ヘブル人への手紙
・ウゲェー。なんだこれは……。旧約からの引用ばっかりじゃねーか。旧約の文脈を確認するのが面倒臭いぜ。しかも、相変わらずの文脈無視した好き勝手、改竄し放題の引用だしよー。つーか、1章とか「天使よりキリストがえらい!」しか言ってねえじゃねえか。(キリストは天使ではない、と強調したいのか?)
・しかし、新約に見られる旧約文書の無茶苦茶な引用は、僕ら部外者は「昔の人は無茶苦茶ですね」で終わりだけど、信者の人たちはどうしてるんだろうな。これに説得されなきゃいけないんだろ? この無茶苦茶な引用のこれに。そりゃ「新約聖書は神の霊感に導かれて~」くらい言わんとどうにもならんわな。
・ヘブ1-2で「神はキリストを介して世を創った」とあるけど、これってヨハネ福音書的な考え方の系譜なのかな?(キリスト=知恵)
・ウギギギギ、旧約の引用文での指示代名詞が指すものと、ヘブル~で指す相手が違うううう。混乱するじゃねーか、クソー。2-12(いや、詩篇の方をダビデと取らなければそれほど無理もないか?)
・ヘブ2-2~「律法に不従順なやつらがふさわしい報いを受けるなら、(キリストによる)救いをおろそかにするやつが報いを逃れられるわけがない」 呪いとしてのキリストイメージ。救いと呪いは表裏一体。
・ヘブル人への手紙は論理的に話を展開しようとしている分、牧会書簡よりはマシだが、いかんせん論理展開の根っこにあの無茶苦茶な旧約引用があるので、論理的にも読めないという点がネック。完全に旧約のことを忘れた方が読めるかもしれない。
・神学的にはなかなか面白くて牧会書簡などと違ってちゃんと内容もあるんだけど(終末以後の世界の支配者は天使ではない、イエスは自身が死ぬことによって死の力を持つ者(悪魔)を滅ぼした等)、なんかもう2章読んだだけですごい疲れた……。なんだこれ……。
・ヘブ4章きつい……。安息日の意味が3つのレベルでぐちゃぐちゃに使われて論理展開されてる……。神が7日目に休んだという意味と、ヨシュアたちが達したカナンの地と、終末の日を全て「安息日」で一緒くたにしてる。宗教書によくある「明らかにおかしいけど、確かにそう読める雰囲気がする」アレ。
・①「神は七日目に休んだ」を創造を終えた後はずっと安息日であり、キリスト者もその(終末的なニュアンスでの)安息に至れると解釈。②モーセ一行が神をムカつかせて、神が「私の安息に入れない(カナンの地に入れない)」と言ったのを、終末的なニュアンスでの安息に入り損なったと理解。③ダビデの詩とされている詩篇に「今日、神の声を聞くなら心を頑なにするな」とあり、これはカナンの地うんぬんよりも後のことだから、やはりカナンの地に入ったのは完全な安息ではなく、「今日(=いま)」それが行われると理解。
・①~③を総合すると、要するに「出エジプト後のやつらは不信仰でダメだったけど、キリストが来てくれた今となっては私たちは従順に従おうね。すると終わりの日以降の安息に至れるよ」的な話になる。 それを安息というキーワードであっちやこっちを繋げてぐちゃぐちゃやると、このように僕が大変疲労して、嫌気が差すというわけです。もうヤダ。助けて田川先生。
・他人の言ってる訳の分からん詭弁じみた論理を、たぶんこいつはこれを無理にこう理解して、無理にこれと繋げて、きっとこういうことが言いたいんだろう、と考える作業はすごく疲れるというか、不毛な気持ちになる。まあ彼らにとっては詭弁でも何でもなく当時の論証スタイルだったんだろうけど。
・5-6にメルキツェデクが出てきた……。ということは、カナンの至高神(エル・エルヨーン)とヤハウェはやはり同一視されているということか。聖書的にはそれでいいとしても、現実的にはカナンの地の土着の神と習合したことになるんだけどいいんだろうか。(実際はそのものだったのかもしれないが)
・ちょっとこのへん丁寧に見返さないと分からないけれど、かつてのエルサレムの土地(サレム)でエル・エルヨーン(ヤハウェと同一視?)を崇拝していたカナン人がいたとして、出エジプト後にエル・エルヨーンを崇拝していた民を、ヤハウェが指揮して滅ぼさせる、という理屈は成り立つのだろうか?
・エルサレムはヨシュア10章で一度占領され(?)て、そこからイェブス人が占領し、次いでダビデが攻め取って占領したっぽい。となると、理屈上はヨシュアが攻めた時はエル・エルヨーン崇拝は失われていたか、もしくは自分を崇拝する民も関係なく殺したってことになるのか?
・まあメルキツェデクがエルサレムの王であったかどうかも怪しいし、所詮神話なんであまり真面目に考えても仕方ないのかな。ともかくメルキツェデクを認めるなら、モーセ以前にもヤハウェの祭司はいて、しかしなぜかその歴史は断絶してモーセに繋がったことになるんだろうか。
・あー、メルキツェデクがサレムの王であり祭司でもあったから、イエスを大祭司と言いたいヘブル書の著者としては「王であり祭司」であるメルキツェデクを引っ張ってきた、ということか。王の要素は、キリスト=王というユダヤ教の概念を引きずってる??
・しかし、大祭司ならアロンを引き合いに出せばいいのに、なんでメルキツェデクなんだろうな。いや、王であり祭司だから、とさっき自分で言ったけど。アロンの方が遥かに有名だろうに、なんでなんだろう。ユダヤ教の伝統と決別したかったのかな? よく分からん。
・む、メルキツェデクに関してはヘブル7章で詳しく話が進むようだ。少し読み進めるか……。
・ヘブ6-2では、最後の審判や死者の蘇りなんかは「信仰の基礎的なこと」になってるらしい。死者の蘇りなんて、ちょっと前までユダヤ教の方では「最近突然湧いて出てきた変な話」だったのにね(保守派のサドカイ派なんかは否定してる)。
・6-4以下の「いったん脇に外れた人々は、もう一度回心に至ることは不可能」というのが何を意味しているのか分からんけど(信仰を棄てることなのか、キリスト者にふさわしくない振る舞いをすることなのか)、一応これを読むと「いったんやめたやつは復帰できない」という根拠になりそう。
・しっかし、こんなのはまさに呪いだよなあ。「救われますよ」と言って誘っておいて、中に入ったらどんなイヤなことがあっても、「うちから出ていったらひどい目に遭いますよ。それにもう帰ってこれませんし」って。こんなこと言われりゃ、そりゃあやめた人は教会を全否定せざるを得ないよな。
・ヘブ6-9は「聖徒に仕えればいいんだよ」って言ってて、略解では具体例としてエルサレム教会への献金が挙がってるんだけど、これを全部総合すると、「うちに来れば救われますよ。でもやめたらひどい目に遭いますよ。一度やめたらもう復帰できませんよ。救われたければ金払え」となって最悪なんだが。
・うわっ、これはムチャクチャだなぁ……。メルキツェデクの詳細が出てきたんだけど、思った以上にムチャクチャな論理展開だったでござる。断言できるが、聖書はごく常識的な感性をもった現代人が納得できるようなものではない。
・メルキツェデクの正体が訳分からんで混乱していたちょっと前の僕だったけれど、ヘブル書7章はまさにそのメルキツェデクのよく分からん性がポイントだったんだ。
・やっぱりですね。ヘブル書の著者、及びおそらく当時のユダヤ人にとってもメルキツェデクってのは何がなんだか分からんかったんですよ。旧約の説明によれば、アブラハムの子供であるレビの子孫から祭司が出るはずなのに、アブラハム以前からメルキツェデクは祭司で、しかもアブラハムに祝福を授けてる。
・で、あまりにメルキツェデクの正体が謎なもんだから、謎なのに乗じて好き勝手にキャラ設定を行ったわけです。いわく、「父なく、母なく、系図なく、日々のはじめもなく、生涯の終わりもなく、神の子に似せられた人であり、いつまでも祭司として留まる」。もちろん旧約にそんな記述はない。
・「父なく、母なく、系図なく~」はユダヤ系に属さない、くらいの意味かもしれんけど、まあともかく理屈的におかしい「外れた人物」であるのを逆用して、これを「ふつうじゃない人物」として祭り上げたんですね。で、コイツをホンモノだとすると、逆にレビの方がニセモノになる。
・そして、レビ系の祭司がニセモノとなると、イエスはレビ系ではなく「メルキツェデクの系譜を引いた大祭司」とされる。この間の論理的つながりはもちろん全くない。なんでイエスがメルキツェデクの系統になるのかは詩篇110-4を論拠としてるけど、そもそもこれがイエスを指すというのが恣意的解釈。
・というわけで、なぜか永遠性を付与されたメルキツェデク(そんなこと旧約のどこにも書いてないのに)に比せられて、イエスも不滅で永遠の祭司となる。いわくレビの祭司どもは寿命がきたら死んじゃうので完璧に人を救えないけど、イエスは永遠だから完璧に人を救えるんだって。
・でも、言うまでもないけど、イエスも死んでるんだからね。イエスが生きてるなんてのはこの人達(キリスト教徒)が勝手に言ってること。現実としてはレビの祭司もイエスも同様に死んでる。だから、レビの祭司は死ぬからニセモノ、イエスは永遠だからホンモノの祭司、なんてのは成り立たない。
・ないし、少なくともキリスト教徒以外の部外者には説得力を持たない。詩篇110-4がイエスを指すというのもキリスト教徒が勝手に言ってること。だから、ヘブル書7章の論理は様々な信者的お約束の下に無理矢理成り立っている論理であって、部外者を説得しうるものでは全くない。
・歴史的認識(ただし想像が入る)を下にこれを再構成すると、まずヤハウェ信仰はおそらく現地(カナン)の神信仰に影響を受けている。その現地の神がエル・エルヨーン。メルキツェデクが崇拝してたとされる神(本当にメルキツェデクがいたかどうかは知らん)。アブラハムもこれに服した。
・一方、時代が下って、レビ族から祭司が出る伝統になった。実際は「レビ族から祭司が出る伝統」がアブラハムうんぬんよりも先。そこから後で創世記の物語が編集されて、メルキツェデクの伝承もそこに編入された。矛盾をきたすけど、当時の人はたぶん深いことは考えてなかったんだろう。
・で、レビ族=祭司の伝統とは別に、それ以前から何故か存在した謎の祭司メルキツェデクが生まれる。そしてヘブル書に至り、著者はこの謎の祭司メルキツェデクに目を付ける。なんだこの謎の男は! レビ族と関係ないぞ! きっとレビ族よりスゴかったんだ! こいつこそがホンモノの司祭の系譜なんだ!
