでなく知識や技術も教えて、医療にも携わり、虐げられた者を搾取から守ったりした。ので、メキシコ辺りではガンガン改宗者が出た。

P32 南アメリカではメキシコ程上手く行かなかった。

P32 多くの神学者の見解ではインディオは何の権利ももたない異教徒とされて奴隷化されたが、ドミニコ会士バルトロメ・デ・ラス・カサスさんなんかが教会内部の反対を受けながらも頑張って説得して、人種平等の原則を勝ち取ったらしい。

P34 カサスさんが国王を説得してインディアンの奴隷化を禁止させると、スペイン人入植者が彼に対して一揆を起こしたりした。 

P44 戦争やなんかの影響で教会や修道院の収入が減り、教皇庁はそれに対して租税制度を整備した結果、徴税人に対する民衆の不満が高まった。

P52 騎士階級は没落してしまい、彼らは自己の利益に走った。もうすぐ事態が変わるんじゃないかと考えている者もおり、彼らはルターの登場を歓迎し、この波に乗って「教会財産を自分たちの都合の良いように処分できるのではないか」と考えた。

P57 教皇庁がドイツをナメてたので、これがドイツにおいて宗教改革初期の扇動材料に利用された。

P60 聖職者の内縁関係が問題視されていたが、聖職者が貧しく農業をやってる場合など、それは不可避的なこととされ、罰も重くならず、それほど顰蹙も買わなかった。

P76 ヒューマニストによるローマ・アカデミアはプラトンやストアを宗教的なまでに尊敬したが、それでも教会との衝突は二重真理説により回避できると信じられた。霊魂の不滅、意志の自由、奇跡の事実は理性の側からは否定されるが、信仰の側からは肯定される、というもので、ラテラノ公会議ではっきり排撃された。(まあそりゃそうだろう……)

P84 エラスムスでは、ドイツではルターに先を越されて微妙な評価となったけど、スペインでは福音の精神におけるあらゆる刷新運動がエラスムスに結びついて展開された。

P103 どんなにがんばっても神の前では義となれない自分と、そんな自分を罰するであろう神をルターは恐れていたが、そうではなく、どんな自らの行為も善行も無意味で、罪人に対して、キリストの義が付け足されるのだと考えた。人間にできることは、キリストの十字架の功徳をひたすらに信頼することで、この信頼する態度がルターにとって信仰ということになる。(神の信実を信頼する、というパウロの姿勢に近いか)

P104 正しい人の行いも罪だし、正しくない人の行いももちろん罪。人間が罪しか犯すことができないのに、死後の運命が個々で異なるとすれば、神は各人をはじめから天国の至福か劫罰かに決めていることになる。この神の予定に対し、保証となるようなものは全くなく、神を絶対に信頼して救いを確信することしかない。(よく分からない理屈だ。「神を絶対に信頼する」という個人的行為は、自分の運命とは全く関係ないということ? 関係ないけど、それでも信頼するしかない、ということか?)

P106 サン・ピエトロ大聖堂建築のための免償公布がされたが、この時、裏では3つの司教区の司教を兼ねることにしたいアルブレヒトさんが、免償権を得て、それで得た資金の半分をサン・ピエトロの建築資金に、残り半分を元手に教皇に献金する、という形で成立していた。聖職売買的な取引で、免償がまるで金融担保のように扱われていた。

P108 アルブレヒトの任命した免償管理者の一人がテッツェル。彼は生者に対する免償については、痛恨の必要を強調していたが、死者に対しする免償は、改悛や聖体拝領が不要という説に従っており、その意味で「献金箱の中で金がチャリンと鳴ると霊魂は天国へ飛んでいく」というアレに近い内容のことを主張していた。

P110 ルターは自分は苦労して血みどろで格闘してたのに、大道商人的に神の恵みを触れ回って安らぎへと変える倫理と宗教の浅薄化にイラッとして反発した。彼は免償説教師用の「指導要綱」に濫用があるとしてツッコミを入れた。(目に見える範囲としては「ツッコミを入れた」ところまでで、ルターの行動が怒りによるものかどうかは執筆者の判断ということか)

P110 このツッコミ(『九五箇条』)はラテン語で書かれており、民衆に投げかける意図はなかったが、刺があり、神学者を刺激する気はあったとされる。

P111 教皇の権威って生者にしか及ばないんじゃね? 煉獄にいる霊魂と免償って何の関係もなくね? ていうか、本当に痛恨すれば罪は許されるから免償とかいらなくね? などがツッコミ。(本当に痛恨すればOKってのは、さっきのルターの姿勢と合致してるのか?)

