【7/10】「ヨハネ福音書」感想


・なんつー壮大でドラマチックで仰々しい始まり方だ……。「ひとり子なる神」と言ってるし、ヨハネ的にはイエスはもう神なんかね。ヨハネ1-1

・「はじめに神のもとにことば(=神)がいた」→「万物はことばを介して生じた」→「ことばは命を持っていた」→「その命は光だった」→「ことばは人間になった」。つまり、神のもとにいた「ことば」なるものは万物を生じさせる何かで、これ自身も命を有し、人間(イエス)になった、ということ?1-1

・まず当然ツッコミたいのは、ことばが神なら神が二人いるじゃねーか、という点。後の三位一体的理解は別としてヨハネはどう考えてたんだろうな。「ことば」は旧約で擬人化されてる「知恵」のような気もするんだけど、だとしたらなんでこれをイエスと考えるようになったんだ??

・略解いわく、当時のユダヤ教信仰では、ことば(ロゴス)が天使的な存在として創造の媒介として働いた、というのがあって、どうもこれが前提になってるらしい。

・あと、「イエスが神なら唯一神じゃねーじゃん」ってのもどうやらそうみたいで、略解いわく、その点がユダヤ教の唯一神信仰と抵触して絶縁することになった、と。ヨハネ福音書においてはイエスは「神の子」ではなく「ひとり子なる神」という理解でいいんだろうか。

・「イエスが現れるためにヨハネが水で洗礼を授けていた」というのは全く理屈が分からんが、略解いわく「共観福音書では水の洗礼と聖霊による洗礼は預言と成就の関係に置かれている」。やっぱりよく分からんな。水の洗礼いらねーんじゃねーの? ヨハネ1-31

・ヨハネ1-6の記述から考えると、洗礼者ヨハネは映画の予告編みたいな扱いで理解されていると考えるべきか? 「来週から公開される新作映画『ひとり子なる神イエス』、ちょーおもしれえから絶対見に来てくれよな!」

・イエスがトコトコ歩いてるだけで、周りのやつらが「うおー、マジもんのメシアだー!」「ハンパネー!」とか言ってどんどん弟子になっていくww 「おまえ、さっきいちじくの木の下にいただろ」「えー、なんで知ってるんですかー! マジハンパねー!」 ヨハネ1-35

・「イエスせんせー、今日はどこにお泊りするんすか」「付いてくれば分かるよ」という妙ちくりんな会話は、略解いわく「あなたは(神の救済計画の中で)どこに位置する方なのですか?」「弟子となって付いてくれば分かる」の含意をヨハネ自身は意図してるらしい。ホントかよww ヨハネ1-38

・(他人の結婚式にて)イエスのおかん「あらま、葡萄酒が切れちゃったみたいよ」イエス「それがなんなんだよ、オレたちには関係ねえべ」 まあ、全くそのとおりだよなww 他人の結婚式で切れた葡萄酒の心配をする必要はないよね。なんでこの後、イエスは水を葡萄酒に変えてあげたんだろ。ヨハネ2-1

・略解いわく、水がユダヤ教で、それを葡萄酒に変えることはユダヤ教を凌駕することらしい。また、祝宴の酒が切れるのは神との関係が全うされないことの暗示なんだって。だから、ホントかよ、これ。ヨハネはホントにこんなこと考えてんの? でも、冒頭の仰々しいアレを見ると、さもありなんではある。

・略解いわく、ヨハネ的にはイエスが神殿で暴れまわったのは、神殿を浄めたのではなく破壊したんだそうな。ユダヤ教→キリスト教の図式(直後に「神殿を破壊してみろ、3日後に起き上がらせるぜ!(まあ起き上がるってのはオレの復活のことなんだけどな!)」ってのがある)。ヨハネ2-13

・なんかよく分かんないんだけど、イエスが奇跡行為を見せて、人々はイエスを信じたんだけど、でもイエス自身はそいつらのことを信じなかった?信用しなかった?らしい。よく分からんな。略解いわく「奇跡を見て信じる信仰に否定的」らしいが、じゃあなんのための奇跡行為なんだよ。ヨハネ2-23

・うわー、もうヨハネはドグマバリバリだなー。十字架だとか信じる者が永遠の生命だとか言ってるよ。しかし、ユダヤ教徒からしてみれば、こんなもん世迷言でしかないわけだから、「あなたはイスラエルの教師ではないか。それなのにこれを知らないのか」って、知るわけねーだろっつー。ヨハネ3-10

・ヨハネになると、ヤハウェはイイ人(神)で、わざわざひとり子のイエスを遣わして十字架で犠牲にしてくれて、おかげでイエスを信じたオレたちは永遠の生命だヤッター、っていう一般的なキリスト教ドグマがもう前提になってるのかしらね。

・マルコではやけっぱちのあんちゃんだったイエスが、マタイ、ルカでは偉そうな新興宗教の教祖になったんだけどヨハネになるともう神話級にえらそうだな……。ヤハウェの愛は確かにプッシュされてるが、呪いの言葉とセットなので(イエスを信じねーやつはコロス!)あんまりイメージアップした気はしない。

・イエスが疲れて井戸のところに座ってて、やってきた女性に「おい、水飲ませてくれよ、水!」って言ってから、そっから延々と象徴的で神学的な話をぐだぐだやってる。おまえ、喉乾いてたんじゃねーのかよ。ヨハネ4-4

・喉乾いてるはずなのにぐだぐだと神学的な話をしたり、メシ食ってくださいよと言われてもカッコイイこと言って拒否したり、そもそも家事で水汲みにきたねーちゃんと延々神学の話をするとか、ヨハネにはまったくリアリティを感じないなー。イエスが非人間的すぎる。