・そういえばイエス様もレビ族じゃないぞ! 分かった、イエス様はメルキツェデクを継承してたんだ! イエス様はニセモノの祭司であるレビ族ではなく、ホンモノの祭司であるメルキツェデクの継承者なんだ!!
・「イエスこそキリストなんです」→「イエスが死んだじゃねーか」→「罪の贖いのために死んでくれたんです!」。「イエスは大祭司なんです!」→「でも、レビ族じゃねーぞ」→「イエスはメルキツェデクの継承者なんです!」 こりゃあ当時のユダヤ人がキリスト教に改宗したなんて信じられない話だね。
・ヘブ8章だけど、エレ31-31はうまいところを引っ張ってきたなあ。当時の預言者が外形的な律法遵守を批判してたのは伝統として、エレミヤはこれ、なんのつもりでユダ族を出してきたんだろう?? あー、これ、十二部族じゃなくてユダ王国の方か。なるほどなあ。
・というか、イエスはユダ族だったのか?? ユダヤ王国民の末裔なら、みんなユダ族ってことなのかな? でもレビ族もこの時代まだいたはずだよな。あれか、ダビデがユダ族だから、ダビデの子孫(ということになってる)イエスもユダ族って理屈か?
・しかし、考えてみれば、「子供を生贄に捧げるなんて、あの蛮族どもめ!」って言ってたユダヤ人が、イエスに限っては「神は自らの子を生贄に~」とか言ってるのはどういう理屈なんだ?? もっともおぞましき行為を神自身が率先してやってんじゃねーか。
・なんというか、キリスト教というのは凄まじい妄想によって成り立っているのだなあ。ヘブ9章とか、よくまあ一人の男の死を、ここまでゴテゴテとデコレートしたもんだ。基本、屁理屈と妄想なので残念ながらまるで説得力はないのだけれど。
・大昔のユダヤ人の幕屋(簡易型神殿とでも言おうか)には聖所と至聖所があって、聖所には毎日ちょろちょろ祭司が来て儀式をしてた。至聖所は年に一回だけ。これをヘブル書の著者は前者をユダヤ教律法、後者をイエスの十字架上の死の予型としているようだ。
・しかし、ユダヤ教の律法の有効性を否定する話を、ユダヤ教の律法に基づく「幕屋」を使って説明するのだから、これはあまり巧い説明とは思えないなあ。あと、事実誤認も多い。幕屋に血を振りかけたとか(実際は油)。
・ヘブ10-1「律法による生贄では人を完璧に清めることはできない。完璧に清められたならもうやる必要はないのに毎年生贄やってるからだ。でもキリストは完璧に清めたので一発でOK」。この理屈ならキリスト教徒になった後に懺悔とかする必要なくなるんじゃないの? よく分からん。
・理屈的に考えるなら、イエスがウギャーと死んで贖ってくれたのは罪の一部だけで(それまでのヤハウェに対する背信とか原罪とか?)、それ以降の背信的行為はそれはそれでヤハウェはキッチリ落とし前つけさせようとしてくるってことなんだろうか。じゃあ毎年生贄を差し出した方がいいんでないの?
・もしくは、イエスが購ったのはそれまでの背信行為の全てで、一方、律法による生贄では背信行為の一部しか贖えなかった?? でも、それはそれで、「なんでヤハウェは自分で『これを捧げろ』って言っておいて、それをもらっても満足しねえんだよ」っていう話になるよなー。
・10-20で幕屋の比喩(?)がまた別の意味を持ったぞ。聖所(幕屋Stage1)を(当時の)現代に当てはめて、イエスを、至聖所(幕屋Stage2)と聖所を隔てる垂れ幕にしている。イエスの垂れ幕を通ったら、現代の状況から、さらに上のレベル(終末以降?)の状況にいける、というイメージ。
・なので、イエスは幕屋において、至聖所で生贄を捧げる大祭司と、至聖所の前に掛かっている垂れ幕の、二つのイメージで語られているらしい。こうやって比喩(予型?)の中で二つの要素を持たせられると、読んでて頭がこんがらがるからマジやめてほしいんだけど。
・イエスの贖罪による効果は、岩波の注を見る限りでは、「(キリスト教以外のやつらの生活は不道徳で非倫理的だ、とレッテルを貼った上で)イエスのおかげで道徳的、倫理的に立派なキリスト教徒の仲間入りができてよかったですね」くらいのニュアンスっぽい。10-22
・ヘブ10-26によれば、やはり「キリスト教徒になった後でも罪を犯す」という概念はあるらしい。つまり、イエスに一度チャラにしてもらった後でも、また罪は蓄積する。そして、今度はもうチャラにしてもらえない。(それなら毎年ある程度チャラにしてもらえるユダヤの生贄の方がいいんでねえの?)(ただし、故意に犯した罪はユダヤ教でも一発でアウト)
・ヘブル書の著者が何を罪だと思っているのかよく分からないけれど、とりあえず、キリスト教徒になる以前の状態(生活態度や倫理観)などを罪だとは考えているとすれば、「キリスト教徒になる(=これまでキリスト教徒じゃなかったことによる罪がチャラに」「キリスト教徒的でない振る舞いをする(=チャラになった罪が再び蓄積する)」「もうキリスト教徒には戻れない(=再び蓄積した罪をチャラにする機会は二度と無い)」と、ヘブ10章を大変単純化できるのだけど、こう理解していいのかどうかは分からない。
・どうもヘブル書を読んでいると、イエスキリストの贖罪は神の憐れみというよりは、ヤハウェの最後通牒みたいな感じを受けるなあ。「これで一回全部チャラにしてやるから、これ以降、オレに歯向かったやつはとにかく殺すからな!」って感じで。
・ユダヤ教においても故意に犯した罪は許されずにヤハウェにブチ殺されてた気がする。じゃあ、大祭司が年に一度贖罪してたのはうっかりミスの罪? イエスの贖罪もうっかりミスのみ? イエスの贖罪後はうっかりミスはどうするの?(カトリックなら懺悔?) イエスの贖罪は故意の罪にも有効??
・ヘブ11-4によれば、アベルとカインにおけるヤハウェのえこひいきの件は、アベルの方が信仰が優れてたから生贄も優れてた(優れた信仰により優れた生贄セレクトができた?)と解釈しているらしい。分かったような分からん説明だ。
・死の婉曲表現として、旧約では「神はエノクを取り去った」と言ってるのを、ヘブ11-5ではそのまま受け取って、神がエノクをどっかに連れ去ったと考えてるらしい。(七十人訳ではそうみたい)
・旧約のやつらが「天上の祖国」などというものを切望していたとは思えんのだが。アブラハムとかよく分からんけど言われるままにフラフラ出て行った印象。ヘブ11-16
・ヘブ11章は旧約時代のやつらがビミョ~にイメージアップされてるな。サムソンとかそんな義人じゃなかっただろ。
・ヘブ12-4から「迫害を受けるのは神からの躾」的な話が始まってる。やはりキリスト信者が受けるこの世での苦難は神からの試練という理解なのか。肉の躾け手は父親で父親のことは敬うんだから、霊の躾け手である神だって敬わなきゃいけないだろ、という、凄まじいドM理論。
・大体、世の父親は現世的幸福を願って息子を躾けているのに、現世的不幸を背負ったら「神に躾られている」というのでは、「躾は躾られている時は嫌なもの」という点は同じながらも、明らかになんか違うよなー。しかも神は「父親だから」ありがたい事に躾て(苦難を与えて)くれてるらしいですよ。
・ん、じゃあ、キリスト教徒が迫害を受けた場合は、「神よ、助け給え」と言っても決して助けてくれないことになるんじゃないか? 迫害自体が神の躾なんだから。むしろダニエルとかが助かったのがおかしいって話にならないか?
