【9/23】「パウロ書簡(2)」感想


フィレモンへの手紙

・「オレさまはお前がなすべきことをキリストの名で命じても良いのだが、むしろお願いしてやろう」(フィレモン1-8) ものを頼む際の言い方がこれだよ……!

・「お前の奴隷を今後はオレさまが利用したいからよこせ」ということをこれだけ上から目線で言えるのはスゴイな……。

・フィレモンは田川先生の理解の方が正しい気がする。従来の解釈の「逃亡奴隷のオネーシモスさんを開放して自由人にしてやれ、負債はオレが払う、という内容のフィレモンさんに送った手紙」ではなくて、「お前のとこの奴隷が便利だからオレの召使にしたいんで許可くれよ」っていう解釈。

・僕が読んだ限りでは、伝統的解釈の「自由人にしてやれ」はおそらくない。田川先生の言うとおり、「奴隷でもクリスチャンになったからには関係ねえぜ」ってだけの話かと。あと、「引き続きオレの召使として使わせろ」は明らかにその通り。

・一方、オネーシモスさんが逃亡奴隷であるかどうかは分からない。たぶん違うんだろうけど。パウロに負債(これの内容も不明)を払う意志があったかどうかも分からない。「お前のとこの奴隷が便利だからオレの召使にしたいんで許可くれよ」だけはおそらく確実と思われる。他の状況はよく分からない。

・ちなみに田川先生はフィレモンの感想として、「あのパウロが追いつめられて苦しくなって自分の嫌な面を露出するかのような手紙を最後に書いてこの世を去ったと思うと同情を禁じえない」と書いている。こりゃもう完全に弱りきって辺りに当り散らす迷惑老人扱いやね。

・(もしフィレモンへの手紙に続きがあったら)「パウロさん、人の奴隷を寄越せとか、ムチャクチャ言わないで下さいよ」「なんだとこのやろう、オレさまに逆らうのか! オレさまはキリストに直に会ってるんだぞ、あばばばば」

・【メモ】とはいえ、どちらにしろ想像に過ぎない物なので、こんな短い手紙では何が何だか分からん、と結論するのがもっとも誠実な態度かもしれない(この結論は田川先生も挙げている)。


ローマ書

・ローマ書を、略解では「旧約以来の救済史を飛び越えたガラテヤへの手紙の修正であり、キリスト教会が神の救済の連続性を維持する」ものと説明するのに対し、田川先生は「優れた救済思想を提供するが、ユダヤ人優越意識にしがみついて自己矛盾」しているとする。連続性の維持=優越意識にしがみつくw

・「神の正義は福音の中に示されてるんですよ。ありがたいことに神は人間をなんとかしてやろうと思ってるので、人間の側もそんな神の計らいに対して誠実であるべきです」ロマ1-17 ←ローマ書の主題となる箇所らしいが、正しく理解できてるか怪しい。よく分からない。

・1-16~17はすごく難解で理解困難だったけど、転じて、1章のこれ以降は単なる非キリスト者への罵詈雑言なので大変読みやすく分かりやすいなあ。しかし、こういう口汚い言葉のせいで、きっと多くの純真な人達が世界中で血迷ったのだろうなあ。

・ロマ1-29~にてパウロの述べる「非キリスト者はこんなに悪い!」のうち、パウロにも当てはまりそうな項目を主観で並べてみる。「△貪欲」「△悪意に満たされている」「◎嫉み」「△殺意」「△争い」「○狡猾さ」「◎讒言」「◎謗る」「◎傲慢」「◎高慢」「◎大言壮語」「△非情」「△無慈悲」。ちなみにヤハウェにも当てはまる。(メモ:非キリスト者ではなく、非ユダヤ人、かもしれない。頭においているのはおそらくギリシャ知識人。そういえば前にパウロはアテネで知識人からバカにされたのだった)

・「非理性的」とも言ってるなー。前にパウロはアテネで知識人に福音を説いてプゲラされたことがあったはずで(要確認)、その時に「ユダヤ人には躓きとなって異邦人には愚かなことに見えるけど、神を信じてれば本当なんだもん!」って言ってるから、客観的に考えて理性とは関係ないはずだけどなー。

・ロマ1-18~を見ても、明らかにヤハウェはまだ怒りと嫉妬の神だなー。略解によれば、「ヤハウェが怒りの神から憐れみの神に代わった」という主張は二世紀に入ってから出てきたものらしい。

・「神の慈しみを無視するやつは神の怒りを溜め込んでいる」ってなんかスゴイ話だ。無視されて怒り狂うような慈しみは本当に慈しみなんだろうか。ロマ2-4

・ロマ2-14で、異邦人であっても自然のままで律法に命じる事柄を行えば、自分自身が自分にとっての律法、と言ってる。後半の意味はよく分からないが、自分たちの特殊な道徳律を、「自然のままでも行えるもの」と考えてるのはどうかと思うな。略解もここは問題視してる。

・ああ、2-1~11はユダヤ人に対して言ってるのか。じゃあ、「人を裁くな」という点は、珍しくイエスとパウロが一致してるなあ。

・2-17以下はパウロにしては珍しく良いことを言ってる。外形的に宗教道徳を守ってるだけではダメだと。ここら辺は珍しくイエスと共通するなー。というか、パウロはイエスのこの面だけを取り上げて担いだのかもしれないが。

・あんまりパウロんを褒めてパウロんを誤解する人が出たらいけないから一応言っとくけど、この人、外形的な宗教道徳を守ってるだけではダメと言いながら、自分の中で凝り固まってる慣習的道徳は何がなんでも守らせようとするからね。

・「神が不義な人間を裁くことで自分の義を明らかに示すなら、神の義を明らかにする人間を裁く神は不義なんじゃね?と思うかもしれないが、そんなことはない。でも、律法に従ってても誰も神の前で義となれないよ」ロマ3-1~20はこんな感じ? よく分からないけど、ちょっと面白い。

・神の義は相対的なものなのか、という話なのかな? 人間を不義だと決めつけてブチ殺すことによってのみ神の義が明かされるなら、そんな神の義は相対的なものだと。で、律法は人間を不義と決め付けるためにあるだけ?

・ロマ3-21~に「イエスは贖罪の供え物」とか、「イエスへの信仰によって義となる」とか「信仰によって律法なしで義とされる」とか出てくる。ここら辺見ると、パウロんの後に与えた影響は大きかったんだなと実感。しかし、これがパウロ派の教義とすれば他の当時のキリスト者はどう考えてたんだろう。

・うーむ、しかし、律法では誰ひとりとして神の前で義とならないなら、そんな律法を「ほれ、守ってみろよ? 守れなかったら殺すよ?」って与えたヤハウェは、確かに部外者がバカにして言うように不義としか言いようがないよな。イエスを贖罪の供え物にしたからって問題は解決してるのだろうか。

・田川「神様が自分で自分を宥めるために供え物を捧げるなどという考え方はナンセンスだからありえない、と神学者はおっしゃるが、もしもそうだとすれば、キリストの血の犠牲によって救われるという発想そのものもナンセンスだということになる」僕がずっと思ってたことをやっと他の人の口から聞けた! 人間が逆らうのでイラついて仕方ないから、愛する自分のひとり子を人間のためにブチ殺してスッキリする、ってどう考えてもキチガイだよな、と前々から思ってたんだよなー!

・ロマ4のパウロの理屈は、①アブラハムは無割礼の時に神を信じて義とされた ②その後割礼をしろと言われた ③だから、無割礼のアブラハムでもオッケーだったんだから無割礼の異邦人でも信じればオッケー ④イエスを復活させた神を信じればオッケー ⑤イエスはこのために蘇った という感じか?

