平凡社
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これ↑を読んでの自分用メモ。
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P20 デキウス帝とウァレリアヌス帝の迫害の後、原則的には依然として禁じられた宗教であったが、キリスト教は人目をはばかる必要もなくなっていた。存在が既成事実化していた。最後に迫害しようとしたのが、303年~のディオクレティアヌス帝の迫害。
P37 303~304年にディオクレティアヌス帝は4つの勅令で迫害を行う。1、礼拝の禁止(これ以前にキリスト教とは公職から締めだされている) 2、聖職者の逮捕 3、かんてん、供犠式への同意で投獄者を釈放 4、すべての住民は神々への犠牲を捧げること、でなければ処刑、流刑
P38 ディオクレティアヌス帝の迫害の動機はよく分からない。狂信的な異教社会からの圧力の結果、と本書は書いているが意味はよく分からない。エウセビオスは副帝ガレリウスの役割を強調、とあるがこれもよく分からない。
P40 ディオクレティアヌス帝の後を継いだガレリウス帝も迫害を続行。彼は異教徒。
P41 ガレリウス帝は政策の失敗を認め、死の6日前に「キリスト教徒のキチガイどもめ!」と思いながらも寛容勅令を発する(311年)。続くマクシミアヌス・ダイヤがこれを実施するも、途中で彼は迫害を再燃させる(が、すぐ終わる)。312年には寛容に立ち戻る。
P44 リキニウスや、ダイヤを破ったコンスタンティヌスはキリスト教に対しかなり好意的。コンスタンティヌスは少なくとも死の直前には洗礼を受けている。
P46 キリスト教徒が初めて最高の職責に就き、313年には異教的行為(私的な供犠、魔術、個人の家庭における腸卜)が禁じられる(コンスタンティヌス帝の生前のこと。まだ国教ではなく公認化の段階だったと思うけど(要確認)事実上の異教行為の迫害?が始まっていた??)。
P48 ユリアヌス帝の一時期を除き、その後の皇帝はキリスト教シンパであり続け、どんどん事実上の国教と化していき、391年には異教は決定的に禁じられた。(自分たちも迫害されてたくせに、黄金律から何も学んでないね!)
P56 本人もキリスト教徒である皇帝は、自分が、人類をキリスト教へ導くように神から招かれているのを感じる。現世的安楽を与える以上の責任を感じる。なので、教会会議とかも主唱するし、自分でも問題にコミットする。(という面がある、くらいのニュアンスで受け取るべきか)
P58 四世紀。皇帝は教会を味方するが、それでも教会の権威はまだしばしば抵抗され失敗する。
P60 コンスタンティヌス帝の時代になって迫害が終わると、迫害中に妥協的な態度を取った司教などが互いに告発しあって放逐しあったりしてた。(外敵がいなくなると途端に身内で争いはじめる典型例か。いや、迫害中も身内争いはあっただろうけど)
P62 ドナトゥスさんは、「司教のあいつは迫害中、気合が入ってなかったな。あの裏切り者が推したあの司教は無効だ」と言って、その司教から受けた洗礼も無効だとして、自分側に来た信者に再洗礼を施した。
P63 ドナトゥス派はコンスタンティヌス帝を議論に巻き込んで、結果、皇帝はドナトゥス派に対し厳しい法令を出すが(ヤブヘビ!)、ドナトゥス派は派遣された軍隊にも抵抗して、皇帝側がついに根負けし、寛容政策へと鞍替え。
P63 その後も皇帝が変わるごとに(または同じ皇帝の間に)寛容政策と弾圧が繰り返されて、時にはキリスト教徒を分裂させるために寛容政策を取ったりもした。
P64 正統派はドナトゥス派を「放浪無頼の徒」と呼んでた。実際、ドナトゥス派の突撃隊はカトリックの司祭を殺したりしてたみたい。脅して借金を帳消しにしたり、弱者を保護したり。領主の馬車を止め、領主の席に奴隷を乗せて、領主を走らせたり。(なんか傾奇者みたいだ)
P65 ドナトゥス派は気合が入りすぎていて、正統派を「あいつら気合が入ってない」「妥協的だ」といい、殉教を賛美し、むしろ他人に依頼して自分を殺させるようにしたり、敵対するカトリック教徒に対立したり、集団自殺したりしてた。クレイジー。
P72 アレイオスは御子従属説。「いや、御言葉もスゲーんだけど、とはいえ最初から存在しているのは御父だけだから、御子はあらゆるものよりも先に存在してたけど、神の完全な被造物だけど、御父の存在の方に優位性があるよね」。