・「現世的な幸福が得られなければ、その方法論は間違っている」というのが基本なのに、「現世的に不幸に陥っているから、その方法論がありがたいのである」というのは、ひどく屈折した変態的考え方だなあ。ユダヤ教にもしばしばあったけど、それを引き継いでるんだろう。そういえば日蓮もか。
・ヘブ12-16でも「エサウのような、淫らなもの、俗っぽいものにならないように」とエサウに否定的評価だけど、そもそも食い物で兄を騙して長子権を奪い取ろうとしたヤコブを非難しないのは理解できない心性だ。「エサウに回心の可能性はなかった」って、そもそもヤハウェが生前からえこひいき(ry
・ヘブ13-8「イエス・キリストは昨日も今日も、そしていつの世々までも変わらない同じ方である」。実在したイエスというおっさんを自分たちの都合であれだけ好き勝手にいじくっておきながらすごい言い草だなあ。
・ヘブル人への手紙、読了。「イエスは大祭司って言うけどレビ人じゃねーじゃん」→「レビ人よりもスゲー、メルキツェデクの継承者なんだよ!」。こんな具合で、よく言えばポジティブシンキング、悪く言えば無理矢理に屁理屈を付けて、あらゆるイエスのマイナス要素を逆転させようとする健気な試み。
・宗教書にしばしばあるやり方で、論理自体は説得力ないんだけど、イメージの似ているある事柄とある事柄を脳内でなんとなく連結するように誘導して、イメージ上だけでは論理が成り立つようにしている、そういう文書。宗教書ということを考えればこれは別に非難すべきものではなく、
・脳内連結されたそのイメージの美しさ、いわば文学的、詩的美しさで読者を魅了し、信仰に至らせるというのは一つの方法ではある。ただし、繰り返すが論理的な説得力があるわけではない。かつてはこれでも論理的だったのかもしれないが、現代人の感性からすればこれは論理的とは言わない。
・そんな人がいるとは思えないが、もしも神父や牧師の説教、友人の勧め、先入観、文化的要因etc..なしで聖書だけ読んで、聖書に書かれた全てを「その通りだ!」と思った人がいるとしたら、批判的精神が欠如してるか論理的思考力が欠如してるか何か勘違いしてるかのいずれかだと思う。
・とはいえ、ヘブル人への手紙は何の内容もない牧会書簡に比べると遥かに面白かった。論理的にはムチャクチャだが、それでも何とか説得的に物を言おうとしている気持ちは伝わった。最低限議論になるレベル。牧会書簡の著者とは話をする気にもなれない。
ヤコブの手紙
・ん。ヤコブの手紙は1章を読んだ限りでは、これまでにない優しい内容に感じるな。あまり面白いものでもないが、パウロや牧会書簡のようなとげとげしさがない。
・キリスト者が試みに会う時(現世的欲望に駆られる時?)、それは神に試みられているのではなく、自分の欲望に試みられてるらしい。神は誰も試みたりしない、というのは旧約に合わないけど(ヨブはどーした)、ユニークな観点だと思う。ヤコブ1-13(どうも著者はヨブに関しても、神が断腸の想いでやった?と思っているらしい 5-11)
・ヤコブ1-10は「金持ちは金持ちであるだけで悪である」という思想のような気がする。これ自体はイエスも似たことを言ってるし、そう意図してても不思議ではない。資本主義に慣れっこの僕たちには、いまいち受け入れ難い発想ではあるけれど。
・ヤコ2-6~を見るに、やっぱり金持ちを悪と見ている気がするな。2-3の金持ちに集会の良い席を用意するというのは、確か現代でもユダヤ教ではそうだったはずなので、ユダヤ教文化に対するアンチなのだろうか。
・はー。ヤコブ2章で面白くなってきた。これはパウロ主義に対するアンチなんだろうな。パウロが「業(なしたこと)が評価されて救われるんじゃなくて、神の信(神の信実?人の信仰?)によって救われるの!」と言ってるのに対し、「業なしの信仰なんて何の意味があるんだよJK」って立場か。
・理屈的に言えばパウロ主義だと、現実の行動が伴わなくても個人レベルでの救いは実現されるわけで、そうすると個人としてはほっこりできても、行動が伴わなければ社会としては良い方向に向かわない。しかし、個人レベルでの「神の信実→神への信仰」が実現されるなら、個々の行動もある程度
・良くなるはずで、ヤコブ書の著者が問題にしてるのはそこかもしれない。「信によって義とされるのも結構ですが、その信を行動でも見せてくれませんかね」と言ったところ? とすればこれはパウロ主義へのアンチというよりは、批判的な立場から止揚を目指してる感じだろうか。
・面白いのは、パウロが「アブラハムは律法の業に従ったから義とされたんじゃねえ。神を信じたからだ」と言ってるのに対し、ヤコブ書では「信じたからじゃない。信じて息子を生贄に捧げるという行動を取ったからだ(行動により信仰が全うされる)」と理解してること。2-22
・ヤコブ書面白いな。信仰って何なのかについて向き合ってる気がする(まだ途中なので勘違いかもしれないけど)。信じること自体が重要なのか、信じて行動で現すことが大事なのか。どちらが主で従か。浄土教だと前者でオッケーという立場だよね? たぶんパウロも前者だと思う。
・ヤコブ2-6によれば、「金持ちは普通以下の経済力の人間を圧迫する(裁判などに持ち込んで? 民事訴訟などを使って?)」だから金持ちは悪い、という感覚があるようだ。金持ちが金持ちなのはパンピーをいじめてるからだ。だから金持ちは悪い!という感じ?
・しかし、2-10「律法は全部守らなきゃ有罪!」に見られるように、この点がヤコブ書のウィークポイントになる気がする。パウロは「全部守れねーよ!」→「神の信実を信じよう」になったわけで、ヤコブ書の態度はパウロが挫折した地点に少し後退している気がしなくもない。
・ヤコブ4-4辺りを見るに、どうも著者は世俗的欲望=悪魔くらいで捉えてるらしい。霊肉二元論的なニュアンスを感じる(そこまではいかないのだろうけど)。
・あー、なるほど。世俗的欲望=悪魔だから、金持ちは悪なのか。世俗的欲望に従ってないと金持ちにはなれないという理屈かな? プロ倫に反するなw
・ヤコブ5-16によれば、自分の罪を告白しあって、互いのために祈り合えば癒される?(これは病気(罪の結果としての)が癒される、というだけの意味か、それとも病気として結実しない種々の罪が告白と祈りによって許される??)