・ただ、これはもちろん詭弁。アブラハムが無割礼の時に義とされたからって、その後、子孫に割礼をしろ、と神が命じたのだから、いま現在、割礼をしなくていいという理屈は成り立たない。そもそもパウロが言うほどアブラハムはヤハウェを信じきってない(生まれるわけねーだろプゲラって感じだった/←これサラだった。アブラハムはイシュマエル追放の方で疑ってた)。

・元来、神から押し付けられたルール(律法)に従うのは、神への信仰があったればこそで、パウロの時代には信仰というよりも外形的、慣習的なものになっていたかもしれんけど、にしてもパウロはあまりにもルールと信仰を峻別しすぎている。神を信じてれば神のルールを破って良いわけではあるまい。

・4-19の「(性的に)死んだ状態」(=老人なので子を作れない状態)って、もしかして4-17の「死者を生かす神」の証拠として取り上げてんの?? だとしたら、これまたムチャクチャな話だな。

・パウロ「律法を守ってるとポイントが溜まっていって最後の審判で救われるわけじゃないよ」「大事なのは信なんだよ!(おそらく神の信実と人間から神への信仰の両方)」「人間がちゃんと信仰してればポイントが溜まって最後の審判で救われるんだよ」 結局、自力救済&ポイント制になってる。4-3

・ロマ5「アダムの不従順によってみんな罪人になったんだけど、キリストの従順によって多くの人達が義人になれるんだよ!」 しかし、アダムがやらかした時は自動的に全員ギルティになったのに、キリストが贖罪してくれても自動的に解決しないというのは何だか不公平に感じるなー。

・田川先生によれば、パウロは「アダムが罪を犯したから、そのせいで人類はみな死ななければならない」というアダム原罪論と、「人類はみんな罪を犯しているので、みな死ななければならない」という個別責任論とでも言うべきものが矛盾しながら両方取り上げられてるらしい。前者はオマケ程度だけど(その人類が個々に犯してる罪ってのはなんだ?)。p180

・んー、田川先生の解説を読む限り、ローマ5章は、イエスが義なる行為(十字架)をやってくれたおかげで、神は既に全人類を義と認めている、という風に読めるなー。しかし、パウロとしては当然神の信実を信じてないヤツは助からないわけで……。はて、義と認められたことに感謝しろってことか?

・パウロ的には、律法があろうがなかろうが人間は罪を犯してるんだけど、律法があると犯してることがはっきり分かってお得だね!ってこと??

・ロマ6-17によれば、やはりキリストの行為により即座に救われたわけではなく、「伝達された教えの型に心から従順に」なることで、「義に仕える奴隷」とならなければならない?? とはいえキリストの時点で神からは義とされている?? よく分からんなー。

・しかし、ロマ6でパウロは、イエスが死んで蘇ったことを、自分たち罪に生きていた者が死んで、キリスト者として蘇った……というアナロジーで語ってるけど、現実のイエスは社会に抗ってギャーと苦しんで死んだわけで、それをこんな抽象的な話に祭り上げられたんじゃなんとも可哀想だなあ。

・律法のルールからは解放されたが、それはそれとして罪を犯すな(パウロの罪が何を指してるのかよく分からんが)、というのでは、ルールはないけどルールを守れ、という訳わかめなことになるんじゃなかろうか。すると、そのルールは「オレさまパウロの気に入らないことがルール違反だ」になるのでは?

・田川先生によれば、パウロ的にはキリストの死のおかげで、「罪」は既に働かなくなり人は罪の支配下にいないのだから、もう罪を犯さず生きていけるはずなんだけど、実際の人間はそうではないから、罪に従うな、と言って矛盾することになる、と。はー。ロマ6-5

・僕が理解できていないのか、パウロの中で考えが固まってないのか、どうやって判断すればいいのか分からんぜ。①パウロの考える罪とは? ②十字架の時点で神は人を義とした? ③2の状況で人は何かをする必要がある?(神の信実を信じる?) いま分からないのはこの辺りか?

・ローマ書って一体なんなんだろうな。ローマの教会に対する自己紹介??? にしても、なんでこんな上から目線なんだろうか。ふつう、自己紹介でこんな上から目線をすることはないよな。いや、単に「パウロだから」で説明できそうな気はするんだけど。

・ロマ7前半は、律法は死んだ人には及ばない点を挙げて、キリスト者になったものは罪のあった昔の自分が死んで、新しく生き返ったようなものだから、もう律法は及ばない、とか言ってる。パウロさん、そんなムチャクチャな理屈もどきを述べる必要が本当にあるんですか?

・あー、さっきの箇所、田川先生は「"律法"が生きてる限りは影響する」と理解して(確かにそうとも読めるしその方が分かりやすい!)、その上で、パウロは「律法が死んだ」なんて書けないから、4節で「律法に対して人が死んだ」と書いて自己矛盾していると考えてる。

・ロマ7-7~分かるような分からん話だ。①律法を知らない→罪を知らない→(でも罪は犯してるし、結果的に死ぬ) ②律法を知る→罪が生き返る(罪を犯す?)→死ぬ/しかし問題は律法ではなく罪。

・分かった。何が分からんのか分かった。パウロのこれまでの理屈だと律法を知ってようが知っていまいが人は罪を犯すんだけど、パウロはここでは律法を知ることで「罪が生き返る」と言ってるのが分からんのだ。知らなくても罪は犯すわけだもんな。

・心理的に理解していいなら話は簡単で、結局、ユダヤ教の律法もキリスト教のキリスト信仰も呪いに他ならず、律法を知ることで「律法に違反できなくなる」という心理的負荷が生じる。その負荷を「罪が生き返る」と表現したのなら納得。つまり悪いのは律法。でもパウロはビビリだからそれを断言できない。

・田川先生の力を借りてもよく分からんのだが、どうも人間の成長過程を頭に置いてるらしい。律法を知らない子供の頃はアーパーと生きているので、罪という悪魔的力があまり働かない、律法を知ったら"禁止事項に乗じて"悪魔的力がえいやっと働く、というニュアンスか?

・たとえば、(仮に)蛇がサタンだとしたら、ヤハウェが「知恵の木の実食うな」と言わなければ、蛇もあえてエヴァに食べさせようとしなかった、というくらいか。律法が禁止してるから、悪魔的力が禁止事項を破らせて罪を犯させようとする、みたいな。律法への態度が自己矛盾というのは田川先生も同意見。

・すげえ。田川先生がロマ7-24をベタ褒めしてる…。4行に渡っていかにパウロがロクでもないかを語った後で、「あまりに多くの欠点をはらむものであっても、なお、根本的なところで、人の心を打つものがあるのは、この他律性の自覚である」。僕も読んだ時はさらっと流しちゃったけど、ここは確かに!

・パウロがなんでユダヤ教からキリスト教に転向したかという点に絡んでくるんだろうけど、あいつもデカイこと言ってるけど、「なにが善か分かってるけど、その善を行えない」自分の不完全性を実は自覚してたってわけだ。だから不完全な自分は律法の100%遵守では救われない。なので、そんな自分を救ってくれるかもしれないキリスト教にハマっちゃった、と。自力救済ではなく他力救済。自分が頑張るんじゃなくて、神の信実により救われる。その神を信頼して自分を任せる。そういう思想に傾いた、と。こう考えるとあの本当にロクでもない、まったくもってロクでもない、人間のクズと言ってもいいパウロも大分温かい目で見ることができるし、その宗教性を評価できる点が出てくる。田川先生のこの指摘は非常に素晴らしいな! しかし、また田川先生が怒ってるように、現に略解もこの箇所をパウロ自身を指すとは考えていない。それが「聖パウロさま」という思い込みゆえなら本当に残念なことですね。

・ただ、田川先生の解釈(?)の弱点は、前のところでパウロが「いったんキリスト者になったら罪から解放される」的なことを言ってるんだよな。だとしたら既にキリスト者であるパウロ自身を指すわけがないが、しかし、パウロは今までも矛盾しまくってるから、これも矛盾の一つだろう。