P112 教皇の免償公開勅書に対して反対している人は他にもいたが、ルターはドイツ国民に強い反響を呼び起こした。ルターの提案した討論は行われなかったが、代わりに数週間でドイツ全土を駆け巡った。国民的な反教皇庁の潮流に乗った感じ。

P116 教皇側はルターを異端として審問しようとしたが、ルターはザクセン選帝侯に保護され、教皇庁は政治的な意味でザクセン選帝侯の立場を配慮せざるを得なくなった。

P118 討論の過程でルターは「公会議も間違うことはある」と発言することになり、ここから、聖書のみを真理とする方向につながった。

P119 これ以降、ローマに対するルター側からの下品な攻撃が行われるようになり(頓馬な教皇、悪魔の頭目たる教皇、といったカリカチュア、「教皇は反キリスト」など)、ルターもそれに加担した。

P124 教皇側の攻撃に対してルターはかなり攻撃的、挑発的。「悪魔的涜神行為を直ちにやめろ、キリストの名において永遠の罰を与えるぞ」と。(そりゃあ教皇側も反キリスト呼ばわりするわな。大分、当初の状況から離れてルター側も感情的になってる感じ)

P127 ルターのドイツ語は新約は10週間で完成。しかし、ドイツ語訳としては初めてのものではない。

P134 キリスト教の習慣が聖書に定められているかどうかに従って検証すると、秘跡のうちで残るのは洗礼と聖餐だけ。それすらも何の実際的効果もない象徴。ツヴィングリ(ルターと並ぶ改革指導者)の合理的なキリスト教ではこうなる。

P138 信仰行為において人間には頑張る余地がある、と考えたトーマス・ミュンツァーはルターとも対立し、ザクセン諸侯が彼から離れた後は王族とも敵対して、扇動し農民戦争を起こした。ルターは教皇以上に彼らを憎んだ。ルターの言うキリスト教徒の自由は内的な自由だったが、農民たちは荘園領主からの自由、年貢からの自由と受け取った。

P141 扇動された農民や、都市の徒弟職人などは放火や略奪に走り、1000以上の修道院や城が灰燼に帰した。農民団はボコボコにされてミュンツァーは斬首。

P141 農民から仲介を頼まれていたルターは「農民の言ってることは大体正しいよねー。暴動の責任は領主にあるよねー」とか言ってたけど、暴動が広がってくると、「狂犬の如き農民は打ち殺して良い。それは神の嘉し給うところである」とか言い出す。「片っ端から打ち殺せ、刺し殺せ、絞め殺せ」。「農民はぶっ殺していいよ。もし罪のない農民がいたら神が守ってくれるだろうから」。

P143 この件でルターは、誰かが何らかの統率は取らなきゃダメだな、と思い、とはいえ、牧師は「言葉に奉仕するもの」だから任せるわけにはいかないので、結局、目に見える組織として、領主に任せることとなった。領主は教会の秩序を維持する使命を負う一種の司教。ルター的国家教会の基礎。

P154 皇帝カール五世は宗教改革を差し止めようとしたが、それに対して一部諸侯が抗議し、この時の抗議以降、彼らはプロテスタントと呼ばれるようになる。プロテスタントは政治力を強化するため、プロテスタント内で対立しているルターとツヴィングリを和解させようとしたが、どちらも頑固者なので政治同盟は成功しなかった。

P155 カール五世はトルコに対抗するためにカトリックで一致したかったけど、プロテスタント側は「宗教問題では多数決でなく各自の考えに従うべきである」と主張していた。