・ヤコブ5-3を読む限り、著者は終末が間近であると思ってるようだけれど、これ、成立したのって60年代以降だよね? パウロですらそろそろ諦めムードだった頃なんだけど、パウロ以外はまだ間近だと思ってたんかな。テサロニケ第二もそういう内容だし、そんなもんなのかな。
・ヤコブ5-14によれば、教会において長老が病治し行為をしていたらしい。パウロとかも確か病治ししてたし、やはり、当時においては病治しはイエスの専売特許ではなく、「ちょっとスゴイ宗教者」の基本スキルだったのだろうか。ドラクエの僧侶のイメージが意外と近いのかも。
・ヤコブの手紙読了。中盤以降はイマイチだったけど、2章は面白かった。パウロの「律法なんか全部守れねーよ! 律法を守るという行為じゃなくて、神の信実を信じることで救われるんだ!」に対し、ヤコブ書の著者は「信じるだけで救われるわけねーだろ! 信じた気持ちを行動で示せ!」って立場。
・明らかに著者はパウロを意識してるんだけど、どこまでパウロ主義を疎ましく思ってるかは不明。私見ではパウロ主義の否定というよりは止揚じゃないかなー。「信により義とされるのも結構ですが、行動でも示して頂きませんとね!」くらいの。パウロ個人のことは嫌ってたかもしれんけど。
・著者が問題視してるのは、おそらくパウロ主義自体よりも、実際の教会内にいる金持ちだとか金持ちにおもねるやつとか世俗的欲望に惹かれがちなやつとか、そういう著者から見て「なってないキリスト教徒」だと思う。彼らがどの程度パウロ主義に影響を受けている(と著者が考えている)のかは読み取れない。
・問題はヤコブ書の著者にとって「信仰を行動で現す」際に、どこまでそれが求められるのか、だよな。完璧に現すことはできない=誰も救われないなら、その失敗した分をキリスト者はどうすれば補填できるのか? それが告白と祈りとも読めるけど、著者がそれを意図しているかどうかは怪しいところ。
ヨハネ第一
・ヨハネ福音書って「現在化された終末論」なの?(岩波の解説より) だとしたら、僕は何もヨハネ福音書を読み取れてねーなww
・ヨハ一1-8によると、「人に罪がないわけねーだろJK、でも告白したら神(キリスト?)は許してくれるんだぜ」ということらしいけど、ここで言う罪が何なのか分からんなー。うっかりミスの罪? 故意にやった方の罪は旧約だと告白しても当然のようにヤハウェはブッ殺してたけど。
・ヨハ一2-22「イエスはキリストではないという者が反キリストだ!」 うん、論理的に何の間違いもないと思うけど、何も言ってないに等しい話だな……。ただ、解説も合わせて考えると、これは単に「イエスはキリストじゃない」という話ではなく、イエスの人性を否定した仮現論批判かもしれない。
・ヨハ一2-22は仮現論対策というのが略解でも岩波訳でも共通の見解だけれど、とりあえず、この時点ではまだそうとは読み取れないので保留。とはいえヨハネ福音書を下敷きに考えれば、知恵(ことば)のイメージで語られる、あのよく分からない何かをイエスと同一視する話とは思われるが。
・「終わりの時には反キリストが来るって言われてるし、いま反キリストが来てるから、今が終わりの時なんだ」って、もうこの時代から言ってたんだな……。キリスト教は「終わりの日が来てるぞー」と誰かしら言いながら2000年過ごしてきたのだろうか。
・略解「人間は必ず罪を犯してしまう。罪を犯さないなどという者は自らを神の座に据えている」。しかし、この理屈ならまさにイエスがこれに当たるんじゃなかろうか。イエスという人間を「罪を犯さない完璧な生贄」扱いして、イエスを神の座に据えてしまっている。イスラム教の言うとおり、偶像崇拝では?(部外者からすれば「神以外に罪を犯さない人間なんていないのに、何いってんのバカじゃないの」って話になるとおもう)
・よく分からんなあ。①「人間は誰でも(キリスト教徒でも)罪を犯す」(1-8)②「いま自分たちは神の子である」(3-1)③「キリストに罪はなく、キリストに留まるものは罪を犯さない」(3-6)④「神から生まれた者は罪を犯すことができない」(3-9) どう考えても論理的に破綻している。
・略解によれば、「③「キリストに罪はなく、キリストに留まるものは罪を犯さない」(3-6)」は、終末時に「キリストに似た者」となった場合のことをイメージして言ってるらしい。イマイチ納得できないが、この説を取れば一応この点においては論理的破綻は回避される。
・同じく略解によれば、「④「神から生まれた者は罪を犯すことができない」(3-9)」は(おそらく終末以前のことを指しており)聖霊がキリスト者に新生の働きをなす時にのみ、「罪を犯しません」と言える恩寵が与えられるとのこと。僕には何を言ってるのか理解できない。聖書もそんなこと言ってるか?
・おそらくここは単純に論理矛盾で、略解は糊塗しているだけだと思うけれど、もうちょっとしっかりした注釈書を見て、そちらの理屈を読んでみないと判断できないなぁ。こういう時に田川先生がいないと困ってしまう。
・「神から生まれたものは罪を犯せない」「こうして神の子と悪魔の子を見分けられる」はちょっと面白いポイント。確かに「神の子は罪を犯せない」。つまり、罪を犯したヤツは「あいつは悪魔の子だ!」とレッテルを貼られる。すると、罪を犯してない人だけ(そんなヤツいんのかね?)が神の子扱いされる。
・しかしまあ、「悪魔の子」なんてのは、要するに「オレの気に食わないやつ」のことだよな。この部分が仮現論批判をしているなら、尚更。神学上、対立する意見のヤツを「悪魔の子」呼ばわりしてるだけ。たぶん、向こうも同じように悪魔の子呼ばわりしてたんだろ。東西教会の相互破門みたいなもんで。
・ヨハ一3-12によると、カインの弟殺しは「彼の業が悪しきものであったのに、自分の兄弟の業は義しいものであったからである」だそうな。ヤハウェがえこひいきしたばっかりに、少なくともちゃんと神に献納物を捧げたカインの行いまで「悪しきもの」呼ばわりですよ。かわいそうに。
・たぶん、なんでヤハウェがえこひいきしたのか分からないので、全部カインが悪かったことにしてしまえ!的な心情なんだろうな。エサウの件もそうだけれど、この辺の心性は理解できない。大昔の人ならともかく現代人がこれを受け入れるのはさっぱり謎。
・ヨハ一4-2は、確かに反キリストは仮現論者を指していると読める。といっても、「そう言われたらその通りな気がする」という感じ。まあ、ここは相手は仮現論ということでとりあえずGOしようか。
・ヨハ一4-7以降、気持ち悪いくらいアイアイ言ってるその愛だけれど、どうも「ヤハウェが自分たち人間のために、大切なひとり子を犠牲にしてくれた」時の、そのヤハウェの精神性を指して愛と呼んでいるらしい。そもそもヤハウェの行動が論理的に破綻してるんだけど、まあその点は置いとこう。(ということは、言い直せば著者の示唆する「愛」というのは「他者のための自己犠牲」といったところなのか? 少なくとも愛の一環ではあるはず)
・分かったぞ! キリスト教の言う「愛の神」ってやつは、①「イエスの死は人間のための犠牲である、という前提」②「神がイエスを惜しんだ、という状況を推定し、その心情に同調する」ことによって成り立ってるんだ!
・まず、前提として旧約に書かれるヤハウェにはさっぱり愛の神の要素はない(熱愛の神=嫉妬の神ではあるが)。それが何故かキリスト教では愛の神になっちゃった。別にイエスが「愛の神でーす」とか言ってるわけでは全然ない(神は意外と太っ腹だぜ、くらいは思ってたかもしれないが)。
・それを愛の神にしたのはイエス以降のやつら。まず、イエスが死刑になっちゃったのを何とか積極的に意味付けしようとして、「イエスの兄貴はオレたちのために死んだんだよ!」と訳の分からないことを言い出し、それを「神の子」「贖い」「身代金」の概念で何とか理屈化した。
・で、神は自分の子供をわざわざ生贄にしてくれた、として、今度はその心情を厚かましくも推測することになる(人が神の心情を推測だと?)。きっと神は苦しんで苦しんで苦しみ抜いた末にひとり子を犠牲にしてくれたに違いない!(←推測)
・で、そんな「苦しみながらも子供を犠牲にしてくれた神」の心情を推測するに、彼らは「愛」に辿り着く。神はオレたちを愛してるんだ!(←推測) つまり、「ヤハウェ=愛の神」ってのは彼らの推測なんだ!
・大体、神が何を考えているかなんて本当は分かるはずないわけで、ひとり子のイエスを生贄にしたのだって、「あいつ、オレのこと好きだよなー。オレもあいつが好きなんだけど、ちょっとあいつを人間にしてみて死刑になるのを見てゲラゲラ笑おうか」というような猟奇的な動機だったのかもしれない。
・神の思惑が人間には計り知れないという意味で言うなら、この推測は「神が人間を愛したから」と同程度に意味があるはず。にもかかわらず、神の動機を愛とするのは、彼らの人間レベルでの「推測」に過ぎない。「(神が何考えてるのか本当は分からないけど、私は)神は愛である(と思いますよ)」
・ただまあ、推測でも思い込みでもともかく「嫉妬に駆られる神」よりは「人を愛する神」を想定して、それに倣う方が良いことは認めざるをえない。その点では良い方向に思い込んだものだと思う。
・ヨハ一5-16~を加味して考えると、先の論理的に破綻してるとしか思えない箇所は、どうも教会から追放された?キリスト者が教会に戻れるかどうかの話をしていた?のだろうか。
・「人間は誰でも罪を犯すから告白して解決する」「でも、自分たちは神の子だから、教会から追放されるような決定的な罪は犯さない(=犯すことができない)」「追放されるようなやつはもう知らん」。著者の言いたいことを想像で補完するとこんな感じ?? 自信は全くない。
・ヨハネ第一読了。結局、「仮現論はダメ!」「仲間内で仲良く!」しか言ってない気がする。しかし、同じキリストを信じておきながら、微妙に意見の異なる仮現論者を反キリスト呼ばわりして、そのくせ「みんな仲良く」と言うなど、しょうもないというか、典型的な新約テキストといいますか。
ヨハネ第二
・ヨハ二1-5「婦人よ~あなたにお願いするが~私たちは互いに愛し合おう」 都合よく引用してみたけど、こうしてみるとなんかエロイなww いや、もちろんこういう文脈ではないですよ。
・ヨハ二1-10「もし誰かがこの教えを持たずにあなたがたのもとにやってくるならば、その者を家にあげてはならない。また挨拶もしてはならない」 ヤなかんじ。これ、そのまま実践したら、現代だと日常生活も送れなくなるんじゃねーの?(略解によれば、ここの「挨拶」は挨拶だけでなく歓待までも指すというが、判断は保留した方がいい)
・宗教を物語として理解する僕の持論に照らせば、少年漫画を読んで子供たちが曲がりなりにも友情努力勝利を心の中に持つように、「神は愛である」というファンタジーを持つことで、キリスト教徒も「愛」という観念を(曲がりなりにも)自分たちの中に育てることになるのではなかろうか。
・パンピーも仏教書を読むことで、曲がりなりにも五蘊無我やら諸行無常やらを心の中に育てれば、何もないよりは楽しくやってけるんじゃないかな、というのが僕の提唱するファッション仏教。とすれば、聖書を読んで曲がりなりにも愛を育てるキリスト教徒はファッションキリスト教と言えるのかもしれない。
・正確に言えば、聖書を読んで、「よく分からないけど、神は愛なんだなあ」と思ってるだけでも十分。読まなくてもいい。傍から「神は愛だー、愛だー」と呪文のように唱えられるだけでも、そのファンタジーを楽しめれるならそれでいい。そういった人がファッションキリスト教。
・ヨハネ第二読了。「仮現論ダメ」しか言ってないな、つまんね。
ヨハネ第三
・よく分からん内容だなぁ。パッと読んだ限りでは、「宣教の旅に出ようとしている人に対して、オレは資金援助しろってお前らの教会に言ってるのに、ディオトレフェースは資金援助したがらないからけしからん!」っていう内輪揉めの話?? なんでこんなのが新約に入っちゃったんだ??