・しかし、パウロの宗教者としての限界は、「律法をちゃんと守ればポイントが溜まって救われる」というユダヤ教ポイント制から脱却しながらも、「神の信実をちゃんと信じていればポイントが溜まって救われる」というキリスト教ポイント制を始めちゃったことだな。これは親鸞の勝ちだなww

・キリスト教も、「神はひとり子を犠牲に捧げて全ての人の罪を贖いました。もう何もしなくても救われます。信じなくても救われます。我らの愛の神はそんなにケチくさくありません」くらい言えばいいのにね。阿弥陀なんて向こうから追ってきてでも救おうとするんだぜ。

・25節の「神に感謝!」は田川先生の解釈だとスラッと入って文学的にもよくできてるんだけど、略解は「みじめなのはパウロではなく、旧時代の人間」と解するから、この感謝を「唐突」だと感じて、「神学的接続詞」というイミフな言葉で説明している。旧時代の人間と解しても唐突ではない気がするけど。

・あまりにつまらなくて全然頭に入ってこない……。8-3の「肉における罪を断罪」ってのはどういうことなんだ。キリストの十字架が贖いというのなら分かるけど、なんで断罪なんだ。何がどう断罪されてるんだ。

・あー、ここで言う罪は悪魔的支配力のことなんだ。つまり、キリストのおかげで罪の悪魔的支配力から解放されましたよ、ってことか。田川先生ありがとう!

・パウロは適当に文章を書くので、厳密に意味を捉えようとするのではなく、「なんとなーく、こういうことを言いたいんだろうな」くらいの気持ちで読んだ方がいいかもしれない。しかし、にしても言葉を省略しすぎなのと比喩が下手すぎるので、なんとなく受け取るのも大変なのだけれど。

・8章をふつうに読んでて、「パウロは禁欲主義的だなー(それはこれまでの記述からもそう思ってたけど)」「パウロは霊肉二元論ぽいなー」と思ってたけど、田川先生によると神学者は解釈していちいちそれを否定しようとするらしい。やっぱ禁欲主義も霊肉二元論も正統派には都合が悪いのかしら。

・【メモ】ロマ3では贖いは「罪を赦されて義とされること」。ロマ8では「朽ちるべき体が永遠のものに変えられること」。パウロ自身、「贖い」の意味を正確に定義していない。

・【メモ】ロマ8-29~30は予定説と同じ考え方。

・「キリストのおかげで罪の力から解放されて、将来的にはキリストと同じく神の子になって、キリストと共に神の相続人になれるんだから、今ちょっと苦しくてもがんばろうぜ」ロマ8読むだけで2時間も掛かったが、要約するとこれだけかなー。

・一つ意外だったのは、パウロにとっては、自分たちキリスト者は「キリストと共に神の相続人になれる」という考えだったっぽいこと。人間は最終的にはイエス・キリストと同じ地位にまで昇れるんだろうか? 少なくともこれを書いた時点では、まだキリストの方が上位とは思っていただろうけど。

・「良いことも悪いこともしてないうちから、神は愛する者と憎むものを分ける。神が不義なんじゃないかって? そんなことはない。『私は私が憐れもうとする者を憐れむであろうし、私が慈しもうとする者を慈しむであろう』と言われているからである」。いや、明言したからOKとかいう問題か? 9-10

・「神が一方的に憎んで、人の心を頑なにしてるなら、それは神の計画なんだから神に彼らを責める権利はないんじゃないかって? そんなことはない。被造物が造り主に対して文句を言うのが間違ってる」こういうことを言われると意地でもヤハウェの存在を信じれないことにパウロは頭が回らないのだろうか。

・ロマ9-19なんかは、理屈の上では全く正しく、論理的に当然出てくる疑問(パウロへの反対意見)なのに、一部のクリスチャンにとってはこれも詭弁になっちゃうんだなあ。パウロ自身の詭弁に対しては何も思わんのだろうか。

・ロマ9-22は「しかも、ぶっ壊す用に作ったお前らを長い間、我慢してくれてたし、それに、お前らぶっ壊す用のやつらもぶっ壊されたことで、生き残る用のやつらのための引き立て役になれるんだから文句ねえだろ?」って言ってるの?? だとしたら、いくらなんでも酷過ぎるんだが。

・9-22は田川先生によれば、「ぶっ壊す用に作ったやつらを、壊すことを長い間気長に我慢したことによって、生き残る用のやつらに自分の栄光をアピールした」ということらしい。

・旧約にしばしば出てくる「神が心を頑なにした(人がヤハウェを信じないようにヤハウェがした)」というのは、略解では色々とフォローしようとしていたが(強制的にそうしたのではなく自由意志に任せたとか)少なくともパウロは明確に「ヤハウェが強制的にそうした」と言ってるなー。

・ここ、略解が全く解説になってないなーw 「こう書いているように見えるが、そう取るのは正しくない」と言って根拠も何も示さないor何の説得力もない根拠を挙げる、というのはいい加減やめて欲しい。あと、恣意的な改竄、勝手な作文を「自由な引用」とか言うのもどうかと思うぜ。

・ロマ9-5は、田川訳によれば、パウロが「キリストは神」と言ってることになる。ちなみに新共同訳も同じ。「キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン」。なお、新共同訳の注釈書である略解は、ここの訳に「無理がある」とのこと。相変わらずドグマバリバリですね。

・しかし、パウロにとってはキリストは神と同位? で、人も、神の子ではなくても養子という形で神の子になるので、ある意味、キリストと同位?? そうなると、三段論法的には人と神は同じ位になって……、控えめに言っても、かなり近しい位置付けになるんだけど、それはパウロ的にいいんだろうか。

・パウロは「イスラエル民族だからってみんなが真のイスラエルではない(異邦人だって真のイスラエルになれるんだ)」を言うために、「だって、アブラハムの息子にはイスマエルとイサクがいたけど、イスマエルは異邦人になって、イスラエル人に繋がるのはイサクだけでしょ」って言うのか。ムチャクチャだ。9-8

・ロマ10前半はまたしてもパウロが、今まさに否定している律法を、「律法は大事ですよ」という旧約の引用を引っ張ってきて、その「**は大事ですよ」の**部分をキリスト信仰に置き換えてる。今から否定するものの根拠付けに、それを肯定するものを持ち出して読み替えるんだからなあ。

・パウロ的には、イエスが主であると告白し、心の中で神がイエスを死人の中から蘇らせたのだ、と信じれば救われるらしい。ロマ10-9 条件がシンプルでわかりやすい。でもこれを信じている同僚のキリスト教徒でも、自分と意見が合わなければ、呪われろとか、お前は助からないとか言ってたんだろうな。

・ロマ10-1~4「①ユダヤ人も律法を守ろうと努力して熱心だったことは認める」「②でも、彼らは正しい認識によってなかった」「③神の義を知ることでなく自分の義を追い求め神の義に従わなかった」「④キリストが律法の終わりで、信じる全ての者を義に至らしめるからだー!」

・①~③までは面白いんだけど、④の結論が唐突すぎる。いきなり「キリストが律法の終わり」とか宣言して、誰が納得するんだよ……。今までにそういう議論あったっけな……。あったようななかったような……。

・パウロ「神はイスラエルを退けたのかって? まさかそんなことはない! なぜなら現に、この救われている立派なパウロさまがイスラエル人ではないか!」ロマ11-1 はいはい、パウロ、パウロ。

・【メモ】田川p276にバアルの詳しい説明。

・①イスラエルは律法に固執して救われない②一方で異邦人のが救われてる③イスラエル人は救われた異邦人を妬む④妬むことでイスラエル人もキリスト信仰をするようになる??(なんでだ?)⑤最終的にイスラエルは全員救われる(ええ???) ロマ11の理屈はこんな感じか??

