【9/23】「パウロ書簡(1)」感想


テサロニケ第一

・初期のパウロの宣教した主な内容。①偶像崇拝(異教の神崇拝)やめてヤハウェを信じろ ②ヤハウェがイエスを復活させた ③そのうち最後の審判が起こるぞ ④イエスがオレたちを助けてくれるよ テサ一1-9

・パウロ「オレは栄誉を求めたりしなかったし、お前らにスゲー優しかったし、めっちゃ骨折ったし、お前らに負担をかけないよう自分で日銭を稼いだし、敬虔だし、義しいし、誰に責められることもないやり方をした」。自分で自分をこんだけ褒め称える根性もスゴイな。テサ一2-6

・どうもパウロは「自分でちゃんと働いて食え」というのが好きらしい。自分もやってるし、お前らもやれ、と。ちなみにこれ自体は別に悪いことじゃないけど、一部のクリスチャンは諸々の事情で働けない人をパウロを根拠に責め立てるらしい。いやな話ですねえ。テサ一4-11

・何を言いたくてこれを書いてるのか分かんなかったテサ一だけど、どうも、最後の審判が来る前に死んじゃったら生きてるやつらに比べて損するんじゃね?という不安が信者の中にあったらしくて、それを否定するのが目的?だったっぽい。4-13からその話になってる。

・すなわち、最後の審判が来ると、まずキリスト信者の死者が復活して、次に生きてるキリスト信者と合流し、一緒にぴょーんと飛んで、空中でイエスと出会うらしい。ちなみにパウロは自分が死ぬ前に最後の審判が来ると思い込んでたらしい。ざんねんでした。

・パウロ「イエスによって指示しました。淫行から離れていろ、と」 田川「イエスはそんなこと言ってねーよ」 確かにww テサ一4-2


ガラテア人への手紙

・パウロ「見よ、神の前で言うが、私は決して偽ってはいない」ガラ1-20 しかし、ここで書かれている内容は使徒行伝と矛盾し、さらにはイエスは「一切誓うな」と言ってる。

・ガラ1-8からのパウロの理屈は「オレの伝えた福音以外のことを伝えるやつは呪われろ」「オレの福音が絶対に正しいのだ! なぜなら、オレは人から教えてもらったのではなく、イエスの啓示によったのだから」。要するに「オレが見た幻覚を信じろ」と言ってるわけで、いやそれは信じれるわけねえだろ。

・要するにこれは初期キリスト教の内輪もめの話だな。パウロが気に食わない派閥が、パウロと違う教えを授けて、そんでパウロがぷりぷり怒って、「オレと違うこと言ってるやつらは呪われろ」とか言ってるわけだ。後のキリスト教の暗黒時代を先取りしたような話ですな。

・田川先生いわく、ガラ2-7は「ペトロがユダヤ人への宣教を、パウロが異邦人への宣教を」受け持って守備範囲を分けた、という意味ではなく、「割礼を重視するキリスト教」と「割礼なんて無意味というキリスト教」に別れた、ということらしい。

・田川先生の解説に従って理解するなら、パウロとペテロ派は割礼の問題において意見は完全に食い違っていたが、とりあえずパウロは宣教の際に割礼を強要しなくてもいいという許可をもらい、そのかわり献金を集めてエルサレム教会に持ってくるんだぞ、と条件をつけられたことになる。

・んあー。ガラ2はよくわかんないなー。一般には「律法を守って義とされるんじゃなくて、イエスを信仰することで義とされる」と解されてるんだけど(これは分かりやすい)、田川先生は「律法を守って義とされるのではなく、イエスを通して神が誠実な振る舞いをしてくれたので(人間を救ってやろう)、人間もまた神の救済意志を信頼しよう」と解している。要点がどこにあるのか分かりにくいんだけど、つまり、田川先生的には「イエスを信じる」という人間側の努力なんかは無意味で、救済されるのはあくまで神の粋なお計らいってことだろうか。

・ガラ3-13ではパウロはもう律法を呪い扱いしているなー。まあ、確かに呪いだと思うけど。申命記では「木にかけられる者はすべて呪われている」といのがあるらしく、これだとイエスも呪われてることになるようで、パウロはそれを引き合いにだしてるんだけど何を言ってるのか意味が分からない。

・分からんなー。パウロが何言ってんのか分からんなー。パウロの中では「律法を守ること」と「神の粋な計らいを信じること」は別だ(前者は呪いだ)。ってことか?