・やっぱりよく分からんな。おそらくこれは内輪揉めの手紙。長老がじぶんのシンパに対して、あいつは悪いヤツだ、と言ってる内容。こういうケンカ腰の手紙は相手側の言い分も聞いてみないと何とも言えんので、ヨハネ第三に関しては判断保留するしかない気がする。
・>著者は「ディオトレフェースは宣教者に資金援助しなくてけしからん。ワシの命令を無視しおって!」という感じで憤慨しているけど、ディオさんにはディオさんの言い分があるかもしれないし、「遠くの長老はこっちの財政事情も知らずに好き勝手命令しやがって、財源をやりくりしてんのは現地の
・オレなんだよ。何も知らねえくせにムカつくなあ」とか言ってるのかもしれない。この手紙はそういうケンカの一断面なので、これ以上を読み解くのは無理と判断。ディオさんが仮現論者というのは11節がそうとも取れるが単に著者のレッテル貼りの可能性があるので信用しない方がいいだろう。
・というわけで、結論。前後関係が分からないので、ヨハネ第三はフィレモンへの手紙と同じくらいどうでもいい。あえていうなら、「昔のキリスト教徒も仲悪かったんだな」と思う程度。それすら確定的ではない。
ペトロ第一
・1章読む限りでは大した事は言ってない。「お前ら、しっかりやれよ」くらい。なので、大変つまらない。
・ペト一1-18「神は銀や金で贖ったのではなく、キリストの尊い血で贖った」 これは要するに「ウチ(キリスト教)はカネの掛からない宗教ですよ」ってことなのかな? ユダヤ教は贖いのために動物を犠牲に捧げるなど何かとカネが掛かったので。
・2-13「人間的な制度(王や総督)に服従しろ」、2-18「奴隷は主人に服従しろ」と奴隷根性を発揮し始めた。いわく、過ちを犯して懲らしめられて耐えてもなんも偉くないけど、善を行って苦しめられてそれに耐えるのは神のもとでの恵みなんだって。そうなんですか。頑張ってください。
・なんというか、そんなことを言って問題を先送り(最後の審判任せ)にしてるうちは、まさに何も変わらずに、世俗権力に好きなようにされるだけじゃないかなあ、と思いながらも、他人事だから別にいいや、頑張ってください、っていう投げやりな感想。
・いやでも、この感覚を大多数が共有しちゃうと、むしろ害だなぁ……。他人事じゃないや。
・いや、2章は「なんだあのカルト宗教の信者ども。気持ち悪いな」と周りからいじめられても、善を行うことで(具体的には世俗権力に服従したり奴隷が主人に服従したり)周りのバカどももいずれは感化されて神を信じるようになる、という感じなのかな。そう取るなら積極的と言えなくもない。
・ペト一2-15「善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです」(新共同訳) しかし、自分たちをいじめるやつらはバカ、立派でおりこうな自分たちはバカどもの中にあっても神の正義を貫くのです、という態度は、まあ気持ちは分かるんだけど、なんかちょっとアレ。
・新約の著者たちは、ヤコブだとか、ここでは(ペト一3-6)サラだとかを称揚するけど、普通に読む限りヤコブやサラはひどい人間の代名詞みたいなやつらなんで、あいつらを模範みたいに言われてもなあ。
・そもそもサラって夫のアブラハムに何か忠実に従ってたっけ? 確かに不忠実であったとはどこにも書かれてないけれど、特に、特別に、特筆するほど服従してたとは書かれてない。夫を「主人」と呼んでるだけで「服従していた」というのもムチャな気がする。
・ペト一3-7は妻が非キリスト教徒の場合を言ってるんだろうか。であれば、「生命の恵みを共に受け継ぐ」というのはよく分からない(非キリスト教徒なのに?)。妻がキリスト教徒の場合のことを言ってるなら、3-7はたぶん酷い内容だと思うけど、はっきりと読み取れない。
・3-7はどうもやっぱり妻がキリスト教徒の場合っぽい。夫が非キリスト教徒の場合は妻が態度によって信仰を持たせろ、と言ってるのに、なんで逆の場合はないんだ?
・キリスト教徒の夫は、キリスト教徒の妻が「弱い器であることを弁えて(よく意味が分からない)、尊敬すれば」「あなたがたの祈りが妨げられることはない」らしい。ということは、基本的に女は祈りを妨げるものと認識している気がするが、ここはこれ以上は意味が取れないのでなんとも言えない。
・4-1~「異教徒どもは酒神の祭りや偶像礼拝でキャッキャしてやがる」→「オレたちが参加しないから、あいつらにいじめられるかもしれない」→「でも、生きてるうちに苦しんだなら自分の罪に終止符を打ったと考えるんだ!」。迫害を受けると前世の業がチャラになると考えた日蓮みたいだ。
・ところで酒神の祭りって、もしかしてディオニュソス祭? 奥さんたちがイカレて獣を引き裂きながら練り歩くというアレ?(いや、この時代はそんなことしてないだろうけど)
・「オレたちと同じお祭りに参加しないから、あいつらは気に食わない」と言って迫害するのもアレだけれど、「オレたちは義しいから参加しないんだ。あいつらは後でひどい目に遭うんだ!」っていう心性も、どっちもどっちでアレだなあ。
・前者に関しては、現代的な意味で協調性がないという意味ではなく、もっとクリティカルな問題なんだろうけれど。(たぶんローマの神にあれこれ現世利益的なお願いをしてたはずで、それが叶えられなかったら、キリスト教徒が参加しないせいだと非難したんだと思う。ユダヤ人は大目に見られたらしい)
・ペト一4-1の「酒神の祭り」(岩波訳)は、口語訳(宴楽)も新共同訳(酒宴)も酒神というニュアンスがないなあ。RSV、NRSVだとrevels(どんちゃん騒ぎ)。ここはちょっと岩波のが訳しすぎな気がしてきた。
・ペトロ第一読了。田川先生言うところの「三従の教え(権力に従え主人に従え夫に従え)」を別にすれば、キリスト者として義しく生きてるのにひでえ目に遭うのはむしろ神の恵みなんだよ、というだけの内容。「ひでえ目に遭ってもがんばれ」と要約できる。
・それでもまあ、「自分たちが正しいと思う倫理的生活をすることで周りを感化させよう」という考え方自体は健康的だと評価できる。……しかしなあ、ひどい目に遭ってもイエスと同じだから嬉しいね♪ってのはあまりにもドMすぎる気がするけど。まあ他人事だし、いっか。
・「キリスト教徒としてがんばってるのに現実にはひどい目に遭ってしまう」という現実的な問題に対する、一つの現実的な(?)回答として、一応見るべきところはあったテキストと言えるだろうか。ひどい目に遭いながら「後であいつら地獄に堕ちるんだウヒヒヒ」な感じだから、あまり気持ちよくはないけど。
ユダの手紙
・んー、とりあえず読んだ。何も分からん。自分の気に食わん相手の悪口を滅茶苦茶に並び立てていることは分かるが、一体相手がどういう人物なのかさっぱり分からん。
・おそらくキリスト教の仲間ではあるらしい。おそらく正統思想とは異なる思想を持っていたらしい。もしかしたら教会から追放されてたのかもしれない。もしかすると恍惚状態に陥って何かを受け取るような神秘主義的な人なのかもしれない。同性愛者だのなんだのはただのレッテル貼りだろう。
・ともかく理解に苦しむのが、相手がどういう人物なのかも分からず、にもかかわらず相手の悪口をまくし立てているだけの、意味不明な上に品のないテキストがなんで新約聖書にセレクトされているのか。キリスト教徒はこんなものを約2000年間も読んで何を考えてきたのか。理解できないな。
・「あいつらはこうこうこう言うことを言っており、私からするとこの部分が我慢出来ないのでボロクソにけなしますよ」なら、まだ資するところがあるけれど、こんなの単に「キリスト教徒は気に食わない相手のことを滅茶苦茶にけなしていいんですよ」というだけのものなんじゃないの? 実に品がない。
・ユダの手紙が悪口を言っている相手について読み取れそうなこと(カッコ内は節、有り得そうなことを○→△→×で主観的に判断):×性的な事柄を含む倫理的自由を主張してた?(4) ×教会をかき乱す意図を持ってやってきた部外者?(4) ×同性愛者?(7) ○恍惚状態で何かを見てた?(8) △天使を否定してた?(8) △本能的な行動をしていた?(10) ○教えをなすことで報酬を受けていた?(10、14) ×背教者or教会から追放されていた?(12) △(自分の運命について?)不満を言っていた?(16) △グノーシス主義者?(19)
・ここから相手の人物像をなんとなく想像するに、相手はユダヤ教律法を退けようとしていた? 恍惚敵状態に陥ることがあった? そして、教えに対する報酬を受けていた?(これ自体は当時の価値観でも悪くないはず) こんなもんかなあ。これすら想像の域を出ない。
・相手が「ユダヤ教律法に依然として縛られているキリスト教徒を律法から解放しようとした」のなら、「ユダの手紙」はヘタをすると「コロサイ人への手紙」の著者のような立場の人を攻撃してる可能性すらある。
・おそらくだが、これは初期キリスト教内の身内争いで、互いに気に食わない相手をボロクソに言ってるうちのその一方の手紙なんだろう。新約はちょっとこの手の文書が多すぎやしないか? こういうのが多いから、新約は旧約よりも一段としょうもない印象になってきた。
・パウロも滅茶苦茶で下品な人であったが、今にして思えば、パウロはまだ相手の何が気に入らないのかある程度判断できる余地があっただけマシだったのかもしれない。相手が何者かも分からないのに、ただただ相手の悪口を羅列しただけのテキストなんて読まされて面白いわけがない。
・一体、聖典化の動きの中で、「ユダの手紙」は何だと思われて聖典に入れられたんだ??(実際に悶着はあったようだけど) そもそもこれが何を批判してて、どういう点で資するものがあるか分からないと価値判断できないと思うんだが。グノーシス批判ということで決着させて判断停止したのだろうか?