・イスラエル人にとっては、自分はかつて神に言われたとおりのルール(律法)を守ってちゃんと生きてるのに、いきなり、「律法に固執するから救われない!」「律法を守ってないやつが救われるのを見て妬んで、お前らも立ち直れ」とか言われたら、ああ、キチガイが何か言ってるな、としか思わんだろうな。

・ヤハウェからしても、自分でルールを与えておきながら、それを守ろうとするイスラエル人を救わずに守ってない異邦人を救うことでイスラエル人を妬ませるなんて不思議なことはしないだろうに、パウロ的には「神は知恵が深く、さばきが測りがたく、神の道のなんと探りがたきことか」で解決らしい。

・「迫害する者たちを祝福しなさい。祝福しなさい。呪ってはならない」ロマ12-14 SUGEEEE!!!! お前が言うか、パウロ!!!! ロマ1なんかも十分に呪いだと思うけどな。

・パウロは飢えた敵を食べさせたり、乾いた敵に飲ませろと言ってるんだけど、「そうすることによって、あなたは燃える石炭を彼の頭の上に積み上げる」かららしい。元々の箴言の意味はよく分からないがパウロ的にはとにかく神がぶっ殺してくれる(からお前自身は敵に立ち向かう必要はない)という理解か。

・ふと思ったんだが、「人間にイライラしたから、自分の愛するひとり子を殺してスッキリするヤハウェ」というのは、旧約を読んで得られる「頭のイカレたヤハウェ」像に照らせば、真に一貫したヤハウェのキャラクター性ではなかろうか。意味は分からんが、ヤハウェはこういうことをしかねないやつだった。

・あれ……?? 「迫害するものを呪うな、祝福しろ」と、「(神が後でぶっ殺してくれるんだから)むしろ迫害者にも親切にしてやれ」ってのは成り立つの? 後者って僕的には呪いみたいなもんだと思うんだけど、パウロの考える呪いの概念がまた違うのかな。「呪われよ」と言わなきゃ呪いじゃない?

・この時代の呪い概念はもっと実際的なもので、今呪ったら明日死ぬようなものであって、パウロの言ってるような「最後の審判であいつらぶっ殺されるから」というようなのは呪いじゃないのかもしれない。でも、使徒行伝でカネを誤魔化した?夫婦が直ちに死んだのは間違いなく呪いだよなー。(人が行うのが呪いで、神が行うのは呪いではない??)

・【メモ】理性は本質的に神の事柄(田川p291)→(『キリスト教思想への招待』p67)

・【メモ】「奴隷は主人に従順に仕えろ」(ロマ12-11)<ここの主人を神と捉えれなくもない>

・「燃える石炭を頭の上に積み上げる」の田川先生の解釈は、「相手は、自分の敵からそういう慈善を受けたというので、心理的にかりかりきて、頭の上に火を積まれたようになる、ざまあみろ」。これは前に川上先生に教えてもらったのと同じだなー。田川先生はパウロが性悪と言ってるがむしろヤハウェでは?

・パウロ「上位の権威に服従しろ。権威は神が定めたのだから。悪人は権威の武力でぶっ殺される。税金もちゃんと納めろ」ロマ13-1 歴史的に幾度となく悪用されたであろうことが易々と想像できる箇所。

・しかし、パウロのこの理屈だと、善であったはずのイエスが権威によって処刑されたのはどうなるんだ? 神の計画だから例外なのか?? あと、当時のサドカイ派なんかも神によって高位にあったんじゃないのか? また、パウロ自身も(伝承に言われるように)殉教する必要はなくなるんじゃ?

・略解は「別に永遠普遍の真理を言ってるわけではなく、もうすぐ終末が来るけど、熱狂してハメを外すなよ」程度の物、という理解。たぶんこういうだろうなと思ったらこう言ってた。理解としては正解かもしれんが、それならパウロの他の箇所も時代的制約を受けたものとして理解すればいいのにね。

・パウロは自分がローマ市民という特権階級だったから、ローマ皇帝のことも安直に信じてたのかもしれない。まあ、伝承の通りなら、この後、そのローマ皇帝から殺されることになるわけで、残念でした、ということか。

・ロマ14章は単にメシの話をしているのか、メシにかこつけて信仰の捉え方の話をしてるのか分からんな……。

・しかし、これまで他人の信仰のあり方をまったく受け入れようとしなかったパウロが、ここでのみ他人の信仰のあり方を受け入れようとしてるのか?? パウロならやりかねん。メシの話にしても、なんだかんだ言った後で、でも肉食うな酒飲むなという具合だし。

・ロマ14はよく分からんが、パウロは自分自身がバリバリにユダヤ教の慣習を引きずってるくせに、「慣習をひきずる弱いやつらを責めるな」と言った上で、でも自分自身の趣味である禁欲的な志向が鎌首をもたげて、結論としてはなぜか「酒を飲むな」「肉を食うな」と言うことになってるんだろうか。

・ロマ14-14は久しぶりにパウロが生前のイエスの言葉を引き合いに出したと思ったら、イエスにケチをつけるために出したのか……。この人、本当にイエスのこと無視するなあ。

・「ユダヤ教の慣習なんかどうでもいい。(異教の神に捧げられた)肉を食っても別に構わない。でもそれはそれとして、嫌な人は嫌なんだろうから食わなくていいし、あと、傍から見られたらキリスト教徒は神を冒涜してると誤解されるかもだから、やっぱ肉食うな。ついでに酒も飲むな」が田川先生の解釈。

・ただ、13-23なんかは明らかに「肉を食べれる人」寄りだろうし、パウロが本当に「オレは肉を食うなと言いたいが、イエスが食っても構わんと言ってるから、構わんのだけどやっぱ食うな」という考えかどうかはちょっと保留したい。次を読めば分かるのかな。(14章はちと田川先生が悪く書き過ぎな感がある)

・14-21さえ外して読めば、14章は単に「問題ないという信仰心をもって食べれば問題ない(心理的に救われたままであり問題ない)」「でも、そういう信仰心をもって食べれないなら食べない方がいい」というだけで、まあ、まあ理解できる。すると21節が意味不明なんだが、岩波訳の読み方なら可能。

・エルサレム教会への献金について、「異邦人がユダヤ人の霊的なおこぼれに与れるなら、ユダヤ人に対して人間的な仕方で仕える負い目をもっている(カネを送らなければいけない)」ロマ15-27 なんだこりゃ。今までもなんかきな臭い感じがしてた献金問題だけど、いよいよ胡散臭く思えてきたぞ。

・パウロ「ヤハウェがユダヤ人の父祖に約束したのを果たすためにキリストがユダヤ人に仕えるものになったんだけど、なんと憐れみ深い神は異邦人も救ってくれるのです!」 ユダヤ人のおこぼれに与れるのが「神の憐れみ」なのか。ロマ15-8

・この辺、「子供に与えるパンを取り上げて犬にやるわけねえだろ、JK」「犬だって落ちたパンくらい食うじゃないすか」っていう福音書のあの流れを彷彿とさせるなあ。

・田川先生によると、マタイ7-22~23はパウロ批判という意見があるらしいwww さもありなんwww

・エルサレム献金問題だけど、田川先生いわく、やはり別にエルサレムに貧しい人がいたわけじゃなくて、「貧しい者」は神の前で謙虚、という意味らしい。田川先生いわく、どうもパウロも金を集めて来いと言われて嫌だった? 金を集めるのは実際辛かった?? これは僕には読み取れないが……。

・田川「この献金については、なにせ、分からないことだらけである」。あー、なるほど、現状はこうなのか……。「エルサレム教会献金問題は何なのかよく分からない」がとりあえずのアンサーってことでいいみたいだ。