・パウロいわく、律法はわざわざ人に違反させ、人を罪の状態にしてイエスの到来を準備するためのもの、ってこと? 考え方としては面白いけど、それならさっさとイエス送ってこいというだけで、ヤハウェの性格の悪さを強調するだけのような気がするんだが。なんだその謎の準備期間は。ガラ3-15

・ヤハウェはアブラハムに「おまえの子孫を栄えさせてやるよ」と「約束」し、それでアブラハムの子孫は実際に栄えたけど、後になってヤハウェはモーセに「律法(ルール集)」を授けた。律法を授かる前も「栄えさせる」という約束は機能してたんだから、律法に本質的な意味はない、という理屈かなぁ。

・つーか、こんだけ律法のことを呪い呼ばわりして、それどころか、「約束」を実現するために「律法」が必要というアイデアを根本的に覆してるんだから、そりゃあユダヤ人たちが怒るのも当然だよなあ。言ってる事自体は確かにイエスに近い気がせんでもないけど。

・ガラ3-15~は田川先生的には「律法は人を罪の状態にするためにあった」という解釈はしてないようだ(ローマ書とガラテアでパウロが同じことを言ってるとは限らない、という考え方)。もう疲れたから「律法は人を罪の状態に~」で理解してしまいたい……。

・「私は正しい。私は常に良い動機で動いている。私の反対者は正しくない。彼らは常に悪い動機で動いている。彼らに唆されている今のあなたたちは間違っている」ガラ4-12 吐き気がするような宗教的独善。

・ガラ4-14によればパウロは「キリスト・イエスのように」受け入れられたらしい。宣教師というか教祖的な感じだったんだろうな。

・ガラ4-21のパウロの理屈はあんまりにもムチャクチャだな……。ハガルの息子→追放されてよそで育った、サラの息子→ユダヤ人になった、なのに、ハガルの息子を律法主義のユダヤ人にして、サラの息子を非律法主義のキリスト教徒にしてる。これに騙される人間がいるとは考えられないほどひどい。

・ガラ4-30の引用がキリスト教正当化のための根拠として許されるんなら、偶像崇拝だって子供を犠牲に捧げるのだってなんだって許せそうなもんだな。なんでパウロは神でも預言者でもないサラの言葉を典拠にするんだ。この人、相手がユダヤ教を知らない異邦人だと思って好き勝手やるなあ。

・「私たちはセックスは刑死した人間との死姦のみに留めるべきです。聖書に『十字架につけられてしまっているその方以外にはなにごとも知ろうとはしない』(コリ一2-2)とあるからです」。パウロの旧約引用があまりにムチャクチャなので、ちょっと意地悪してみた。

・田川「パウロの旧約引用がいかに無茶苦茶であるかを示す典型的な実例のようであるが、実はこの時代のユダヤ人の旧約引用の仕方は皆さん似たりよったりで、特にパウロだけの特色ではない」。なんだみんな同じだったのか。

・割礼に関してパウロはイチかゼロみたいで、割礼を受けるならそれはもうゴリゴリの律法主義者だと見なすから、お前は全部の律法を実行しろ、キリストの恵みからは落ちた、という考えらしい。バリバリの党派主義を感じる。もしくは党派主義と言わないまでもオレの考えと違うやつは絶対に許さないという妄念。

・パウロ「割礼なんかするやつは、ちんこの皮だけでなく、いっそのことちんこを切り落とせばいいのに」ガラ5-12

・ガラ5-13からの展開はよくわかんないぞ。霊肉二元論的な話になって、これまでの流れからすると、肉の方で挙げられている悪徳の諸々が律法に帰せられそうなもんだけど、なぜか霊の方だということになってて、しかも律法を急に褒めはじめている??

・ああ、なるほど。律法は守らなくてもいい、と言っても、それで共同体ルールが壊れるとアレだから、でも、これこれは守って共同生活を送りなさいね、これは律法にも書いてあるんですよ、っていうことか。しかし、それをやると結局、律法に縛られることになるんじゃねえのか?

・魔術ってよく出てくるけど何のことかと思ってたら、新約ギリシャ語においては「うさんくさい薬物で何かをやろうとする」っていう意味らしい(by田川)。薬物を使うんだー。

・ガラ6-12を読んだ感じだと、パウロがキリスト教内の割礼主義者?に対して腹を立ててるのは、どうも彼らが迫害から逃れるために「形だけ」律法に沿おうとしている、その態度を怒ってるっぽい。それならまあ気持ちもわかるなあ。使徒行伝だとパウロもそういうポーズを取ってたけど。

・「党派心はダメ」とか、「自分は何者でもないのに、何者であるかと考えているなら自分自身を欺いている」とかパウロはかなりブーメランしてる気がする。もっともパウロとしては自分は党派心でこんなことを言ってるんじゃなくて、本当に自分が正しくて他は絶対に間違ってると思い込んでたんだろうな。


コリント第一

・言葉の知恵ってのがよく分からないがコリ一1-18以下は、論理的に物事を考えれる賢い人間は救われない、イエスが十字架で死んだことでみんな救われるという一見バカみたいな話を受け入れないとダメ、所詮人間の知恵なんて神の前ではたかが知れてるんだから、ということかなー。

・しかし、「論理的にモノを考えるヤツはダメだ。奇跡の証拠がないと信じないヤツもダメだ。ただ、オレたちの言う事を信じないと救われない!」って、ちょっとアレな感じ。

・コリ一1-20によれば、どうも、知恵によって神を認識しようとしても人間のかわいそうなオムツでは認識できなかったので、神は宣教という「愚かな」方法を取っている、ということみたい。「どうせ知恵を振り絞っても理解できねえんだろうから、黙って信じてろよな」ということか? 