ペトロ第二
・ペト二1-20「聖書の預言は自分勝手に解釈していいものではない」。すごいな。キリスト教徒がこれを言うのか。すごいな。
・ペト二2章は相変わらず相手が何者かを明らかにせずに、罵詈雑言を延々と並び立ててるだけだな……。まあ、当時の口汚い悪口がどういうものかを知るという点では興味深いか。「『身を洗い飛び込む豚は糞の中』という聖なることわざは、まさにあいつらの身に起こっていることだ!」
・ペト二3-4で触れられている「イエスの再臨を否定する人」が、ペト二が延々悪口を言ってる相手なのだろうか。ここは怪しい気がする。どうも別の人を想定している気がするんだが……。略解の言うように、「もう終末とか来ないさー」って言ってる人たちを想定することも確かにできるけど……。
・「彼の来臨の約束はどこにあるのか」という表現は、口語訳、新共同訳の言うように「どうなったのか?」というニュアンスなんだろうか。「旧約聖書のどこに記載されているんだ」という意味合いの可能性は? だとすれば、これはユダヤ教側の人が嘲って言ってるんじゃないだろうか。
・とはいえ、当時のユダヤ教徒も大抵は「(イエスをキリストと認めないにしろ)そのうちキリストがやってくる」とは思ってたわけで、するとこういう批判にはならないのかなあ。よく分かんね。
・ペト二3-4「キリストの来臨はどこにあるんだよ。創造の初めから全部そのまんまじゃねーか」に対する反論として、「いや、ノアの洪水で一回滅んでる。気づいてないのかバーカバーカ」ってのは揚げ足取りみたいなもんで、キリストの来臨を保証するアンサーにはなってないと思うんだが。
・ただ、「裁きの日がなかなか来ないのは遅れてるわけじゃないもん! 神はみんなが回心するまでできるだけ待ってあげようと寛大に構えてるんだい!」ってのはちょっと面白いな。ペト二3-9
・ペト二3-16「パウロが言ってんのは要するにオレが今言ったみたいなことだから、パウロを曲解して好き勝手言うんじゃねえぞ」ってのは何ともヤクザな話。「イエスが言ったのは~」「パウロが言ったのは~」って、結局、自分の言いたいこと以外何も認めないだけなんじゃねえの?
・ペト二は結局、「イエスはもっかい来るんだよ! ちょっとおせえけど来るんだよ!」って言ってるだけなので、まあパウロがそういうことを言ってると言えば確かに言ってるが、パウロはもうちょっと色々と言ってたと思うんだけどな。当時、パウロ書簡を元に「イエスは来ない」という結論を引き出した人がいたんだろうか? だとすれば確かにそれは曲解と言えるけれど。
・ペトロ第二終了。ユダの手紙が最悪につまらなくて、ペトロ第二も同じようなもんだったけど、若干、面白いアイデアもあったので、少しマシだったかな? ユダの手紙とかヨハネ第三とか、新約聖書には読む価値が全くない(本当に全くない)書簡がいくつか含まれてる。
・しかし、これは聖書を通読していて貴重な発見と言えるかもしれない。だって、普通の人は聖書に読む価値のないテキストが含まれてるとか思わないじゃん? 僕だって思ってなかったよ、びっくりだよ。
ヨハネ黙示録
・1-13では「人の子のようなもの」が七つの燭台の真ん中にいることになってるのに、1-20では人の子~の右手に握られてることになっている。その人の子~も1-1によれば天使のはずだが、イエスかのように描写されてる。田川先生の言うようにこの辺はあまり真面目に考えてはダメな気がする。(1-20だが右手に握られてるのは星だけで、七つの燭台は別かもしれない。新共同訳はその理解)
・著者の言葉を信用するならば、著者は預言者で、キリスト教に関する何らかの宗教活動により政治犯として幽閉されていた……、ということになるけれど、こういうのはどこまで信用できるんだろうか? 略も岩波訳も特に言及はないけど、この辺りからして全部フィクションという可能性はないのだろうか?
・黙示2-5からすると、確かに「(著者が)その教会を破門する」とも読める。となると、それだけの権力を持っていた預言者ではないか、との著者像が出てくるわけか(岩波訳)。しかし、なんか「言ってみただけ」な感もするなあ。「おめーら、いい加減にしねーと後で潰されっぞ」みたいな。
・黙2-15 んー。ニコライ派とか何とか、具体的だなあ。じゃあやっぱり当時の教会に対して、当時の状況を把握している人が書いたという点は間違いない、のか?(でも偽パウロもそれっぽいの書くしなぁ)
・しかし、バラムさんがまた悪人扱いされてるよ。旧約読む限り、バラムさんのキャラ設定は「イスラエル寄りの人」「イスラエル人に策略を仕掛けた人」の間で矛盾してるんだから、比喩にしてももっと他に明確に悪人扱いされてる人を使えばいいのにね。黙2-14
・黙2ー20ではイザベルが実際にどんな問題ある(と著者が言う)ことをしたのか分からないが、①偶像崇拝②偶像に捧げられた物を食べた、だとした場合、①は②を指して言ってる気がする。偶像に捧げられた物を食べたことをもって、偶像崇拝だと言い張る類のこと。(①はそのまま性的放縦の可能性もあるか?)
・だとすると、それはパウロもやんややんや言ってた問題で、現実問題、異教の神殿に捧げられた肉が市場に出回るんだから、それらを食わずにはやっていけない。②はパウロさえも妥協してたことで、黙示録の著者は物知らずか、もしくは異常なまでの禁欲主義者ということになろうか。
・まあ、ともあれ、自分の考えと違う相手に対して、「あの女を病気にする(「殺す」の可能性あり)」とか「あの女の子供を殺す(※子供は女の弟子を指すか?)」とか、なんとも良識を疑う発言ですね。ほんと新約の書簡はこんなのばっかだよ。
・黙4章は神描写。神自身は描写できないから、24人の長老だの、4匹のケルビムだのの付属物で表現しようというもの。まあ、これはこれでイメージするとカッコイイな。口から諸刃の刃物が飛び出ているキリストよりもカッコイイ気がする。
・黙5章。む……! なんか楽しくなってきた。封じられた書の七つの封印が解かれる時、四人の騎士が現れるであろう! 古代人にしてこの中二力! 黙示録のヨハネ、末恐ろしい男……!!!