P162 皇帝は和解させようとするし、プロテスタント側の代表者(メランヒトン)も譲歩する気があったけれど、ルター(破門されてるので交渉のテーブルに登れない)が「妥協はキリストと悪魔との和解だ」とか言って結局、譲歩されなかった。プロテスタント側の信条を穏健に表現したメランヒトンの『アウクスブルク信条』もルターは卑屈呼ばわりしている。(でも現在でもルター派では用いられている)

P166 ヘンリー8世は離婚問題に関して、ローマと反目する。最初は教皇から結婚の許しを得ておきながら、それを聖書を元に無効とみなさせ、さらに聖書を元にすればアウトであるはずの再婚を教皇に認めさせようとするという無茶苦茶ぶり。結局、結婚はイギリスの総大司教クランマーによって認められた。

P170 教皇はヘンリー、アン(再婚相手)、クランマーを破門するも、ヘンリーは「王とその後継者をイギリス教会の地上唯一の首長とする」と議会で決定し、教皇と断絶。教皇のポジションに(国内において)取って代わった(皇帝教皇主義)。これを認めない臣下は殺すぞと脅した。前宰相のトマス・モアなんかは脅しに屈さずに斬首されてる。

P172 ヘンリーは抵抗した修道院を潰して資産を奪ったり、400年も前に死んだトマス・ベケット(王権に対して教会権の有利を主張し、王によって暗殺された)を大逆犯人として告発し、聖遺物を破壊したりもした。さらにはアンとも「無効」として離婚している(クランマーは王の言いなり)。更にはルター派を攻撃してカトリック寄りになるなど、とにかくムチャクチャ。

P176 再洗礼派の起源は不明。他とは独立に生まれたとされる。ルターは「狂信徒」と一括。彼らは領主と教会との一致を否定し、自主的な参加によってキリストに従おうとする小さな共同体を作った。加入儀礼として再洗礼。

P179 過激な再洗礼派は聖画破壊などをやらかして、司教の仕向ける軍隊と戦って勝ったり負けたりしている。ミュンスターに「王国」を作ったり。

P184 カルヴァンによれば人間の働きは救済に役立たない。人間は悪を自由に選択することによって永遠の不幸を自ら決めることもできない。原罪を引き起こしたのも神で、神の<恐るべき予定>は素直に認めなければならない。永遠の罰を免れる人間の幸運は、本人の行為や信仰のおかげではなく、救い主の功徳。選ばれた者は、神に知られ、教会という共同体に属しているという自覚を神によって呼び覚まされ、この教会は聖書の教えどおりの生活形成、純粋な福音宣布、キリストが導入したとおりの人間の手の加わらぬ秘跡の運用、教会の戒律をとおして目に見える教会となる。聖餐はツヴィングリの言うような象徴ではなく、救われぬものは物質(単なるパンとぶどう酒)を受け取るだけだが、信者は天において父の右に坐す体を霊的にしかも真実に受け取る。(このへんが「カルヴァンはルターに比べてより狂信的」と言われるあたりか?)

P187 マルティン・ブツァーはルター派とツヴィングリとの間、再洗礼派と領邦教会との間、宗教改革とカトリックとの間の妥協に努力した。(尖った頑固者が多い中でこういう人もいたということか)

P188 カルヴァンが音頭を取ったジュネーブでは、異端審問法定で拷問や極刑が行われ、密告がなされ、祝日もなく、トランプ、演劇、ダンス、飲食店が禁止される、暗く重苦しい社会となった。(上のカルヴァンの考えを実際に実行に移すと、こんな感じでロクでもないものになったということか)

P190 もちろんジュネーブにも反対者がいたが、カルヴァンは反対派を撲滅し、神学上の反対者をガンガン処刑した。(ろくでもない改革者だ……)

P198 ネーデルラント(ベルギーやらオランダのあたり)のプロテスタントを生温いと感じたカルヴァンは、彼らをニコデモの徒(信仰を隠しちゃう惰弱者)と呼び、一人の説教師を派遣した。説教師は焚刑で死ぬ。(共産主義を広めるために、オルガナイザーを送り込むかのようだ……)