・コリ一2-2の「十字架につけられたイエス以外は何も知らないと決めた」というくだりは、田川先生いわく「つまり、十字架の死と復活だけが重要なのであって、生前のイエスの活動なんてのはどうでもいい、と宣言した箇所」らしい。パウロがどう考えてたか分からんけど確かにそうとも読めるな。

・「しかし、私たちは、「完全な者たち」の中にあっては、知恵を語る」。グノーシスうんぬんを抜きにして考えると、誰に対して何を語っているのかさっぱり分からない。パウロのことだから適当言ってるだけだろうか。コリ一2-6

・あー、分かった。「うちの信者の中でちょっとレベルの高いやつら」に対して、「キリストの救済行為で救われる」という知恵だ。今まで知恵って言葉を否定的に使ってたのに、なんで急に肯定的に使い出したんだ??

・さっきの2-6のところ、田川先生的には「完全な者である俺様パウロは、神の知恵を語っているのだ(だから貴様らコリントスの信者どもはこのパウロ様に一切批判なんぞするな)」と解釈してる。

・パウロ「お前たちは、オレはパウロ派だ、オレはアポロ派だとか言ってるが、オレやアポロがなんだってんだ! オレたちはただの神の奉仕者じゃないか! ……もっともオレは苦労してる分、格別の報酬を受け取るだろうけどな」。なにいってんだこいつ。ただし、報酬は現世的な報酬かも? コリ一3-5

・パウロ「オレは神の恵みに従って土台を据えた。他のやつらはオレの土台の上に建築するのだ」。パウロは派閥闘争するなって言ってるけど、やっぱり「オレのみが正しいんだから派閥闘争するな」ってことなんだな。コリ一3-10

・というか、パウロは派閥闘争だと思ってるようだけど、コリントスからしてみれば、「パウロのやつ寝言言ってるだけじゃねえか」「アポロさんの言う事の方がしっくりくるよな」「いや、でもパウロさんの言い分にも一理あって……」とか言ってただけなんじゃねえの?

・「①オレはキリストの助手で奥義の管理者だ」「②管理者は皆から真実なものと認められなければならない」「③だが、オレはお前らからどう判断されようと関係ない」「④なぜならオレは何の良心の呵責も覚えてないからだ」 結局、周囲からの批判は一切聞く耳持たないってことか。ただ、さすがにこのムチャな理屈で自分の正当性を主張できたとは思わなかったみたいで、「まあ最後に判断するのは主だからな!」と言ってる。コリ一4-1

・おいおい、パウロのやろー、ついに脅し始めたぞ。「お前らのところに鞭を持って乗り込む」4-21とか、「そんなに言うなら奇跡を見せてもらおうか」4-19とか。でも、信じられるかい? パウロはこれ、コリント教会のことを又聞きで聞いただけで確かめもせずに言ってるんだぜ。

・パウロ「お前たち(コリントス教会の信者)に一万人のベビーシッター(コリントス教会の指導者)がいたとしても、お前たちを実際に産んだ父親は俺様パウロ一人だ。だからオレを見倣え」 どんどんパウロの本性が出てきたなあ。コリ一4-15

・パウロを真似ろということは、つまり、自分が絶対に正しいのだと思い込んで、自分に反対するやつを悪し様に罵れということだから、パウロの嘆いているコリントの現状が本当にその通りなら、もうみんなしっかりパウロを模範としてるんじゃね?

・パウロ「オレには何のやましいところもないけど、とはいえ、それで私が義とされたとは言わない。まあ私を裁くのは主だけだからお前らがオレを裁こうとすんじゃねえぞ」4-4 「オレは体はここにあるけど、霊はお前らのところにいるから、お前らの中の不品行なやつをオレはもう裁いている」5-3

・自分が批判される時は「人を裁けるのは主だけだから批判すんな」といい、他人を批判する時はそんな理屈はキレイサッパリ忘れて、人の身のくせに当たり前のように人を裁く。まあ、パウロさんは自分をただの人間じゃなくて神の代行者だと思いあがってるのかもしれんが。(どうもパウロ的には、この時には「主イエスの名において」さばいたっぽい)

・どうもパウロ的には「イエスと一緒に(オレの気に食わないやつを)裁いた」ことになってるっぽいけど、こんなやつに突然引き合いに出されて、イエスは本当にかわいそうだ……。

・パウロ「外部の悪人(というかパウロから見て倫理的じゃない人)と付き合うなとは言わない。しかし、教会内部の悪人とは付き合うな。外部のやつらのことなど知った事ではない。やつらは神が裁く。お前たちは内部の者を裁け」コリ一5-9

・大体、パウロは「教会から酔っぱらいを追放しろ」と言ってるけど、イエスは酔っ払いに対して非難したことなんか一度もないし、むしろ他人から「大酒飲み」と言われる程の宴会好きだったはずだ。淫行の者にはむしろ理解を示してるし、偶像礼拝者への価値判断は下してない。コリ一5-11

・「そのような者を、肉の滅びへと至るように、サタンに引き渡すことになったのである。それは、その者の霊が主の日に救われるためであった」5-5 なんで教会からの追放(?)が審判の日に救済されることに繋がるのか全く分からない。パウロもたぶん自分でも分かってないんだろう。

・「なぜならば、あなたがたは、代価を払って買い取られたのだからである。それゆえに、あなたがたのからだにおいて、神に栄光を帰すようにしなさい」6-20 ん? これ、キリストの贖罪は人間を救ったんじゃなくて、人間を奴隷にしたってことになるんじゃないか?