P73 アレクサンドレイアの会議では「アレイオスはダメだろー」となって破門。しかし、アレイオスは食い下がって、エウセビオスなどに支持を求め、今度は彼らの会議でアレイオスが復権する。すると支持者たちに対して、またアンチが立ち上がって、で、なんだかもう大変なのでコンスタンティヌス帝が全教会会議(ニカイア公会議)を開催した(けど、集まりには地域差が出た)
P76 で、この結果、「御子は生まれたのであってつくられたものではなく、その父なる神と同じ本質を持つ(ホモウーシス)『真の神よりの真の神である』」というあのよく分からん結論になった。
P77 結果的にアレイオスとその支持者が4名ほど追放された。(この頃はまだ追放で済んでる)
P81 ニカイア公会議後、聖職者たちが互いにあいつはアレイオス的だの、いや、あいつこそサベリオス説に毒されてるだの、ニカイア信条を穢してるだのギャアギャア言ってた時期があった。皇帝が代わったり皇帝の意見が変わったりすることで(どの司教に肩入れするか)教会の生き方に影響を及ぼしていた。
P85 ここからの記述はよく分からない。そのまま読むなら、反サベリオス共同戦線は多数派で、ニカイア公会議の結論に異を唱え、アレイオス派に近い?(しかし「アレイオスに盲従したのではない」とも言っている) サベリオスがどこで出てきたのかよく分からない。サベリオスの様態論に危機感を覚え、これを攻撃することでは一致していたがニカイア公会議の結論にも納得しておらずに、より適切な説明(これがアレイオスに近しい?)を探していたということか?
なんか、「父と子は一緒」「ちょっと違う」でグチャグチャ言ってると、また別の問題がいろいろ見えてきて、「一緒」派の中でもまた色々違ってきて、さらに異端が増えていくみたいな構図か? この辺よくわからないので他の本で補完すべき。
P97 カッパドキア人(ギリシア人ということか?)からはラテン人の三位一体理解はサベリオス説の疑い(様態論)があると見えたし、ラテン人からはカッパドキア人の理解はアレイオス説の疑いアリ(御子従属節)と見えた。(要するにギリシア人からはラテン人の理解は「一緒すぎる」し、逆の立場からは「別々すぎる」と見えたということか。くだらねー。ようやっとこれまでの流れも理解できた気がするんだけど、反サベリウス共同戦線ってのはギリシア側の動きで、ラテン側(西方)はニカイア公会議の結論でイイんじゃね、ってなってたけど、ギリシア側は「あれはサベリウウス派だろー」って警戒してたってことかな)
P98 379年、東方が西方と足並みをそろえる。
P101 388年 アレイオス派のための寛容令を排除。違法行為となった。
P106 こーいう三位一体のうだうだした議論もあったけど、四世紀は別にそれだけやってたわけじゃなくて、修道制とかも発展したんですよ。
P106 迫害されてた頃は殉教があったけど、平和になっちゃうと安楽すぎて緊張が弛緩する。ということで、現世から逃れることが好ましい条件とされた。赤い殉教(迫害によって血を流す殉教)と、白あるいは緑の殉教(世を捨てた生活、苦行の生活によって達する殉教)の区別。
P108 犯罪者や借金取りに追われる人が社会から逃げ出していたけど、迫害されてた最中のキリスト教徒もそこへ逃げ込んでたし、修道士は霊的な動機からこれを行った。(一種のアウトローな社会が、一般的な社会の外側にあったということか?)
P111 黙想、聖書の吟唱など。祈りは瞑想に至り、神秘主義体験への準備となる。
P113 「修道者の父」であるアントニオスさんが引きこもってたら、カッコイイナーと思って色んな人が訪問に来て、まあ大体はそのまま世間に帰るけど、ある人は感化されて、アントニオスさんをお手本にして、近くに住んで生活様式を真似始める。
P113 最も古く基本的な形態は、一人の老聖者を師として、その人の独房の近くにそれぞれ独房を作って、一人で住んで一人で働いて黙想する。毎週土曜と日曜は共同の礼拝を行う。アントニオスさんの生存中に作られたシステムで全エジプトに広まった。
P116 しかし、このシステムは個人主義的になりがちだし、物質的にも人が増えてくると厳しい。パコミオスさんは323年に共同体を作った。いわゆる修道院のイメージのアレ。このタイプの修道院もやっぱり全エジプトに広まった。各修道院の横の繋がりもできて、総会長がまとめ、総会も開かれた。
P120 バシレイオスが新しい修道制の観念をもたらす。隠修生活ではなく、使徒行伝に描かれるような初代キリスト教徒の生活の図を理想として与える。(よく分からない。アウトローではなく、社会の一部として共同体が認められたということか?)