・さて、パウロ書簡は全て読み終わったので改めてパウロのまとめを。一言で言うとダメな宗教者の典型。自分が何か特別な人間であると思い込み、他人を見下し、自分と異なる意見を持つ者を口汚く罵る。自分の体験した(と思い込んだ)奇跡を根拠に全てを正当化しようとし、理屈で責められると逆ギレする。

・ユダヤ教の律法に対する反撥的感情を持ちながらも、ユダヤ人の慣習からは抜け出せず、自分の個人的な趣味や志向も他人に押し付ける。自民族優越思想を捨てきれず、性差別主義者。死ぬのをとても怖れており、生きているうちに永遠の命が授けられると信じきっている(or信じようとしている)。

・人間の努力で救われるのではなく神の恩恵により救われるとする神中心主義は見るべきところアリ。しかし、本人は「努力で救われる」路線を捨て切れておらず不徹底。また、当人にカネなどの世俗的な邪心がなかった点は評価していいが、本人がおそろしくそれを鼻にかけて自慢するので、素直に褒めにくい。

・個人的感想としては、パウロは、あれはただのイカレたオッサン。ただ、キチガイだけど、その思想に見るべき点もある。まあ本人がイカレてるのはしょうがないとして、後世の扱い方が悪かった。「キチガイだけど見るべきところもあるね」と評価すればいいのに、「聖パウロさま」なんて祭り上げるから、あの偏狭な「聖パウロさまの個人的趣味」や「聖パウロさまが個人的に思ったこと」なんかが幅を効かせてしまった。少なくともパウロは「明日にも最後の審判が来る!」と思い込んであれするなこれするなと言ってたんだから、実際に来なかった以上、パウロ思想の幾つかとは決別すべきだったんじゃないかな

・というか、パウロの「あれするなこれするな」を重視すると、彼自身のコアな思想である「人間が努力してもダメー」「神の恩恵で救われるの!」と真っ向から対立し、結局、ユダヤ教の「ルールを守れば救われる」に戻っちゃうんじゃ? パウロ自身が自己矛盾してる以上、パウロの全面肯定は本質的に不可能?

コロサイ人への手紙

・コロサイ書成立時期を、略解と岩波訳はコロサイが地震で潰れる前の60年頃と推定。田川先生は「パウロが死んですぐに偽手紙を作ることはすまい」と80年以降を推定。しかし、むしろ死んで20年経ってから手紙が出てくるのもうさんくさい話ではなかろうか。古代の常識が分からんから何とも言えんけど。

・【メモ】田川先生がプレローマに関して詳細な説明。P472

・キリストの十字架により人間は(神と?)和解する→最後の審判で咎められるところのない者として(キリストの?前に)立つ→ただし、それもパウロさまの伝えた教え通りに生きていたらだぞ。コロサイの著者(パウロではない)の考えはどうもこうらしい。コロ1

・1章読むだけで3時間掛かった……。僕の集中力不足に問題があることは否めないが、テキストの方にも問題がある気がする。なんか分かったような、分からんような……。意味があるような、ないような……。なんとも言えない不思議な文章。ともかく確かなことは、つまらない。

・【メモ】パウロが復活を未来的な出来事と考えてたのと異なり、この著者はそんなことは起こらないと思ってるので、比喩的な意味で「もう蘇ったよ」的に言ってる。

・2章を読んだ段階でも何を言いたいのか全く分からんのだが、宇宙にふよふよしている神話的なもの(星座とか?)に神性があるんじゃなくてキリストにあるんだよ、星を拝んだりしてはいけないよ、くらいの話? ただ、星と同様に安息日も批判しているので、とにかくユダヤ教でも他の哲学的思想でも、何でもキリスト教以前のものは否定しようという考え?

・現状、キリスト教外の思想に対して「ダメですよ」と言ってはいるけど、なぜダメなのかを論理的に説明せずに、ただただ「ダメですよ」しか言ってないので、全く説得力がなくつまらない。まあ、内部の人間は福音やらなんやらを信じていることが前提なので「ダメですよ」だけで通じるのかもしれないが。

・3章は非常につまらない抽象的な道徳倫理を説いているだけ、か? 特に見るべき点はない気がする。「キリストの前では全て平等なのです! そう、あの野蛮人の代表と言えるスキタイ人であってさえも!!」(コロ3-11)って辺りがどうかなー(笑)って思う程度か。

・田川先生いわく、パウロは「世界中の人間」=ユダヤ人とギリシャ人だったけど、コロサイ書の著者はもっと視野が広いから野蛮人であり地の果てのスキタイ人まで含めてくれた、ということらしい。

・略解「二章では『偽りの教え』の特徴とされてる『謙遜』が、何の釈明もないまま『キリスト教徒が身につけるべき美徳』として挙げられている」。ナイスツッコミ。言われないと気付かなかったぜ。しかし、略解は護教的配慮から、その後に説明になってない説明でフォローしようとするのが困り物だ。

・これはつまり、キリスト教以外の外部の哲学思想、宗教思想にあっても、倫理的にはキリスト教の求める物と近いものがあった(謙遜)、ということだろうか? まあユダヤ教にだってあるんだし当たり前のことかもしれんが。別に倫理的に特段に優れてたわけではなく特殊なドグマを持ってただけ、って感じか?(田川先生も詳しい説明をしてくれなかったし、この一点だけでそこまで言うのも危ないか)

・「女は男に従う」「男は女を愛する」。この倫理においては、「女は男を愛する」が成立しないのだろうか。「愛する」という感覚がそもそも違う?(目上から目下に対する感情?) コロ3-19

・神に従うかの如くに奴隷は主人に絶対服従しなさい、というのは、まあ実際問題、そうした方が主人も気に入ってくれるだろうし、そうなると奴隷の待遇も良くなるだろうから現実的な知恵ではある、のかな? 奴隷制に対する疑問は全然感じられないけれど(実際なかったんだろう)。

・コロサイ読み終わったけど、これ、よく分からない。なんとなく想像するなら、天的な諸力(宇宙の霊的な力が地上に影響を与える、という感覚。星占い的な?)に対して、キリスト教徒はあんなもんに影響されんじゃねえ、と言ってるだけのような。実際に影響されている人が教会にいて、それに対して警告しているのか、それとも「こういうけしからん風潮が流行ってるので釘を刺しておくか」程度なのかも不明。否定の仕方も本当に「影響されんじゃねえ。とにかく影響されんじゃねえ」しか言ってないので説得力がなくてつまらない。

・いや、一応、説得の根拠としては「スゲエのは全部キリストだから。神的なのも全部キリストだから宇宙の霊的なアレは別にスゴくないんだから。とにかくスゲエのはキリストだけだから」と述べられてはいるか。外部の人間には何一つ説得力がないので、根拠になってるとは考えにくいが。


エフェソ人への手紙

・エフェソ1章も面白いくらい頭に入ってこないな……。なんか大したことは言ってないのは分かるんだけど。

・エフェ1-5は予定説かと思ったら、田川先生によればユダヤ人の選民意識、思い上がり、らしい。論理的にはユダヤ人キリスト教徒だけが世界のはじめから選ばれてるはずはないんだけど、まあこの程度の論理的ムチャクチャさはナチュラルにやりかねん。

・略解では予定説的な方向に傾きつつも、これは神への賛美の表現だから、滅びる者の予定という発想とは無縁、という、とても理解しがたい説明をしている。仮にその発想はなかったとしても論理的にはそう帰着せざるを得ないだろうに。

・エフェ1-12の「私たち」の解釈が田川先生と、岩波訳&略解でまるで違う。おそらくだが、これはエフェソス書簡を「選民意識バリバリのユダヤ人が異邦人をバカにしてる」と取るか、「ユダヤ人と異邦人の一体化を目指している」と取るかで変わってくるのか? 僕のレベルでは判断つかねえよ。