・パウロの理解によれば、人間は神に救われたのではなく、神に買い取られたのであり、だから自分の体は自分のものではなくて神のものなので、遊女とセックスして体を穢さずに神に栄光を帰せよ、と。買い取られて自由を奪われてるんだから、奴隷ってことだよなー。

・イエスとパウロが同時代に生きてたら、絶対こいつら激しく対立し合ったと思うなー。

・ちょっとこりゃあ古代人にしてもひでえな。「人にとって女性に触れないことはよいことである」7-1 どうもパウロ的にはセックスはきちゃないことで、どうしても我慢できないやつは野放図にやるよりはまだ結婚した方がマシだから、そこは譲歩してやる、という態度みたい。

・ちなみに岩波訳ではこの箇所は論敵の言葉ということになってるけど、文脈的にパウロの言葉だと思う。ただ、パウロは「夫は妻を去らせてはならない」と言っており、非常に珍しいことにパウロとイエスの意見がこの点では一致してる。ものすごい女性蔑視をしてるようで女性擁護もしてるような変な文章だ。

・失礼。先程の「人は女に触れるな」の箇所だけど、これは文字通り「触れるな」ではなくて、「セックスするな」の意味かもしれない。さすがにいかなパウロといえど、女に触れただけで穢れが移ると思ってたわけではなさそう。

・ああ、「キリスト教徒はキリストの奴隷」ってはっきり出てきた。7-22ね。この節は何がいいたのかさっぱり分からんが。

・この古代社会において女性に対して独身であれというのは(独り身の女性は社会的、経済的に厳しい)、パウロは本当に最後の審判はもう間近だと考えてたんだろうなー。まあ全然間近ではなかったわけですが。

・さっきの、とても珍しくパウロとイエスの意見が一致した箇所だけど、田川先生によれば「コリントス教会の信者から、パウロの言ってることはイエスと関係なくて好き勝手言ってるだけだ」と言われたので、「これはちゃんとイエスが言ってたことだぞ!」というアピールなんじゃないか、とのこと。

・7-21は、総合的に考えて「奴隷はずっと奴隷でいろ」だと思うな。ただ、パウロが奴隷制を擁護したというよりは、女性に対して独身でいろって言ったのと同じで、もうじき審判の日が来て全部おじゃんになるから、いーじゃん、どうでも、という考え方だったんじゃないかと思う。

・コリ一8-8の「別に食物がオレたちを神に導くわけじゃないから、偶像に供えられた供え物を食ってもいいじゃない」は岩波訳だとコリント教会の言ということになってるが、だとしたら立派な信仰だと思うけどな。でもまあ、これはパウロの言葉だろ、たぶん。

・どうもパウロは「偶像に供えられた肉を食ったからってどうなるもんでもない」と言いながら、「でも、お前らがそれ食ってたら、意識の弱いやつが肉食ってもいいって勘違いするからヤメロ」と言ってるようなんだけど、どうなるもんでもないなら弱いやつが食ってもいいんじゃなかろうか。

・田川「この節ではパウロの論理はまったく混乱している」。田川先生がこういうことを言ってくれるのは本当にありがたい。もちろん、田川先生が確実に正しいかどうかは分からないが、とにかく、自分の疑問がまったくの勘違いや読み違いではないことが後押しされた気持ちになれる。

・神殿に供えられた肉は市場に流れるのだとすれば、つまり、市場で肉を買って食うのはパウロの理屈では大変危険ということになるわけで、パウロが「私は永久に肉を食わない」ってのは菜食主義になるってことかな。こういうの、自分にはできるからって人に押し付けるのはねえ。

・結婚の件もそうだけど、パウロはやっぱり、「明日か明後日か一ヶ月後か、遅くても10年後くらいには」終末が来ると思ってて、もう少しだけだから少々ムリしてもいいと思ってたんだろう。でも残念ながらそうではなかったのでパウロ死後50年もすれば、もうパウロの言葉は無視した方が良かったのでは?

・パウロは自分が、宣教中に信者からカネを貰わずに自分で生活費を稼いでたことをやたら強調するんだけど、コリ一9章に至っては一章まるまるそれの自慢で終わった。

・徒競走で賞を受けるのはひとりなんだから、そのように努力して信仰しろ、って言ってるんだけど、信仰に競争原理を用いて、「信仰において一位になれ」というのはどうなんだ。コリ一9-24

・パウロ「出エジプトの時、モーセが岩を打ったら水が出てきて、みんなそれを飲んだだろ? 実はあの岩はキリストだったんだよ!」コリ一10-4 ほんとにパウロはムチャクチャだなwwww すごい寝言力だwwwwww 本にする時は「ベスト・オブ・パウロ寝言10選」とかやろう。