P120 そんな修道院制がなんのかんので西方にも伝わった。
P149 385年、プリスキリアヌスが破門され、皇帝により処刑された。世俗権力の手で殺害された最初の異端者。
P151 四世紀の終わりになると、キリスト教徒は異教の礼拝所を破壊し始めた。389年のアレクサンドレイアのセラペウム神殿など。神木を切り倒して燃やしたりする宣教者が聖人に列せられる。
P163 ユリアヌス帝がキリスト教抑圧政策を取った時には既に時代錯誤的であって、異教徒側の世論も「やりすぎじゃね」って感じになってた。この時から知的エリートとキリスト教信仰の間に対立はなくなった。
P164 基礎的教養としてのホメロスとウェルギリウス→聖書の研究と黙想、民衆を前にした語り物→聖書中の預言、演劇→華麗な典礼、数奇なものを求める感情→旧約外典や聖人伝と、取って代わった。
P164 古典詩人のテキスト解釈→聖書釈義学、修辞学→説教、弁証法→論駁、哲学→神学と諸技術を受け継ぐ。
P166 というわけで、キリスト教が一般化して数が増えたことで大物の思想家もバンバン現れてきて、四世紀から五世紀初頭は教父の黄金時代となる。
P188 四世紀末に聖人や殉教者崇敬がヒートアップした。病気治癒とか奇跡譚とかのレベルで。カトリックも民衆がこういう手に触れられるレベルでの具体的な宗教を願う気持ちを歓迎すらしていたらしい(殉教者の聖遺物も崇敬の的となった)。なお、死者が死後に英雄となる、それを拝もう、というのは異教の伝統的習慣らしい。
P202 キリスト教が立法に与えた影響として、姦通に対する厳しい態度、といったいかにもキリスト教的なものもあるが、奴隷の生活改善や牢獄の生活環境改善などの面もあった。
P205 キリスト教徒が不当に扱われる少数者であった頃は、戦争などの色々な問題も異教徒が解決してくれてたが、そうはいかなくなった。社会の少数だった頃は「汝、殺すなかれ」を忠実に守っていられたが、大多数になった以上、兵士になることを拒むこともできなくなった。
P206 314年、教会会議で脱走兵の破門が規定される。一方で、370年代においてさえ、バシレイオスは、手を血で汚した兵士に三年間の改悛を勧めている。
P214 病院などの弱者救済システムはなんだかんだでキリスト教的意識から出発し、教会がリードしてきた(コレに関しては大きく外れてはいないだろうが、一応他の書物を読んで比較したい)。
P222 西方と東方の溝が深まっていった。中間地点の場所が異民族の侵入を受けて交流がしにくくなるなど(ここでは溝が深まった諸原因を記述しているようだが、どうも何がどう諸原因になっているのかイマイチよく分からない)。
P234 アポリナリオスは、人間は肉体と精神の相反する傾向によって罪から免れ得ないのだから、キリストの場合は、神的な魂あるいは精神が肉体を指導していると考え、「肉となられた御言葉の本性は唯一である」とした。(あの訳の分からん、何がしたいのかも分からん、キリスト論も、こういう考え方を踏まえてのものとされると、ちょっと納得できる)
P235 アポリナリオス説をもっと極端に推し進めたポレモンは同一実体説(ロゴスと神的なものになった肉体との完全な本質的同一性)を公言した(と言われても、アポリナリオスと何が違うのか分からない)。
P238 ディオドロスはアポリナリオスに対して、神の子であることと、マリアの子であることを区別すべき、という立場に立った。区別しても分裂するわけではないけれど、その点はいまいち明確に説明できなかった。
P240 ディオドロスの弟子のテオドロスは、神性と人性を区別しつつ、それでも一緒のものだというために「結合」という言葉でそれを説明しようとした。
P242 ネストリオスはマリアを「神の母(テオトコス)」と呼ぶことを否定した。単に、一人の人間を生んだのだから。
P248 ネストリオスはキュリロスから異端宣告され、対してネストリオスも反撃し、双方に司教や宮廷へ工作が行われて、問題調整のためにエフェソス公会議が開かれる。