・ううう、読みにくく、つまらなく、辛い。もっと分かりやすい具体的な話をするか、もしくは抽象的でも、もっとクリティカルな大事な話をしてくれるならいいんだけど、抽象的な上に大して大事でもなさそうなことを延々だらだら書かれるのが一番辛い。

・「私たちは生まれつき神の怒りを受けるべき存在だったのに、神の超スゴイ恵みによりイエス・キリストにおいて救ってくれた」って、そんな、ヤハウェが「産まれるや否やブチ殺したくなる」ように作っておいて、ブチ殺さないでおいてやるのが超スゴイ恵みだとか言われてもなあ。エフェ2

・キリストは死ぬことによって律法を無効化し、ユダヤ人と異邦人の垣根を崩して、両者の間に平和を生み出したんだって。イエスは律法の無効化なんて考えてもなかっただろうに、一人の人間の死をゴテゴテと装飾したら平和をもたらしたことにさえなるんだそうな。エフェ2-15

・律法が無効になるとか、それにより異邦人とユダヤ人が仲良くなるとか、そんなんパウロが勝手に言ってるだけで(いや、パウロは律法の完全無効化とか言ってないけど)、それがイエスの働きだってことにされちゃうんだから、こんなんもう死者への冒涜みたいなもんじゃねえの。

・オレが酒飲んで酔っ払って、そこら辺のチンピラとケンカして殺されたとして、「架神さんは自らの死を通して、第三次世界大戦を回避したのです!」とか言われたら、嬉しいかって言われると決して嬉しくないわけで、なんかそういう感じ。

・エフェ2-12は田川先生は皮肉だと言ってるし、確かにそう読めるけど、どうなのかなあ。この箇所に限らず、皮肉と言われる場所が本当に皮肉なのかどうかは分かりにくい。言われてみると皮肉な気もするし、そうでもないような気もする。

・やっぱりエフェソスでは田川先生のテキストにいまいち説得力がないなあ。「皮肉」とか「嫌味な表現」が本当にそうなのか?って思ってしまう。言われるとやっぱりそういう気もするんだけど、ううん、どうなんだろう……。エフェソスは本当に異邦人信者をバカにした内容なのだろうか。

・あー、ちょっと分かってきた。エフェソス書が「ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒が一緒になる」ということを言ってるのは間違いないとして、田川先生の問題意識は、あえてそれを言うということは「異邦人が救われるのは決して自然なことではない」という強調だという指摘なんだ。

・「ユダヤ人だけでなく異邦人も救われる? 当たり前だろ??」というのが当時の情勢だとすれば、「異邦人も救われるんですよ! なんと異邦人もですよ! 異邦人が救われるなんて秘技ですよ!」と連呼すれば、それが「当たり前ではない」感じになる。エフェソス書の狙いはそれだ、ということ。(田川P559がエフェソスの理解に有用? ユダヤ教徒と異邦人が仲良くするような心温まる内容に見えるが、「異邦人共ナメんじゃねえぞ」という感覚だったかもしれません、的な扱いをすべきか)

・エフェ3-8はパウロをディスってる?? 「異邦人にキリスト教を伝えるなんてのは、ユダヤ人キリスト教徒の中では最も最も最も小者のパウロに与えられた仕事ですよ」?

・エフェ4-9「この『彼は昇った』は、彼が地のより低いところへも降ったということ以外に何を意味しようか」 著者が何を言ってるのか、わけがわからないよ。

・あー、エフェ4-9の意味分かったー。高いところに昇るということは、前提として低いところに降りたから(降りなければ昇れない)ってことが言いたいんだ。その理屈もどうかと思うが(別に降らなくても昇れる)、ともかく言いたいことは分かった。

・しかし、エフェ4-18とか非キリスト教徒に対してメタクソに言うなぁ。こういうこと言われると、ユダヤ教発のへんちくりんな新興宗教のくせに何偉そうなこと言ってんだ、と反撥したくなる。

・エフェソ5章読んでる。教会がキリストに従うように、女は夫に従いなさい、ってのが出てきた。これのせいで、雅歌をキリストと教会の結婚とか、訳の分からん解釈をするようになったんかね。

・エフェソス5章はしみったれた、安っぽい道徳宗教だなあ。部外者に対する呪詛にも似た悪口が言い散らかされているので、道徳宗教以下、という感じがするけど。なんというか、道徳訓を述べているお前自身に道徳が必要だな、って感じの。

・あ、田川先生が言ってた。やっぱりこの辺りが「キリストと教会の関係を聖なる婚姻関係」とする始まりなんだ。

・田川先生も言ってるけど、「妻は夫を愛し、夫は妻を愛せ」が現代的感性なのに、ここでは「妻は夫に従い、夫は妻を愛せ」。エフェソスやコロサイにおける「愛する」というのは多分僕らの「愛」の感覚とは異なって、目下に対する目上の温情とか、そんなニュアンスなんだろうな。

・エフェ6-5~以降の展開は、ヤハウェの唯一の美徳である「共同体内での平等」という点からは評価される気がする(主の前では自由人も奴隷も一緒)。実際的には奴隷制度を正当化する動きに与しているという難点はあるが(本当に一緒なら奴隷制度をやめりゃいいのにそういう発想にはならない)

・エフェソ読了。後半は話が簡単になってくれたのでサラサラ読めた。どうせ大したこと言ってないんだから最初から簡単な話をしてくれればいいのに。ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒は一緒だよ!という心暖まる話なのか、異邦人どもも仲間に入れてやろう、という上から目線なのかは判断不能。


テサロニケ第二

・テサロニケ第二読みやすいなー。やっぱコロサイとエフェソがどうかしてたんだよ。

・「[そして主イエスは]神を知らない者たち、そして私たちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに懲罰を課す」(テサ二1-8) イエスについての一般的なイメージ、つまり、救いとか慈愛とかとは程遠い、呪いとしてのイエスイメージ。

・テサ二の2章は終末の日へと至る展開が詳細に書かれてて神話的に面白いなー。終末の日は「滅びの子」が自分が真の神であると公に示した後に到来するらしい。ただ、滅びの子が登場するタイミングを調整するために彼を抑えているものがいるらしく(誰かは分からない)、それが消えてからGOらしい。

・ちなみにイエスはブレス攻撃で滅びの子を殺すらしい(直訳は「除去する」らしい)。あと、2-11によると、相変わらずヤハウェは人間を迷わせて、「ヤハウェを信じないようにさせる」らしい。頑迷預言もそうだけど、なんでこういうタチの悪いことをすんのかな、こいつは。

・2-2はテサロニケ第二の著者(パウロのふりをしてる)がテサロニケ第一(著者はホンモノのパウロ)をニセモノ扱いしているとも読めるらしい。説得力はまあまあ。しかし、そう考えると大変愉快なので、そう受け取りたい誘惑に抗えそうにない。

・ああ、やっぱりテサロニケ第二は、さっきの神話的な箇所がウケてるらしい。キリスト教徒の考える終末論の基本モデルはさっきの部分に依拠するみたい(とはいえ実際は新約の終末論の一つに過ぎない)。田川先生は「滅びの子は(テサ第二では)アンチキリストじゃないぞ」と釘を差してる。

・宗教改革の時代には、ルターが「滅びの子はローマ教皇のことだ!」って言って、カトリックは「滅びの子はルターのことなんだよ!」って言ってたらしい。自分の嫌いな相手をレッテル貼りするのに便利な言葉ですね。

・3-10にあの悪名高きセリフ、「働きたくないなら、その者は食べてはならない」が出てくる。文脈的には、おそらく「もうすぐ終末が来るぜー!」「働いてらんねえぜ!」って浮かれた人たちを牽制するための言葉だったんだろうけど、まあ、そんな文脈はお構いなしに好き勝手に用いられています。