・「パウロ・ジャイアニズム10選」とかもいいな。

・ああ、さっきの「岩がキリスト」って類型論ってやつか。……だとすると、寝言は寝言だが、そんなにまでひどい寝言でもないなあ。

・コリ一10もよく分からんな…。前は「偶像の神なんて実際は存在しないんだから別に供え物を食ってもどうってことない」って言ってたのに、「偶像への供え物は悪霊への供え物だから食うな」って言ってる。でも、市場で売られてるものの中にそういうのがある可能性があっても気にせず食っていいらしい。

・コリ一10-8で一部の人間に復讐するために民全体を罰するヤハウェのやり方が、特に疑問視されるでもなく普通にパウロに引用されてるから、やっぱりキリスト教になっても(少なくとも当時は)愛の神でもなんでもなく、妬みと恐怖の神だったんだろう。

・パウロとお肉まとめ。「偶像に供えられた肉を喰うなんて悪霊と交わるようなもの。でも偶像の神なんて本当は存在しないんだから食ってもどうってことない。けど、偶像の神殿で食ったりするとヘボ信者が誤解するからやめようね。市場で売ってる肉は偶像に捧げられたものかもしれんけど、気にせず食えば? 未信者に出されたメシも気にせず食っていいけど、『偶像に捧げられてた肉だ』って言われたなら、そんなことを指摘してくれた人の良心に配慮して食わないようにしよう。いや、別にそいつの良心でオレの自由が奪われるわけじゃないよ」 よく分からんまとめだろうけど実際にこうなの。

・礼拝中は、男性は頭の覆いを取らなきゃいけなくて、逆に女性は頭に覆いをしなきゃいけないらしい。よく分からんな。「キリスト教の教会では男性は帽子を取ることが求められるが(女性は帽子を取らないのがエチケット)」(ウィキペより)。これはその関係なんだろうか?コリ一11-4

・「頭に覆いをかけないで祈りをしたり預言をしたりするすべての女性は、彼女の頭を侮辱する」ということは覆いさえ付けてれば女性が預言しても問題はないってことか。パウロの女性蔑視もさすがに女預言者を排除するほどではなかった?

・よく分かんないけど、「頭は女性に覆いをつけなきゃいけない」というのが当時のユダヤ人の慣習としてあって、それをパウロがコリント教会に押し付けたけど、いかんせん相手にはそんな習慣がないから、「わけ分かんねえ」って批判されて、パウロも「うるさいオレは議論する気はない」って流れなのかな。

・「男は神の形だから頭を覆うべきではない。でも、女は男から出てきたから頭を覆うべきである」。この理屈はまったく成り立っていない気がする。また、11-15は女性の長い髪は覆いの代わり(だから覆いはいらない)とも読める。訳分からん。助けて田川先生。

・田川「四節五節はまったくの詭弁」「(15節に関して)こうなるともうパウロの論理は滅茶苦茶である」。ですよねー。

・しかし、パウロはユダヤ人の慣習であった割礼を異邦人に押し付けようとはしなかったのに、なんで、頭の覆いの慣習については異邦人にあくまで押し付けようとしてるんだ?? 意味が分からん。

・11-17以降のパウロの文句はよく分からんが、主の晩餐を儀式的、宗教的行為じゃなく、より宴会的な感じでやってるのが気に食わなかったのか。それとももっと単純にテーブルマナーが野蛮だったことに怒ってるんだろうか。

・結局、よく分からないのだが、主の晩餐は各自がお弁当を持ち寄って一緒に食べてた?んだけど、コリント教会の人たちは各自好きなタイミングで食ってたからけしからん、一緒に食べろ、ちゃんとしたやり方で食べないと毒になって死ぬぞ、ということなんだろうか。

・略解の方によると、当時の主の晩餐は普通にメシ食った後で行ってたから、普通の食事を各自好きなタイミングで食っちゃうと、一緒に主の晩餐できないからダメでしょ、っていう理解のようだ。結局、当時の主の晩餐の実態が分からんとどうにもならんなあ。

・12章は比喩はヘタクソだがパウロにしては珍しく良いことを言ってるな(各々に役割があって、どれもが大切なのだから、あいつは劣った役割だとバカにすることなく協力していこう)と思ったが、最後でひっくり返った(もっと優れた役割を求めなさい=劣った役割に留まるな)。

・すごいな。これほど「愛」という言葉が空疎に響く文章はなかなかないぞ……。パウロさんは愛を持ってるから寛容だし、自慢しないし、高ぶらないらしいですよ。よくまあここまで自分を見失えるものだ。コリ一13

・いまいち理解し辛いが(どの章も理解し辛いな!)14章は異言と預言について語っていて興味深い。つまり、信者が興奮して訳の分からないことを喚き散らす(異言)ことをパウロ自身も神秘的現象と考えてるから否定はできないけど、それはそれとして、そんな状態では教会運営に支障が出てたんだろう。

・「お前らが本当の信仰を持ってるなら、オレが正しいことを認めなさい」コリ一14-37 ヨハネ福音書のイエスもこの論理を多用してたけど、こういうの見ると吐き気がする。