P249 しかし、キュリロスは敵対陣営や教皇使節が来る前にフライング開催し、出席を拒否したネストリオスを異端宣告して罷免、敵対勢力はキュリロスを罷免しようとするが、キュリロス側は敵対勢力34名を罷免。結局、ネストリオスもキュリロスもどっちも罷免されて逮捕され幽閉される。(アホか)
P252 結局、ネストリオスは罷免、追放されたが、他に人たちは元の立場を取り戻して、双方に和解。アレクサンドレイア側(キュリロス)はネストリオスの断罪と引き換えに、アンティオケイア側の作った信仰告白(といってもアンティオケイア側バリバリという感じでもなく、両派を総合したものらしい)を受け入れた。「結合」という言葉は「一致」という言葉にとって代わられる。
P255 その後、447~448年に反ネストリオス派のエウテュケスが単性説を唱える。ネストリオス説とは正反対に、受肉に関して神的側面を強調しすぎて、人間的側面を無視する。
P256 エウテュケスは断罪されたが、その後、エウテュケス側は公会議(「盗賊会議」)で脅しなどを使ってネストリオス派をまとめて罷免するも、皇帝の代替わりでぐちゃぐちゃあって、カルケドン公会議が開かれ、「盗賊会議」の文書は廃された。
P258 最終的には教皇レオの『フラウィアヌスへの手紙』と本質的に同じ、以下の信条にまとまる。「唯一・同一のキリスト、主、ひとり子として、二つの本性において混ぜ合わされることなく、変化することなく、分割されることなく、引き離されることなく知られるお方である。この結合によって二つの本性の差異が取り去られるのではなく、むしろ、おのおのの本性の特質は、保持され、唯一の位格、唯一のヒュポスタシスに共存している」。(なんという面倒くさい結論だ……)
P262 カルケドン公会議の結論をエジプトの教会は受け付けず(エジプトの総大司教が単性論派の大物だったので)、反カルケドン派はエジプトの国家宗教的な様相を見せた。この頃、正統派の派閥の総大司教を蹴落として反カルケドン派が総大司教になったりして、取り返すのに軍隊を用いたりし始めた。逆に正統派が暗殺されたりもする。(会議でそうと決まっても、ハイそうですか、と従うわけではなかったのは、ニカイアもカルケドンも同じか)
P265 皇帝が代わってカルケドンを弾劾すると多くのカトリックの司教が「そうですね」となって、さらに皇帝が代わると、また元の立場に戻る、といった具合だった。(世俗権威に依存してコロコロ態度を変えてた)
P274 単性説派(セウェロス)は教皇レオやカルケドンの決定や説明をネストリオス派の疑いがあるものとみなした。
P275 「異端って、要は分離も辞さない程の党派心と自己主張の激しさの方が比重はデカイんじゃねーの」と本書は指摘。そうかもしれない。
P276 エジプトの単性論派も分裂していき、過激な傾向に走ったハルカリナッソスのユリアヌス学派は、御言葉のからだは非腐敗性だとか、あれは幻影だとか言うまでに至った(逆にセウェロス派を「あいつら、腐敗するものを礼拝してるんだぜ」と言って腐敗者礼拝派と呼んでバカにしてた)。新エウテュケス派は「キリストのからだは創造されないで存在している」とする。
P277 そのうえ三神論が起こり、さらにさらに四神論まで起こる。
P278 「見方を変えれば、こんな風に色々出てくるのも、元気があって人材が豊富だってことだよね」と本書。そうかもしれない。
P282 553年、ユスティニアヌス帝は正統派と単性説派とのぐちゃぐちゃした状況なんとか宥和させようと、コンスタンティノポリスで第五回公会議を開いたらしく、教皇を誘拐したり強制させたりなんだかひどいものであったみたいだけれど、これの内容がよく分からない。
P284 皇帝は代替わりするごとに、迫害したり寛容政策を取ったりしたけど、結局、単性説派はどうにもならんかった。
P286 単性説派はその後、がんばって、単性説派だけで総大司教を置けるようにして単性説派の教会を作った。
P292 ペルシアはネストリウス派となって、正統派教会と距離を置いたが、こっちもこっちで内輪もめだの破門だのとぎゃあぎゃあやってた。