P203 ルター派教会の巡察記録によると、宗教改革があっても、民衆においても牧師の間でも以前のカトリック教会の悪弊に比べて特に改善はない(この悪弊というのが何を指しているのか曖昧)。宗教改革の勃発は政治的要因が働いており、それはかなり強いけれども、内面からの運動でもあったことは確か。カトリック教会の制度や秘跡の行き過ぎた強調に対して、個人的な宗教体験や神との個人的結びつきを求める願いであり、あまりにも非人格的になった神学的思弁に対し、聖書の直接的な生きた言葉を求めることであり、日常生活に活かせる言葉の解釈と誰にでもわかる礼拝への要求であり(母国語への聖書の翻訳やわかりやすい典礼)、あまりにいかめしい聖職者中心主義に対し、兄弟的共同体を求める願いであった。

P219 教会側はルターを「教会の教える聖書の解釈をないがしろにし、聖書を恣意的にねじ曲げた」として、また、ルターの主張は既に教会によって否認されてきたものであり、コンスタンツ公会議でフスに対する訴訟の過程で断罪されたものと勅書でみなした。が、ドイツでは教皇勅書に対する尊敬の念がひどく下がってたので、大して広まらなかったし、ルターの断罪に対し、学生は暴動を起こしたりした。

P222 中世の法によれば、破門を受けた者は帝国追放処分(国家の保護外に置かれ、市民の権利を奪われる。実際にどのような生活になったのかは要資料収集)だったし、皇帝もその方向でルターを処分しようとしたけど、ザクセン選帝侯なんかは公然と無視して、そのうち、皇帝もフランス戦争にかかりきりになって、なあなあになった。(教皇の勅令も皇帝の勅令も無視されまくってる)

P227 皇帝側は武力に訴えて、ザクセン選帝侯などのプロテスタント陣営を打ち破ったが、その地がカトリックに戻ることはなかった。さらに皇帝と教皇の関係が悪化したために、勝利の余勢を駆ることもできず、結局、次の公会議まで、暫定的にこれでいきますよ、という形で、いくらかプロテスタントに譲歩したカトリック寄りの規定を表明するに終わった。

P234 カトリックとプロテスタントの和議が行われ、領邦君主が、自分のところをどっちにするか選べるようになった。臣下は移住権も得られたが、後に放逐されるようになった。当時の人々はこれを「怪物そのもの」と見ており、教会の統一を妨げるものと考えた。カトリック側はこれが譲歩できる最大限度と考えたのに対し、プロテスタント側は拡大と征服の第一歩と見ていた。

P237 イングランドではヘンリー8世の政策の反動で、メアリがカトリックに引き戻そうとしてプロテスタントをたくさんぶっころした。これにより彼女は「血まみれメアリ」と呼ばれた。

P241 メアリの後のエリザベスはさらに揺り戻しが起こって、プロテスタントの礼拝に参加しないものや、カトリックのミサを行うものを終身刑にしたり、後には死刑にしたりしてガンガン根絶やしにしていった。

P243 カトリック側もエリザベスを暗殺しようとしたし、エリザベスも教皇暗殺を企んでた。

P250 フランスでは教会や修道院が襲撃され、殺戮されたが、ジュネーブからやってきた説教師はこれを賞賛した。(カルヴァン派はテロリスト集団じゃねーか)

P256 フランスではユグノー戦争が繰り返し起こってプロテスタント陣営とカトリック陣営でゴタゴタしたが、最終的にはフランスはカトリック国となり、しかし、ユグノー側にも大分譲歩することにした。教皇はこの譲歩案を非難した。(程々に譲歩すると誰かしら文句を付けてくる)

P260 ドイツでは、カトリック側からどんなに優れた善意にあふれた護教論の著作が書かれても、プロテスタント陣営のだれひとりの心も動かせなかった。そもそもラテン語で書かれてたからほとんどの人には読めなかったし、ルターなんかの木版画付きのドイツ語パンフレットなんかには勝てなかった。