・14-33のパウロのひどい女性差別について。岩波訳「たぶん後世の挿入」。略解「パウロは頭に覆いを付ければ女性の祈りも預言もOKと言ってるから、女性の異言だけ禁じてる」。田川「頭に覆いを付ければ女性の預言大いに結構という話ではない。とにかく女が人前に出る時は覆いをつけろと言ってるだけ。要するに秩序を保ちたいだけで、女が発言するなんて秩序を乱す最たるものだから、女は黙っとけ、という話。ごくふつうにパウロがひどい」。どれもそれなりに説得力があって決め難いけど、略解のはない気がするなあ。

・ふと思ったんだが、例の女性差別発言がパウロの言葉でなかったとすれば、後世の女性差別主義のキリスト教徒が挿入したことになるが、しかし、パウロは少なくとも女性差別主義者なことは間違いないんだから、パウロ自身が書いたと考えるのが自然な気がする。

・14章は異言と預言の問題に関してなかなか興味深い箇所なんだけど、いかんせんパウロの論理が混乱してるのがなぁ。ともあれ言いたいこととしては異言は周りが聞いても訳が分からんが、預言ならみんな理解できるしためになるから、異言より預言をしろ、いや、異言が悪いわけじゃないけどね、くらいか。

・15章が何に対して反論してるのか、よく分からん。コリント教会の人たちは「イエスは復活した」「でも死者は復活しない」という考えを持ってたのか?? 後者だけなら分かるけど、ならなんでイエスは復活したってのは受け入れてるんだろう。

・15-33「悪い交わりは、良い習慣を滅ぼしてしまう」 これ、ちょっと前の詩の引用らしくて、当時は諺になってた言葉らしいんだけど、パウロがこういうのをぺらっと言っちゃうから、現代のエホバの証人の人たちは社交場大変苦労していて、まったく大変なことですねえ。

・「もしも誰かが主を愛さないなら、アナテマあれ」コリ一16-22 ヤハウェの「オレを愛してくれないやつは殺す」という基本路線そのまんま。やっぱり新約になってヤハウェは急に変わったわけではなく、旧約の時からあまり変化してない(というかパウロがユダヤ教どっぷりのままってこと)


コリント第二

・コリ二1-21「我々に油注ぎ給うた神は……」 パウロいわく(少なくともパウロ自身は)油注がれてるらしい。これ、パウロがメシア(=キリスト)ってことになっちゃうんじゃないの?

・現代でもままあることだけど、パウロのたちの悪いところは私心がないところで、私心がないから周りは文句を付けにくいし、本人も自分が崇高だと思って思い上がってしまうんだろうなあ。

・コリント第二3章は律法の全面的棄却を謳ってるように思えるけど(そりゃこんなこと言ってたらユダヤ人は殺したくなるよな)、律法に関してはこれほど進歩的、開明的なパウロが(これも怪しい感じはするけど)、なんで女性差別に関してはあんなに頑ななんだろう。

・別にパウロは進歩的、開明的なわけではなく、単に反動的になっていると考えれば理解できる気がしてきた。つまり、自分を迫害してくるユダヤ人どもが憎いあまりに、あいつらの一番大事にしている律法をブチ壊してやろう、的な心性。(反ユダヤ主義なわけではなく、ディアスポラのユダヤ教の中で新しいユダヤ教のあり方を模索したのではないか、という指摘あり)

・コリ二4-4の「この世の神が不信の者たちの思いを暗くしたのであって~」は、田川先生いわくパウロが二元論してる箇所らしい。不信者を操るこの世の神と、この世を超えた真の神がいる……という後世では異端思想になったアレ。

・コリ二5ー1~10は死後の展開というか死生観というかを語ってて興味深い箇所のはずなんだけど、何言ってるかよく分からないので読み取れない。「死すべき肉体を、神から与えられる永遠の生命で覆えばOK(急いで死ぬ必要はない)。でも肉体から離れた方がいいよね。ともかくなんであろうとヤハウェに喜ばれるべきだよね」。あえてまとめるならこんな感じ? よく分からない。一文ごとに矛盾して見えるけど、そうとしか読めない。略解と岩波訳はまた別の解釈をしてる。略解は死後の経過?と考えて、岩波訳は一部を論敵の主張の引用としている。

・コリ二5-10は田川先生いわく、「個々人の為した善悪により最後の審判で裁かれるというのは、信じれば救われるのパウロの信仰義認とは明確に矛盾する。裁かれる基準が律法からパウロ個人の倫理的基準になっただけ」らしい。

・で、なんでそうなるかと言えば、信仰義認したってそれだけでは実生活を生きていけないか。何らかの形で現実の生き方に向かい合わなければいけないけど、自分は現実を超越した気でいるからまともに向かい合うこともできない。結果、これまで無自覚的に信じこんできた月並みな因襲にしがみつく、と。これって、以前、仏教を勉強してた時に僕らの達した結論と似てない? 「釈迦は悟りをひらいたけど、それはそれとして現実生活を生きなきゃいけない凡夫たちには、財テクしろよ、両親を大切にしろよ、と月並みな倫理を教えた」っていうアレ。釈迦に関しては田川先生ほどネガティブには思えないけど。

・コリ二5-19「その際神は、人間の罪過を彼らに帰することをせず~」。これって、「人はそれぞれ最後の審判の時に為した善悪によって裁かれるよ」の5-10と矛盾しないか? ほんの9節前なんだがwww この罪過が原罪を指すなら矛盾じゃないけど、略解は原罪じゃないって言ってる。

・コリ二5-21は明らかに重要な箇所なんだけど、何を言ってるのかさっぱり分からない。「(その神は)罪を知らない方を、私たちのために罪とされたのである。それは私たちが、その彼にあって神の義となるためである」。言葉足らずにも程がないだろうかパウロさん。

・ところでパウロ的には、やっぱりイエスは「罪があった」んすかね。「木にかけられた者は神に呪われたもの」なので、旧約的には十字架にかけられたやつは罪があったことになるんだけど、パウロ的にもイエスは(罪がなかったけど)罪があったという感覚?