・しかし、パウロも実際は教会からカネ貰ってたんだぜ。生活費を自分で稼ぐこともありました、程度。テサロニケ第二では、まるで全生活費を自力で捻出してました、みたいな言い方だけれど。

・ただ、2-2がテサロニケ第一への批判だとすれば、3-10はは「パウロだなんてイカレた新興宗教に浮かれてないで、ちゃんと働きなさいよ」というメッセージとも受け取れなくもないのかな。

・どうでもいいけど、「働きたくないなら、その者は食べてはならない」があるのに、カトリックとかの専業宗教者(神父さん)はどういう理屈で成り立ってんのかな。個人的には宗教者が信者からメシを食わしてもらうのは極当然だと思うけれど。サービス業だしね。

・テサロニケ第二終了。これなんかも、ある言葉が何を指すかで大分解釈が変わってくるテキストだなあ。「テサロニケ第一はニセモノです。あんなものに浮かれてないで落ち着いて働きなさい」が一番ひどい解釈だろうか(笑) イコール田川先生だけど。


テモテ第一

・【メモ】律法の解釈がさらにシンプル化

・牧会書簡読みます。まずはテモテ第一から。緒論を読んだ時点で、なんだかけったくそ悪い内容が予想されるけれど、その分、内容は簡単であることを祈りたい。

・ちなみに牧会書簡に関しては田川先生も当然ボロクソに言ってるが(というか田川先生はコロサイなどごく一部を除いて褒めないけど)、なんとあの護教的な略解でさえも苦々しげな緒論を書いている。「どう考えてもアレなんだけど、まあ良かれ悪しかれうんぬんかんぬん……」的な。

・「女が教えることを私は許さないし、また男に指図することも(許さない)」テモ一2-12 やったじゃないですか、パウロさん! パウロさんの女性差別的な視点がちゃんと後世の弟子に伝わってますよ!

・2-1~は、キリスト教徒は大人しくして、権力者に祈りを捧げて(おべっかを売って)、市民道徳を守ることで、平穏に生きていけるようにしましょう、的な話なのかな。まあ別にいいけど、もうイエスの反社会的精神は完全に継承してないよね。

・「女は黙ってろ」の根拠としてテモ一では①エバよりアダムが先に作られたから②アダムは騙されなかったがエバは(蛇に)騙されたから、を挙げているが、①に関して略解は「古いから価値があるって錯覚だろ」とバッサリ。土屋博せんせー、頼りになるなー!

・②に関しても、創世記には確かにエバが騙されたことは書いてあるが、アダムが騙されなかったとも書いてない。エバから知恵の木の実を渡されたのでモグモグ食ったとあるだけ。この辺はラビ的解釈だとそうなっているのかもしれない。

・「(私は異端者どもをサタンに引き渡したけど、それはそれとして)すべての人のために祈りましょう。そう、すべての王や高官たちのために」テモ一2-1 田川先生的にはこうらしい。すごい話だ。

・テモ一3章の管理職の資格については、まあまあ理解できる。特に、周囲から悪評を受けないよう、評判の良いやつがなるべきだ、とか。しかし、資格条件の中に「家庭をしっかり管理していること」というのがあるが、これなんかはパウロの「独身が望ましい」とも反する意見だよなあ。

・「終末(?)になると偽りを言う者どもが現れるぞ! そいつらは結婚を禁じたり、食べ物を断つようにいうぞ!」テモ一4-1 これ、パウロじゃん。パウロは結婚を禁じたし(後で妥協したけど)、「食べ物を断つ」が一部の食べ物を、という意味ならパウロは酒を禁じたよ。

・少なくともテモ一が禁欲主義をディスってることは確実で、そして、パウロは禁欲主義者であった。

・テモ一5-3で「寡婦を援助しろ」と、オッ、なかなかいいことを言うこともあるじゃないか!と思わせておいて、その直後から延々と女性に対する先入観的な悪口が続いてげんなり。

・「教会の指導者は二倍の報酬を受けるべき」テモ一5-17 パウロは宗教指導者もオレさまのように働いて稼げって言ってたのに!(働きの良い長老がほかの長老の二倍のサラリーの意か?)

・テモ一5-11~はよく分からんなあ。若い寡婦は援助を受けれない、それどころか再婚したいと思い始める、再婚するようなやつは裁きを受ける、若い寡婦は働きもせずロクなこともしないので、それなら結婚した方がマシ。こういうこと? 理屈が通らないけどこうとしか読めない。

・あと、どうも5-23からすると、飲料水として水ばかり飲んでると体に悪い、という感覚があった? 適度に酒を飲まないと体に悪いよ、的な。水質的にそうだったのかもしれない。(どうもパウロ教の禁酒主義に対するアンチだった?)

・田川先生いわく、5-3~の流れは「寡婦を助けてあげましょう」ではなく、そういう風潮をできるだけ制限しよう(ただし、助けるべき寡婦はこうこうこういう人だけです)という意図らしい。本当に助けようとする人は当たり前だと思ってるからテキスト化しない、とのこと。まあ、田川先生の政治的スタンスで差し引いて見た方がいいかもしれんけど。

・「息子のいる寡婦は教会に援助してもらうのではなく子供に食わせてもらうべき」「真に援助されるべき寡婦とはこのようなものである。たとえば、子供を育てた寡婦」。田川先生が怒ってるwwww

・5-11~の訳分からんかった流れは、田川先生によると「寡婦は再婚してくれれば、教会の老人福祉費用が浮いて助かる。再婚なんかする女はたぶん神の裁きを受けるだろうが、そんなことは教会としては与り知らぬ」と解釈。流石にいくら何でも酷過ぎる気がするが……。

・テモ一6-3「私たちの教えと違うことを言ってるやつがいたら、そいつはキチガイで、理性が腐っています」。すげええなw


テモテ第二

・テモ二1-15で、フェゲロスとヘルモゲネスが離反したと書かれてるけど、この著者が気に食わなかった、という意味だとしたら、ひょっとすると、「女性も教会で教えてもいいんじゃないですかね」「寡婦にはみんな親切にしてあげればいいんじゃないですかね」とか言ったのかもしれんね。

・テモ二2-18によれば、この著者は「既に信者の復活は起こっている」と言ってる人たちを「真理から迷いでている」扱いしてるけど、しかし、この著者にはなんでそれが真理ではないと分かったんかね。「死者が復活するわけねーじゃん」と、まさか思ってたわけではないだろうに。「終末の日が発生する前の前提条件」的なものがなんかあったんかね。テサロニケ第二で語られてるような。

・どうでもいいけど、もし彼らがゾンビを見たんだとしたら面白いなーと思ったり。初期教会・オブ・ザ・デッド。「た、大変だ! 死者が蘇って人を襲っている!」「一部の異端者どもは既に復活が起こっていると言ってますが騙されてはいけません!」←終盤でゴアられる。

・2-25「犯行する者どもを柔和さをもって訓導せねばならない」。テモ一であれだけ異端者を悪し様に罵っておいて、それでいて、「神が悔い改めを与えるかもしれないからニコニコ接しましょう」なんて言われたら、世のニコニコしているキリスト信者をまともに見れなくなっちゃうぜ。影では何言われてるか分かったもんじゃねえ。

・田川先生によると、グノーシス主義者は「既に復活は生じている、自分たちは既に復活した存在なのだ」と言っていた、と正統派は理解していた、ということらしい(実際はどうか知らないが)。しかし、それよりもコロサイ2-12に見られるような、比喩的な「甦らされた」を批判しているのではないか、と(だとしたらパウロ派内部でのグダグダの争いということになる)。

・テモテ第二の3章はひどいなあ。読んでてげんなりする。

・テモ二3-1「終わりの日々には重苦しい時節が到来すること~」。エホバの証人とかは、今がどれほどロクでもない時代か力説して、ゆえに終末の日は既に来ていると力説するんだけど、たとえばバハイ教なんかは逆に進歩史観なので、現代は昔に比べて素晴らしい、と考えてるんだよね。