P262 ヒューマニストのエラスムスなんかはルターとやりあったりしてたが、数年もすると争いから身を引いた。「論争癖のしるしを帯びた真理よりも、平和と協調の方が尊重すべきものであった」ため。(分かるなー)

P266 エラスムス主義者と皇帝が音頭を取って両派を調停しようとし、和解の雰囲気の中で会議は行われたが、公会議の不謬性、教皇の首位権、告解などをプロテスタントが認めず、しょうがないので、それまで妥協に達したところだけでも承認を取り付けようとしたが、ルターも教皇もどっちも拒否したので何の意味もなく終わった。(両派とも本当に頑固だな! 話が全く進まないぞ!)

P281 イグナティウス・デ・ロヨラは、学友たちとエルサレム巡礼に行こうとしたけど、果たせず、んじゃあ、教皇の指令どおりに動こうぜーとなったが、教皇から仕事を与えられつつも、バラバラになるのを防ぐために修道会を作った(結局、この仕事はどうなったのか? 修道会でそれらの仕事に当たることになったのか?)。それがイエスズ会。この時のイグナティウスの学友にフランシスコ・ザビエルもいる。会則により、教皇が決定するところならトルコでもルター派地域でもどこでも赴く義務があるとしている。上官の命令に服従するピラミッド型の軍隊的な組織。(とはいえ、カトリック教会のイエスマンではなく、プロテスタントへの攻撃よりも、カトリック内部の改革を重視し批判などもしていたとウィキペにはある)

P283 イグナティウスが死んだ頃には、イエズス会はガンガン広がっていって四大陸に及び、会員数も先人を超えていた。ザビエルは中国大陸を前にして死んでいる。イエズス会は司祭像としては模範的で素晴らしかった。これがカトリック側からの巻き返しの一手。

P286 一方で教皇のパウルス三世も教皇庁の改革に乗り出し、これまでの問題点をピックアップした。ルターにすっぱ抜かれたり、内部で抵抗などあったりして、それの多くの部分は実施されることなく単なるプログラムにとどまったが、いくらかの改革は成功した(司教の定住義務の厳格化など)。

P294 パウルス三世はローマ帝国皇帝からの要求もあって公会議を開こうとしたが、フランス王が政治的配慮からこれを拒否し、シュマルカルデン同盟も非協力的で、その上、開催地まで教皇に対してナメた態度を取るなどして、結局、開かれたのは9年後となった(トリエント公会議)。

P296 トリエント公会議では「信仰に関する決議」と「改革に関する決議」が並んで審議された。つまり教義問題と教会改革問題。後者に関してはプロテスタントは「修道院制度の廃止」などの徹底的な破壊を考えていたが、公会議側では教会の悪弊の除去などであった。

P308 トリエント公会議にはプロテスタント側も出席したけど、彼らはそれまでの議決の再審議や、教皇よりも公会議の方が上、などの条件を出したので、皇帝でさえ、こりゃあダメだ、とか思ってた。そうこうするうちにフランスと同盟を結んで南ドイツに攻めてきたので、公会議はお流れとなった。(プロテスタント、まじやるきない)

P320 公会議では免償の問題も取り上げられたけど、問題の発端となったこの項目は今となってはかる~く取り扱われただけだった。

P322 トリエント公会議では、信仰上の一致という当初の目的は果たされず、プロテスタントは歩み寄ることさえ拒否したし、教義が明確化されたことで分裂は深刻化さえしたが、これによってカトリックの信仰は救われた。

P323 トリエント公会議で、義認がもっぱら恩寵として与えられるだけでなく、人間の意志は完全に不自由でないことが宣言されたことで、人々の道徳生活にとっても大きな意味を持った。また、原罪とは悪への傾きであるという考え方を退けることで、カルヴァン主義において完全に根絶すべきとされた人間の心に住むさまざまな傾向や欲求を完全に非とすることから免れることができた。情熱など、自然の本性そのものは罪ではないとされる。(カルヴァンにおいて情熱などがどのように解されていたのかをプロテスタント側の書籍で確認したい)