・ホワイトライダーキター!!! 最近のメガテンでお馴染みの高位魔人だー!!! ちゃんと弓持ってるー!!! 黙6-2
・6-11によると、信仰を全うしたことで死んだ者と、まさに今にも死にそうになっている者の総和が一定数に達すると最後の審判がスタートするらしい。なんかマゾっぽいな。
・黙6-15を「全ての人間」と取るなら、著者は立派なキリスト者以外の全員は裁きの日にひでえ目に遭うと考えているということか。一方、田川先生の言うように、これを支配階級と取るなら(奴隷も支配階級に連なる)裁きの日にひでえ目に遭うのは支配階級のみということになる。後者の方が「いい話」っぽいけど、ここは前者のような気がするなあ。
・黙8-10にニガヨモギ出てきたー。しかし、著者はホントに三分の一が好きだな。なんでもかんでも三分の一じゃねえか。
・黙8-13「禍いだ、禍いだ、禍いだ、地上に住む者たちにとっては。三人の天使たちが今まさに吹き鳴らそうと構えている、残りの三つのラッパが響き渡るのだから」 現代でも十分に通用する古代人の圧倒的中二力。
・しかし、さっきまで七つの封印を解いていて、今まさに七つ目の封印を解いたぞ……!という時になって、七つ目の封印の前に今度は七つのラッパの話に移行するんだから、まるでJRPGのような引き伸ばし展開だな……。
・アバドンも出てきたー。ライドウvsアバドン王の世界だー。黙9-11
・「七つの封印が解かれるぞ!」→「第六の封印が解かれた! あとは最後の封印を残すまでだ!」→「最後の封印が解かれたぞ!」→「七人の天使がラッパを吹き始めた!」→「第六のラッパが吹かれたぞ! あとは最後のラッパを残すまでだ!」早く第七の封印の結果を見せろよwww
・甘くて美味しいが食べるとおなかの痛くなる巻物が出てきた。黙10-10
・黙11-4~はそのまま読むとヒデェ話だ。二本のオリーブの木(二人の預言者)が口から火を吐いたり、雨を止めたり、水を血に変えたり、災いをもたらしたりするけど、一匹の獣がそれらを殺してみんな喜ぶ。でも、神が二人を復活させて愕然とするっていう。しかも復活の際に地震が起こって七千人死ぬ。
・そりゃそんな大暴れしてるバケモノみたいなやつらが死んだらみんな喜ぶよ。とはいえ、これは単にキリスト教系の預言者が預言をして、みんながワーキャーと混乱し、迫害によって彼らは殺されるけど復活。その際に預言者を迫害したやつらは天罰で死ぬ、くらいの話なんだろうけど。
・二本のオリーブの木は略解によるとどうもキリスト教徒全体を指しているらしい。それなら普通に「僕たちは迫害されて殺されても復活してお前らは天罰ですよ」って言えばいいのに、「僕たち」がブレス攻撃ができるとか災いを起こせるとか言うから、むしろ悪役みたいな描写になってる。
・黙11-2は「キリスト者以外は救わない」と言っており、著者は普通に偏狭だなあ。田川先生は著者はローマの資本主義的体制を攻撃していると言ってたけど、だとしても、著者が全世界の虐げられし被支配階級の味方だとはとても思えん。被支配者も非キリスト教徒なら死ねって感じじゃない?
・おお! ミカエルが竜と戦ってる! そして、竜が女に対し追撃戦を仕掛けてる。ここらへんがファンタジー的にはクライマックスではなかろうか。黙12-7
・黙示録も13章辺りになると、何が何を象徴してて、一体何がいいたのかさっぱり分からなくなってくるなあ。頭の一つの致命傷が治った獣ってなんだよ。「ネロの再来」って何のことだぜ。
・「再来のネロ」って、ローマ人を苦しめたダメ皇帝のネロがもう一回やってきてローマ人を苦しめればいいのに、っていう感じの話なのかな? だとしたら、すごく根性が悪いな。
・黙14-5「非の打ち所のない144000人」ってどの辺りのことを指すんだろうか。パウロとかもこの中に入っちゃうの?
・黙14-4「これらの人々は、子羊がどこへ行こうと、子羊に付き従っていく従者たちである」ここを見て思ったんだけど、キリストとキリスト教徒の関係って、クトゥルフと奉仕種族の関係と一緒じゃね? 星辰正しき刻、死せるキリストが再臨するんだろ。
・いや、冗談じゃなくてマジで、ラブクラフトはキリスト教を歪ませた形としてクトゥルフ崇拝を作ってたんじゃなかろうか。本人も意識しない感じで、無意識的に。クトゥルフが復活したら世界的な破局が訪れる(たぶん)のも一緒だし。
・そういえばエホバの証人が「イエスはミカエル」って言ってる論拠を確認してみたんだけど、テサロニケ第二と黙示録をくっつけたら確かに論理的にはそうなんのね。まあ単にテサ二の著者と黙示録の著者のキャラ設定が違ってるってだけなんだけど。
・あと、イエス=神ってうっかりやってる著者もいるし(うっかり、というか、初期キリスト教徒の一部はキリストの立ち位置と神の区別が付いてなかったっぽい)、同じくらい「イエス=神」という論拠もあると思うけど。(三位一体はそれを誤魔化すための理屈??)
・鎌で葡萄(罰すべき人間)を狩り集めて、酒ぶねに入れて踏み潰すとそこから血が流れだしていくという、黙示録でもかなりのゴア表現。黙14-14
・もー、いいかげんにしろよー。もったいぶってんじゃねーよー。七つ目の封印も七つ目のラッパもはやくしろよ。いつまで引き伸ばしてんだよ、なんだよこれ。黙15章
・しかし、獣の像ってなんなんだろうな。皇帝の像? それともコイン??
・はぁ? 今度は七つの激情の平鉢?? おいおい、いいかげんにしろよ。七つの封印、七つのラッパと来て、また七つシリーズかよ。封印もラッパも終わってねえんだから先にそっちやれよ。黙16章
・黙16で七つの災いが起こるんだけど、二つ目がお魚さんの全滅で、三つ目が水質汚濁(川が血に!)なんだよね。この「神に逆らう人間を罰するために自然を破壊する」という態度はどうなんだ。キリスト教徒が自然を支配していいと考えているという言説は保留するとして、キリスト教徒だから自然に対する崇敬を持っているという言説も説得力を感じないなあ。というか、この頃の人たちは自然のことなんか何も考えてなかったんじゃないかと思わんでもない。
・いやでも、この当時の人達は今よりももっと自然を脅威に感じてたはずだし、自然に感謝する機会も多かったはずだよな。うーん……。良く分からん。
・悪性のできものを作ったり、お魚を皆殺しにしたり、水質汚濁したり、太陽光線で焼いたりしたら、人間たちが悔い改めると考えてる辺りが相変わらず付いていけねえぜ。旧約の頃もさんざん言ったけど、これって「妻が浮気したからメチャクチャに殴ったらオレのところに帰ってくると思った」的な理屈じゃん。黙16-9
・で、神がそんなムチャをするから、竜や獣や偽預言者の口から出た悪霊が全世界の王を糾合して、連合軍を作って、ハルマゲドンで神に最終決戦を挑む……という話なんだけど、これ、どう考えても悪霊側が主人公ポジションだよな。利害対立を超えた友情で悪しき邪神を討伐するの図。黙16-13
・邪教の奉じる邪神が悪魔を遣わし、世界に七つの災いを降り注いだ。竜と皇帝と聖職者は世界中の王を説き伏せ、連合軍を組織する。彼らはハルマゲドンの地へと軍勢を集結し、ついに世界を破滅へ導く邪神との最終決戦へと挑むのであった!(←ほら、主人公!)