・まあ、バハイはバハイで楽観的に過ぎると思うけど、ともあれ、「現代」の捉え方なんて、どう読み取りたくて、どのファクターを見てるかということだけだろう。実際は、良くなってるところもあれば悪くなってるところもあるというだけかと。

・3-6~以降は、著者が気に食わない思想を持った人たちが「おなごたちをたぶらかしてる」って言うんだけど、それはいいとして(良くないけど)、なぜかその直後からたぶらかされた女たちをボロカスに言い募ってる。たぶらかしてる男をボロカスに言うならともかく、騙される女どもは「罪で充満」しているというなど、著者の品性が下劣すぎる。「女性はすぐ騙されるんだから黙って子供だけ産んでろ」的なのがテモ一にもあったけど、本当に最悪ですね。

・3-13~14は「おまえはオレさまたちから学んで確信したこと以外を信じるな。他のやつらが何か言っててもあいつらはペテン師だ」という内容。しょうもない。ただ、15以下は学んだ内容が聖書に依拠してることを示唆するのかもしれない。(といっても「他のやつら」も聖書に依拠してるだろうけど)

・テモ二3-16が聖書霊感説の根拠の一つなのか。しかし、少なくともここで言ってるのは旧約聖書(この時点では新約聖書は存在してない)。新約聖書が霊感によって書かれた根拠にはならないな。他のところとの合わせ技一本で新約も霊感によるものとなるんだろうか。

・テモテ第二終了。むなくそわるくはなったが、特に面白いところはなかった。


テトスへの手紙

・テト1-6では長老になれる条件として、「子供がいること」というのがあるんだけど、だとしたらカトリックの独身制と真っ向対立するんじゃないかな? ただし、田川訳ではそのように読めないので保留。(田川訳でもこういうことでいいみたい。長老=司教に相当?)

・先の、長老の就任条件だけど、やっぱり「子供を持つ」でいいみたい。となると、長老がおそらく司教相当だろうから、カトリックの独身制度はさっぱり分からんことになる。確かにパウロは「できれば結婚すんな」とは言ってるけど(そもそも新約のテキスト内に矛盾があるんだもんな)

・1-7「監督は~唯我独尊でなく、癇癪持ちでなく~でなければならない」 つまり、パウロや牧会書簡の著者はダメってことじゃねーか。こんなことを恥ずかしげもなく言うとは、たぶん本人たちには自分が唯我独尊だという自覚は全くなかったんだろうな。

・テト1-12~がひどい悪口をいっていることは分かるが、指示代名詞が不明瞭で内容を捉え切れないのでちょい保留。田川せんせーか土屋せんせーがきっと説明してくれるだろうと期待しつつ。

・1-12辺りの展開はどうも「(オレさまから見て)異端的なやつらがいる」→「特にユダヤ人キリスト教徒がそうだ」→「それはそれとしてクレタ人は嘘つきだ」→「クレタ人どもを屈服させろ。ユダヤ人や異端者に心を奪われないように」→「穢れたやつらは何もかも穢れている!」らしい。論理展開が無茶苦茶で、こんなもの読んで分からなくて当然だ。異端者(ユダヤ人キリスト教徒?)の悪口を言ってたはずなのに、なぜかクレタ人全員の悪口になって、クレタ人が嘘つきだという話なのに、なぜか騙されるのはクレタ人になっている。

・テトス2章は新約聖書にありがちな、確かにイイこと言ってるけど表面的すぎて毒にも薬にもならないアレのようでありながら、表面的にすら嫌らしさを含むどうかと思う文章。神の言葉が冒涜されないよう、女は夫に従属するよう躾ないといけないそうですよ。(冒涜は、どうも周りの人間のキリスト教への悪口を想定しているらしい)

・こういうのを見ると、イエスはなんだかんだ言ってオリジナリティを感じるし、それなりにハッとさせることも言ってるし、全然役者が違う感じがあるなあと思う。イエスの説く道徳訓は確かにもっと面白い。周りがこんなのばかりなら、そりゃあ人気者になれただろうよ。

・テト2-15によれば、強い命令調でドグマを語れば、相手はあなたを軽んじないそうですよ。まあそう思うなら好きにすればいいけれど。現代では、駅前で「終末の日は近い!」と言ってるあの人達と同じ目で見られてスルーされるだけだと思うけど。強く断言すればいいわけじゃないよ。

・しかし、テト2-15の問題は一笑に付して済むことではないかもしれない。現実問題、いつの世も強い調子で言われれば、そういうものかと思ってしまったり、不安になったりする人がいるのだから、これはむしろ積極的な害悪として口を強めて非難すべき類のものかもしれない。

・牧会書簡のスタンスは、自分とは意見の違う身の回りの人たちのことを悪し様に罵って何一つ話を聞かずに、自分たちの思想だけを命令口調で断言して黙らせろ、というものだから、そんな教えが好きになれるわけがない。

・【メモ】略解はテトスにおいて神とキリストが無造作に結び付けられていることを繰り返し指摘。

・【メモ】テモ2-3では女性が教会指導者になれるようにも読めるが(略解はこの解釈)、田川先生は反対。ここは田川先生に説得力がある。

・そういえば、イエスは「妻は夫に従え」なんてことを言ってたっけ?? マタイ福音書辺りなら出てくるかもしれないけど、記憶になし。出てこないなら一体キリスト教ってなんなんだぜ、って感じだ。

・テト3-1~2は一見いいことを言っているようだけど、おそらくこれは組織運営者側の論理で、要は世間に対しても身内に対しても諍いを起こさないように大人しくしていろ、組織運営上、跳ねっ返りがいたら面倒くせえんだよ、ということだろうな。これ、まず第一にイエスがアウトだと思う。

・テトス終了。牧会書簡は3つまとめて何も面白いところのないしょうもない内容だった。キリスト教徒は一体ここから何を引き出しているんだ?? 大体のことはパウロも同じことを言ってるし、後は他人の悪口じゃないか(いや、パウロも他人の悪口いうけどね)

・しかし、ここまで著者の品性が下劣だと、むしろパウロが若干マシに思えてきさえする。パウロもしょうもない人物ではあったが、まだパウロの中で葛藤のようなものが感じられた。しかし、牧会書簡となると、それすら感じられない。というか、たぶんない。

・史的イエスがどうだったかなんて分からんけど、ヨハネ以外の福音書のイエス像に準拠してでさえ、イエス存命時から牧会書簡の間でキリスト教はここまで凄まじく劣化したのかと驚かざるをえない。いや、イエスが死んだ直後のペテロたちがこれよりマシだったかどうかなんてしらんけど。

・また、牧会書簡の著者が品性下劣だからといって、二世紀初頭のキリスト教がうんこだったと言い切るのも妥当ではないかもしれない。いつの時代にも格別にしょうもない人はいるものだし。やっぱりこんなものを収録しちゃったのがキリスト教の不幸なんだろうなあ。

・http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/33468/1/31-51_PR43-68.pdf 土屋先生の牧会書簡に関する論文。僕の言葉でまとめるなら、牧会書簡に見られるのは小市民化してエネルギーを失ったキリスト教だが、しかし、現実問題、宗教はいつまでも不安定な熱狂的なものではいられないので、世俗に迎合していかざるを得ず、牧会書簡は

・そういった過程を示す一つのケースである、というもの。そして、パウロを客観的な手本にしようとすると、当事者本人の主体性が失われるため、世俗倫理がいつのまにか手本と融合してしまい、結局、「色あせたパウロ主義」といったところにまで落ちてしまう。と言った感じ。

・やはり、特にプロテスタント系において牧会書簡の評価は低かったらしい。「色あせたパウロ主義」「パウロから一歩後退した初期カトリシズムを示す物」なんだそうな。

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