P342 公会議後、教皇庁は反宗教改革や教会の改革に努めたが、ピウス五世なんかはその一環として謬説の絶滅のために宗教裁判を活用し、異端者を処刑したりしている。

P395 ザクセン選帝侯領のルター派はクリプト・カルヴァン主義(カルヴァン派に近い主張を取り入れたルター派)に対する過酷な弾圧を加えた(プロテスタントは身内同士でもゲバってる)。この領邦ではカルヴァン主義よりは教皇主義の方がマシと言われていた(プロテスタントも全く一枚岩ではないな……)。

P397 英国国教会は立派な典礼や、聖歌やオルガン演奏、主教制度、十字を切ることなど、教会が国王の指導下に置かれたことなどあったため、プロテスタントの人たちはここにカトリックの残滓を見て反発し、ピューリタンと呼ばれるようになった。彼らは人間と神との間に障壁を設けずに、徹頭徹尾聖書に忠実な教会と純粋な宗教的生活を築こうとした。(英国国教会がカトリックっぽかったからムカついた人たち→ピューリタン)

P399 <カトリック化された>典礼がスコットランドに導入される段になって暴動が起こる。反国王勢力はクロムウェルが指導し、国王は処刑された。クロムウェルは主教派とカトリックを弾圧した。

P411 16世紀初頭には聖書のラテン語以外への翻訳を禁じるなど誰一人として考えなかったが、トリエント公会議後、スペイン異端審問裁判所は『禁書目録』で聖書の各国語への翻訳を禁じた(聖書以外の霊的書物(具体例不明)も禁じられたらしい)。フランソワ・ド・サルというジュネーヴの司教は「無分別な大衆は、聖書を読むことによって、自己の願望に好都合な結論を引き出す」と言っている。(一般には逆に「聖書を庶民に読ませないことで聖職者が好き勝手に教えてきた」と目されている。どっちもどっちで警戒してたのか)

P423 民衆からの搾取などのローマ教会内の弊害が宗教改革の本質的原因であったと考えるのは単純化しすぎる話で、現に、そういうことがまだ続いている地域がプロテスタント地域のかたわらにありながらも、そこはカトリックにとどまっていた。

P430 当時の彼らにとって宗教の多様性というのは、せいぜい「領邦が属している人に宗教もまた属する」であって、それぞれの支配地域ごとに違った宗教が認められる、程度の認識だった。それぞれの支配地域には宗教的統一が必要であった。ナント勅令(プロテスタントにも結構権利を認めちゃうよ)は政治的、心理的、文化的に、カトリック、プロテスタント双方にとって耐え難いものであった。

P463 トルコ帝国では、キリスト教徒の礼拝はなんらの規制を受けなかった。(そりゃそうだよな。啓典の民だもんな。にしても、キリスト教地域がプロテスタントとカトリックの併存も許さぬ勢いだったのに比べると何と寛容な)

P464 ただし、ここでいう寛容とは、イスラム以外の思考や生活様式を軽蔑していたために、不信者(キリスト教徒)の純粋に宗教的な諸問題に関わりたくない、という意味だった。時々は圧政や迫害にもつながった。(本書がカトリック寄りであることは留意しておこう)

P464 セリム一世はイスラムに改宗しないキリスト教徒を皆殺しにしようとしたし(失敗した)、それでも教会をモスクにしようとした。教会をモスクに、はその後も何度か起こる。さらにキリスト教徒の子供が奪い取られてイスラム教徒に無理矢理改宗させられて戦闘訓練を受け、イェニチェリ軍団に育てられたりした。

P482 ルター派は、東方教会は西方カトリックく教会よりマシなんじゃないかと考えていたが、東方の総主教は「決定的な諸点において相容れない」と回答し、ルター側もカトリックと特に変わらないな、と判断する。

P483 総主教キュリロス・ルカリスはカルヴァン主義的であった(彼の死後、その傾向は途絶える)。これに対し、正教側の回答として『正教信条』が著されたが、これはラテン教会からの影響を受けたものだった。

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