・おっ、大淫婦出てきた。メガテンで言うところのマザーハーロットだ。黙17-3
・ええええ、大淫婦が乗り物の獣に食べられちゃったぞ。なんだこれー?黙17-16
・あー、「ネロの再来」伝説のせいで、獣が淫婦を食うっていう変なコトになってんのか(ローマ皇帝であったネロがローマを滅ぼすイメージ)。しかし、女を殺して肉を食うとか、比喩表現にしても著者は嗜虐志向が強いよなあ。
・んー。18章は確かに田川先生の言うようにローマにおける富の構造(海運業者や商人への富の集中など)を問題視しているように読める。しかし、だからといって支配者←→被支配者の関係というよりは、他の新約著者の論理と同じく「世俗的な富を追いかけてるやつは悪いやつだ」というニュアンスではなかろうか。やはりヨハネ黙示録は著者の宗教的独善性がバリバリに発揮されているだけの一品にしか思えないなあ。田川先生はちょっと積極的に解しすぎ、ないしは読み込みすぎではなかろうか。
・しかし、大淫婦バビロンってのは比喩というのは分かっていても、まるでビッチの女の子をみんなで寄ってたかっていじめてるようで、読んでてあまり気持ちの良いものではないな。
・あー、キリストは淫婦(ローマ)をブチ殺して花嫁(キリスト教徒)と結婚する、っていうイメージなのか。なんかヤな話だなぁ……。全体的に女性蔑視が臭ってるというか……。
・19-1でハレルヤが出てきたんだけど、こんな文脈で出てこられるとメサイアのイメージも変わっちゃうな。
・前に弓装備の白馬の騎士が出てきたのに、黙19-11でまた白馬の騎士が出てきて、しかもどうやらこっちはキリストのことを指しているらしい。キャラかぶりじゃねーか。
・黙19-19 あー、連合軍がヤハウェ軍に負けていくー。皇帝が捕まったー。聖職者たちも捕らえられていく。竜までもが底なしの深遠に封印されてしまった。竜側を主人公にするなら、ここから最後の大攻勢に出て竜を救い出して逆転勝利する展開だな。
・竜(サタン)が解き放たれて(神もなんで解き放つんだよ)、ゴグとマゴグ(よく分からんが神の敵対的民族)を仲間につけて包囲戦を行うんだけど、天から火が降りてきて全滅した……。敵は強力なMAP兵器を持っているぞ……! 黙20-7
・竜・皇帝(獣)・聖職者(偽預言者)の連合軍がヤハウェ神軍に敗北した後の展開:キリスト者蘇生、キリストと共に千年間(長い間)統治する→竜復活、ゴグとマゴグを仲間にして包囲戦→竜敗北→最後の審判(?)キリスト者以外の復活してない死人がそれぞれ裁かれる→神による永久統治? 黙20章
・最後の審判の詳細はよく分からない。千年王国前のキリスト者の復活が「第一の復活」となっているので、普通に考えれば竜敗北後に非キリスト者も「第二の復活」で蘇りそうなもんだが(エホバの証人はこの考え)、著者は他全員を死人のままにしている。「非キリスト者が蘇れるわけねえだろJK」な感じ?
・また、最後の審判ではそれぞれの行為も参考にされるようだけれど、生命の書が最終的な判断材料になる??みたい。黙13-8によれば「生命の書に名前がない」=「獣を拝む者」なので、竜陣営の人間はそれぞれの行為に関わらず(といって神視点では行為もアウトなんだろうけど)全員アウトってこと?
・というわけで、千年王国の存在はよく分からない。結局、千年王国で救われる者と、千年王国後に行われる最後の審判でセーフになる者は全く同じ。そんなら千年王国の前に最後の審判をしても同じようなもんだけど、なんでか知らんが千年王国という中間的存在が入ってくる。
・で、エホバの証人は千年王国に積極的な意味合いを持たせようと、確か蘇った人たちのトレーニング期間という位置づけにしてたんだよな。144000人の真のクリスチャンが、順次蘇ってきた人たちをトレーニングする期間。この時に、イエスを知らずに死んじゃった人も信じる機会を与えられる。
・「キリスト者以外はみんなシネー!」って感じのヨハネ黙示録の著者よりは、エホバの証人の方がまだ温情的な理解ではある。とはいえ千年王国期間中に非キリスト者が復活するなんて黙示録にはないんだけど、エホバの人はどっからその結論を引き出したんだろう。http://d.hatena.ne.jp/Halalneet/20091121/1258780784
・略解の説明によると、千年王国という「中間的な王国」思想が出てきたのは紀元70年以降らしい。どうも「メシアが王国を作ってくれるさ!」という考え方と、「神が永遠に支配する王国が来るさ!」という考え方があって、二つがバッティングしてたので、メシアの王国(千年王国)→その後で神の支配という形で整合性を取ろうとしたのではないかということ。なんという涙ぐましい努力。
・ん、確認。ヨハネ5-28-29だ。こちらでは「良いことをした人も悪いことをした人もとりあえず一度は復活する」ってなってる。とはいえ黙20-5では「獣側についた人」は復活しないと言ってるんだからこれを無視するのはどうなんだろう。要するにヨハネ福音書と黙示録の著者の終末理解が違う。
・エホバの証人は聖書に矛盾する記述が出てきた場合は想像で補ってるなあ。これで「聖書に忠実」というのは看板に偽りアリかな。エホバの証人はちょっと勉強すると「初期キリスト教に忠実すぎて現代にそぐわない」のだと思っちゃうけど、もっと勉強すると初期キリスト教にも忠実なわけではないと分かるな。
・まあ初期キリスト教なんざそれぞれで思想がぐちゃぐちゃなんだから、「初期キリスト教に忠実」なんてやると自己分裂しそうだしね。「初期キリスト教のぐちゃぐちゃなあれこれを自分なりに解釈した物」に忠実と言ったところか。
・ついでに言うと、「死者はこれまでの行いで裁かれるわけではない」という彼らは論拠として、ロマ6-7「死んだ者は[自分の]罪から放免されている」(新世界訳)を挙げるけれど、ここは文脈上、象徴的な死(世俗的な自分が死んでキリスト者となる)なので、実際の死を扱う黙示録の論拠とするのは、ちとミスリード気味。聖書は一節二節をちょろ、ちょろっとつまみ食いすると好きに論理が組み立てれるからね。で、普通の人はまず疑問を持てない。僕も通読するまでは無理だった。まあこれを「騙してる」というか、そういう「信仰」だというかは別の問題だろうけど。
・「支配者←→非支配者」の対立構造や、ローマの富の構造(富の集中、虐げられる貧者)を黙示録の著者は問題視しているという田川説の最大の弱点は、御本人も指摘している通り、天のエルサレムが宝石でゴタゴタ飾られてるところだよなー。金持ちけしからん!とか言って自分たちは宝石欲しいのかよww 21-11
・黙22-3によると、生命の木の葉は「諸民族の治療に用いられる」らしい。神の王国にあっても「治療が必要な状況」になることがあんのか。
・ヨハネ黙示録読了。どう見ても邪教です。本当にありがとうございました。
・ヤハウェ「ククク、我は世界を滅ぼす者。だが、我の奴隷となるなら命は助けてやろう。それどころか永遠の命もくれてやるぞ」竜・獣・偽預言者「そんなことはさせない! みんなで協力してヤハウェを倒すんだ!」ヤハウェ「グフフ、永遠の炎に焼かれて死ぬがよい!」←傍から見たら明らかにこうだろ。
・一般に邪教と言われる要素をほとんど揃えているような気がする。まず世界を破滅させる。それから自分たちだけのユートピアを作る。反対するものは皆殺し。ユートピア住人は全員神の奴隷。こんなことを言ってるやつが二千年前にいたら、そりゃあ迫害するよな。よくまああの程度の迫害で済んだもんだよ。
・田川先生の言うような黙示録理解はとてもできなかった。著者は富の集中とか資本主義による階級化とかを問題視してるとは思えない。そりゃいくらかは社会正義に対する鬱憤もあったかもしれないけれど、単なる宗教的独善性と排他性が激しい怒りと共に吐き出されただけのキチガイ文書だと思う。
新約全体の感想
・というわけで、新約聖書も読了。時間掛かったなあ。以下、新約の感想。一言で言うと、大体ロクでもない。半分以上は内輪揉め。「オレはお前のことが気に入らない」って内容ばっかり。辟易する。ある意味、新約聖書というのは人間の醜さが詰まった書物と言えるかもしれない。
・イエスの語録はなかなかイイ感じ。おもしれえ兄ちゃんだ。パウロもまあちょっとくらいはイイところもあった。思想的に面白いところが少しだけある。ヤコブの手紙はいい問題意識を持っていた。そのくらいかなあ? 後は大した内容じゃなかったと思う。古代人の考え方が知れるという程度で。
・新約を読んで思ったこと2つ。まず1つめはいかにイエスの語録があっという間に台なしにされたかということ。イエスはおもしれえこと言ってんのに、新約聖書のテキストが成立した時期だけでもイエスはどっか行ってしまって、よく分からないキリストなる者に取って代わられてた。
・それでも福音書が残ったのは不幸中の幸いか。これが存在してなければ、本当にキリスト教は歯止めが利かなかったんじゃないかと思う。隣人愛の教えとか仮にも残って良かったね……!
・二つめ。聖書を読む限りだとキリスト教はヤバイカルト。ヤバイことは分かってたけど、これ程とは思わなかった。思ってた以上にヤバかった。断言できるが、今の時代にキリスト教が新たに生まれたら僕らは絶対にこれをヤバイ宗教だと認識する。そんくらいヤバイ。
・現代のキリスト教がそれでもポジティブなイメージを持っているのは、たぶんキリスト教徒が曲がりなりにもアイアイ言って、曲がりなりにもそれなりに実行してきた積み重ねと、あと見目麗しいキリスト教建築や賛美歌などのおかげじゃないかな。それと聖書を読んでないのが大きいと思う。
・あとはまあ、2000年も歴史があるので、良くも悪くも聖書から離れて社会と妥協してなあなあでやってきたことで、初期の「ヤバさ」が実際薄れてるってのもデカイかな?
・曲がりなりにもアイアイ言ってアイアイやってきたのは、「愛の宗教」という売り文句も大きいと思う。聖書を読んだ今となってはとても愛の宗教だなんて思えないが、イメージ戦略としては完璧だったんじゃないかな。信者にとっても対外的にも。信者は愛だと思って行動するし、外部もそれを見て愛だと思う