・「オレは神に認められたスゲー立派な男ですよ? あなたたちも私が立派だと認めていいんですよ? 別に自己推薦してるわけじゃなくて、あなたたちのためですよ。つまり私の敵対者に対して、『パウロさんは立派な人だ!』と誇れるように言ってるんですよ」。この辺のパウロは正気とは思えない。5-11

・コリ二5-16はパウロによる「生前のイエスのことなんか知るか! オレは自分の目の前に現れてきたイエスしか相手にしない!」宣言とされてる箇所。確かにそう読める。岩波訳は「パウロの敵対者のような仕方でイエスを知ることをしない」と解してる。そう読めなくもない。

・意外なことに略解が「<肉に従って知る>とは「人間的な側面で知る」の意味。パウロ批判者は<肉に従ってキリストを知る>ことを<外面>的な「誇り」としていた。パウロはここで~「霊によって」「キリストを知る」ことを宣言して、批判をかわす」と、パウロが生前のイエスを無視した解釈を取ってる。略解の著者は自分の書いてることに気づいてないんじゃないかなあ? なお、田川先生によれば、こういうパウロの姿勢にマルコがブチギレて喧嘩別れし(使徒15-37)、「ちゃんと生前のイエスさまを書き残さなきゃ」とマルコ福音書を書いた、と考えてるみたい。

・コリ二7-5~はよく分かんないけど、パウロとコリントスの信者が仲直りしたの?? 「お前らに苦痛を与えたことを後悔していない。お前らは苦痛を受けたことで悔い改めに至ったんだから良かったじゃねえか」というパウロの言い方が大変気に入らねえんだけど、ホントに仲直りしたのかね。

・エルサレム教会への献金って実際どういう事だったんだろう。「割礼の問題はもういいから、とにかく異邦人どもからカネを巻きあげてこいや」という話にも見えるんだが。コリ二8章でわざわざ勧告をしてるということは、「なんでカネ払わなきゃいけねえんだよ」って思われてたってことだろうなあ。

・実際、パウロ自身はたぶん献金をちょろまかしたりはしてなかったんだろうな。自分は正しいという自負があるからこそ、こんなに尊大になれるんだろう。「マケドニアの教会はしっかり寄付してくれたけど、コリントスの諸君もちったあ見習ったらどうかね」とかひどいよね。コリ二8-1

・コリ二8-5を田川先生は「パウロはマケドニア教会の信者に生活費を援助してもらった」と読んでるけど、あんだけ何度も繰り返し際限なく、「オレは自分の生活費を自分で稼ぎながら宣教してきた!」と威張ってきたパウロが果たして受け取るのだろうか? パウロならさもありなんな気はするけれど。

・パウロ「いやあ、あなたがたコリント教会は本当に立派ですね! マケドニア教会の皆さんにも自慢しておきましたよ。つきましてはマケドニア人を連れていきますので、献金準備ができてないあなたたちを見て、大恥をかかないように、まさかそんなことはないと思うけど準備をしといてね」 コリ二9-1jm

・パウロ「けちけちとしか蒔かない者は、けちけちとしか収穫できないよね。まあ、そういうことで、皆さんは辛くない程度に、自由意志でもって、どうぞ献金して下さい。神は喜んで与えるものを愛されますからねえ!」コリ二9-6 プレッシャーでサンドイッチしといて、自由意志でどうぞもねえよなあ。

・パウロ「もしもある人が自分はキリストのものであると自ら確信しているのなら、その人がキリストのものであるように、私たちもまたそうであるということを、その人はもう一度よく考えてみるべきである」コリ二10-7 なんて立派な言葉なんだ。パウロに聞かせてやりたいぜ。

・パウロ「おまえらはオレのことを、面と向かっては卑屈なくせに手紙になると強気だとか言ってるけど、オレはお前らのところに実際行ったら、手紙と同じ調子で振舞うんだからな!」(←パウロ、手紙にて記す) コリ二10-11

・「自己推薦をする者、そのような者が適格者なのではなく、むしろ主が推薦する者こそが適格者なのだからである」コリ二10-18 パウロは相手から理屈で攻められると、結局最後は、「うるさい! オレの前にはイエスさまが現れたんだ!」って言っちゃうから話にならねえなあ。

・「さらに私たちは、あなたがたの従順が満たされる時に、すべての不従順を処罰する用意ができている」コリ二10-6 これもなかなかスゲエな。オレさまに不服従なきさまらだが、大部分がオレさまに服従した暁には、その時まだ逆らうやつは全て処罰するぞ、とのこと。相手を説得する気ねえだろ、これ。

・コリ二11-9によれば、パウロは生活費をマケドニア教会の信者から援助してもらったって言ってるぞ。あれだけ「自分の生活費は自分で稼いできた!」と威張ってたのに、そして、ここの文脈もそう読めるのにどういうことなんだ??