P311 メッサリア派なる異端は肉欲と原罪を区別せず、情欲は魂に住み着く悪魔の仕業とし、禁欲生活と祈りに頼ろうとする。エフェソス公会議にて排斥。
P318 コンスタンティヌス帝以来、ユダヤ教はかつてのローマ帝国から受けていた優遇措置(公認宗教)と対照的な抑圧政策を受けていた。六世紀前半には、異教徒に対して拷問や火刑を伴う訴訟が起こされていた(罪状など訴訟の詳細が分からないが。純粋に宗教的な原因なのか?)。
P333 キリスト教世界全体は、ローマ、コンスタンティノポリス、アレクサンドレイア、アンティオケイア、エルサレムの5つの総大司教区に分割されたが、後にコンスタンティノポリスにローマと同等の権威が与えられ、ローマ教皇とコンスタンティノポリス総大司教の二頭政治が始まった。
P344 東方では、聖画像(イコン)が6世紀後半に発達。最初はそれに対して祈ってたが、後に聖画像自体に執り成しや奇跡を起こす力があるとされる。これはローマ帝政末期の皇帝の肖像に対する崇敬を宗教的次元に移し変えたもの。初期のキリスト聖画は存命中の尊者をモデルにしたものすらあった。
P347 4世紀末のアウグスティヌスなんかは「なにやってんの」って感じだったけど、6世紀後半には東方では当たり前のものになってしまった。
P352 五世紀初頭、ペラギウス説が起こる。本書いわく、パウロの教義的側面を過小評価し、パウロが控えめに書いている(のかなあ?)倫理的側面を強調、神の掟に従うという面ではユダヤ教主義的に舞い戻っている、とのこと。(パウロが倫理面を控えめに書いたというのはどうだろう?)。これに対抗したのがアウグスティヌス。
P353 ペラギウスの完徳主義は責任と自由の役割を重視したため、(おそらく自己裁量とは関係のない、という意味で)原罪の概念を過小評価し、遺伝説(とはなんだ?)という単純で物質的な形で把握した。
P357 ペラギウス派のユリアヌスによるアウグスティヌスへの攻撃を本書は「揚げ足取りの詭弁」と呼んでいるが、まったく真っ当な物言いに見える。
P361 アウグスティヌス説を硬化させた陣営は、今度は救霊予定主義と呼ばれて断罪される。(こんな展開ばっかりだな。別の「異端(?)」を弾劾してると極端寄りになって、こちらもまた異端視されるという)
P376 ゲルマン人はラテン系諸国やアフリカを征服した時に既にキリスト教徒になってたけど、アレイオス派だったので不和が起こり、特にヴァンダル王国がアフリカでカトリックを迫害した。とはいえ大部分の西ゴート王はカトリックに寛容だった。
P388 五世紀に「蛮族に侵入されたのは先祖伝来の宗教を捨てたせいだから復活させようぜ」という動きが起こった。コレに対してアウグスティヌスが『神の国』を書いたらしい。
P396 428年の段階では、司教が一般信徒と違う服を着てたら、教皇(ケレスティヌス一世)がお叱りの手紙を送ったりしている。(この頃は一般信徒と変わらない服装だった?)
P407 教会を建てた人物の名称で教会を呼んでいたが、それに全部聖が付く。聖人崇敬は聖人とゆかりある事物が保存されている聖所への巡礼、または聖人と関係ある聖遺物崇敬という形を取って現れる。
P407 カタコンベに埋葬されている普通の信徒を殉教者ということにして、想像に基づいて伝記を作って読み物にしたりした。
P426 ランゴバルド人の脅威からビザンティン帝国の総督はローマを守る余力がなく、教皇が自力で和を結んで、公共事業や貧民救済まで乗り出すことになり、これが教皇領の魁となる。ローマ以外の箇所でも教会が世俗制度の代役を務めることが多くなり、キリスト教的社会が生まれる。
P455 改悛の秘跡(告解)が何度も行われるようになったのはアイルランドの修道院から発したもの。589年、スペインのトレド公会議などではそのような習慣は信徒を躓かせるものとして非難されていた)
P456 これの実際は『贖罪規定書』により法律のように決められていて、たとえば、殺人や姦通を犯した人はパンと水だけの生活を数年間続ける、など。
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