・コリ二11-2「神の熱愛をもって私があなたがたを熱愛しているからである」。この一節はすごく合点がいった。やっぱりパウロはミニヤハウェなんだ。自分は相手のことを愛していると思ってる。なのに相手が自分に逆らったりすると嫉妬のあまり怒り狂う。確かにヤハウェもパウロも同じだ。


フィリピ人への手紙

・田川先生は「フィリピ人への手紙がエフェソスで投獄中に書かれたなんて何の根拠もない」って言ってるけど、確かに軽くググった感じ、根拠らしい話は出てこなかったなー。この手のことは僕ら素人には何が正しいかなんて分からんので、「よく分からない」と言っておくのが安全だろうか。

・「オレさまが投獄中に、ある者たちは妬みと競争心のゆえに、ある者たちは善意のゆえに宣教する。前者は投獄中の私に迷惑をかけようと思ってやってるのだ。だが、なんであれキリストが宣べ伝えられるのだからオレさまは喜ぶ」フィ1-15 口先だけとしか思えないが、とりあえず立派だ。

・パウロ「死んでキリストと共にあることの方が望ましいけど、生きてたら宣教できるし、さて、どっちがいいのかなー?」フィ1-21 なんかグノーシスっぽくね?

・パウロは「オレが拘禁されているからって図に乗って利己心に駆られたやつらが宣教を始めやがった」って言ってるけど、向こうからしてみれば、「パウロのやつがおかしなキリスト教を広めやがったけど、あいつ逮捕されたから、今のうちに正しいキリスト教に戻さないと」かもしれないなー。

・新約聖書にはたまたまパウロの書簡が多く入ったけれど、たとえば、パウロの批判者、論敵の書簡の方が多く入ってた場合には、彼らはパウロを「利己的に宣教した」と言い募って、現代のキリスト教徒も「よく分からんが、このパウロってやつは悪いやつだったんだな」って思うんじゃなかろうか。

・【メモ】フィ1-23はパウロが「生きているうちに終末が来ない」と思い直したと解せる(田川)

・パウロはたまにいいことも言うんだけど、いかんせんパウロの言葉なのでさっぱりいい言葉に聞こえないのが難点だなあ。本人の良し悪しと、発言の良し悪しは違うというのは分かってるけど、「それ、誰よりも先にまずお前が反省すべきだよね」っていつも思っちゃう。フィ2-2

・【メモ】2-27の田川先生はさすがに穿ち過ぎな感あり。ここは普通に「あんたら心配してたかもしれないけど、大丈夫だよ。オレさまもホッとするよ」でいいんじゃないかな。

・パウロ寝言10選を選ぶ時は、首位は「オレさまを見習いなさい」でFAだな。全ての寝言が一言に詰まっており、そして、なによりウザイほどに頻出する。フィ3-17

・「ユダヤ教的キリスト教徒に従うんじゃねえぞ」→「といっても、オレさまもユダヤ教には敬虔なのだがな」→「あいつらよりオレさまの方が立派なユダヤ教徒だった」→「でも、キリストに会って変わったのだ! あんなのはクズだ!」 自己矛盾してるから律法に対する態度がコロコロ変わる。フィ3

・フィ3-6によればパウロ大先生は「律法に照らしても責められるところのない者」だそうですよ。律法は誰も守れないからキリストが来てくれて十字架にかかってくれたんじゃなかったのかよ。

・フィリピ3はパウロが具体的な敵対者を想定しているのかどうか分からないなあ。田川先生の言うように、ただ一般論を言ってるだけのようにも思える。とすれば12節で「オレさまは完全じゃないよ」と言っておきながら15節で「オレさまは完全だ」と言ってて矛盾になるけど、パウロならさもありなん。

・フィ4-15では「あんたらはオレさまに金をくれるから素晴らしいが、あいつらはくれなかった」的なことを言ってるなー。今までさんざん「オレさまは自分の生活費くらい自分で稼ぐ」「カネ欲しさに宣教してる偽善者どもとは訳が違う!」と言い張ってたのにどういうことなんだぜ。(ただまあ、カネを受け取ったのは逃げ出したり逮捕されたりして本当に困ってた時だけかもしれない)

・「援助資金ありがとう。今までずっとオレさまのことを気にかけてくれてたのに、これまでは援助する良い機会がなかったのだね? まあ、オレさまは欠乏してなかったけど。神がオレさまを強くしてくれたからどんな状況でも全然平気なんだけど。むしろこのパウロさまを援助したことで、お前らは最後の審判が有利になるかもね、よかったね」←援助資金をもらったことに対するパウロの感謝の手紙より

・パウロを見習ったら素直にお礼の言えない人間になっちゃうよ。

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