・ヨハネ5-14のイエスは病気を罪と結び付けてる。9-3では否定してるんだけど。田川先生いわく「この時代は病気は本人や家族や先祖の罪のせいだとされていた、というのは大ウソ」らしいが。

・該当するマルコの注では、田川先生は特にヨハネ5-14に触れてないなー。単純な見落としか、それとも田川先生は別の訳を作れるのか。ともあれこれはヨハネ福音書の訳と注が出るまで分かんないな。

・共観福音書では「お前神の子なの?」「それはお前らが言ってることだろ」というよく分からない問答がイエス有罪の決め手?になったんだけど、ヨハネ5-18では「安息日を破った」「自身を神と等しいものとした」「神と父と言った」を殺意の理由に挙げてる。神の子を自称したって、当時のユダヤ教の文脈では有罪になる気はしないんだけど(あえて言うならクーデター未遂?)、「自身を神と等しいものにした」ならありえるのかなあ。法的にはしらんけど感情的には殺したくなるかもしれない。

・ヨハネ5-15はイエスへの裏切り行為とも取れるのか。普通に宣伝してるだけかと思ったけど。あれが裏切り行為だとしても、イエスが「おめーがなんか罪を犯したから病気になってたんだろ? もう悪いことすんなよ!」とかひとでなしなことを言ったからムカついて敵対者にチクったんじゃねーの?

・「父(ヤハウェ)が行うことであれば、子(イエス)も同じように行うのである」(ヨハネ5-19) そんなこと言われたらイエスがとんでもねー極悪人だと思っちゃうじゃねーか! あのヤハウェと同じことをするとか……!

・ヨハネ5-21「父が死人たちを起こし生かすように~」 ヤハウェが死者蘇生したことなんてほとんどなかったけどな。この頃になると、死者蘇生思想(イエスの生まれる少し前に流行った)が一般的になって、「ヤハウェは死者を蘇らせていた」と普通に思われるようになってたんだろうか。

・あー、なるほど。復活云々はエゼキエル37章か。確かに、実際に死者蘇生したことあんまりないけど、「そのうち死者を蘇らせるぜ!」というようなことをヤハウェが言ってる箇所はあった。

・ヨハネ福音書のイエスは、本当に旧約のヤハウェがそのまま人間になったような感じだな。「オレは義しい。オレを愛するやつは助けてやる。そうでないならコロス」っていうヤハウェの基本姿勢そのまんまだ。ただ、ヤハウェは完全なキチガイだったけど、あれに比べるとまだ話せる程度のキチガイではある。

・「オレのさばきは義しい! なぜなら、オレは自分の意思ではなく、オレを派遣した方(ヤハウェ)の意思を求めているからだ!」「オレがマジモンだってことは神が証明してる!」「旧約をよく読んでみろよ! 旧約はオレについて書いてあるんだからな!」 完全にキチガイの論理。ヨハネ5-30

・「お前らが信じてる聖典をよく読んでみろよ。ちゃんとオレのことが書かれてるはずだからさ。なに、読み取れない? それはおめーが真面目に信仰してねーからだよ、クソが!」 これってバハイもそうなんだよねえ。モーセ五書にイエスを読み取れとかムチャ振りにも程がある。

・キリスト教徒は、そこら辺の30代の汚ねーおっさんがイエスと同じことを言った時にちゃんとそれを信じられるのだろうか。「新約聖書をよく読んでみろよ! オレが本物のキリストだって書いてあるだろ? なに、読み取れない!? てめーキリスト教徒失格だな!」

・「お前に喉が渇かなくなる水をやろう」→「え、なにそれ! 欲しいです!」→「それは私だー!(バーン」「世に命を与える本物のパンをやろう」→「それは私だー!(バーン」 これ、本当に窮して水や食料をお願いした人たちは「クソどアホ、死ね!」って思ったんじゃないかな。6-33

・ヨハネのイエスは「オレはえらいんだー。オレを信じろー」ばっかりで全然説得力がないなあ。キチガイみたいだ。いや、奇跡行為は確かにやっておりますけどね。共観福音書と比べても言葉が浮ついてるというか、地に足が着いてないというか、空想じみてるというか。

・「天から下ってきたっていうけど、お前の両親はヨセフとマリアじゃん」って民衆がもっともな反論をしてるのに、イエスはまともに答えずに「オレはヤハウェから来たのだ。オレは天から来たのだ」って言うばかりで全くまともに答えてくれない。話ができねーなー。ヨハネ6-42

・ヨハネ6-52からの聖餐の話とか明らかに後代の作り話だろ……。しかもこれ読んでもイエスの肉を喰うのがどういうことなのかさっぱり分からねえぜ。イエスがパンでイエスの肉を食べるとイエスのゆえに生きることになり永遠に生きる……???

・イエスがあまりにキチガイじみてるので、多くの弟子たちが「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言って去っていった。ヨハネ福音書、意外と変なところで現実感があるな……。イエスがキチガイじみてることは現実感がないのに、その反応は現実的だ。ヨハネ6-60

・略解いわく、イエスは自分の奇跡を見て自分を信仰するようなのは嫌いらしいけど、でも、ヨハネのイエスは言ってることだけ見ると純然たるキチガイなので、奇跡なり何なりで自分の発言に説得力持たせないとダメだろうにね。実際、そうじゃなきゃなんで奇跡行為をやってるのかということになるし。

・イエス「オレの教えが、オレが勝手に言ってるだけなのか、それとも神から来たものかは、お前らが神の意思を行いたいと思ってれば判断できるだろう」。だからそういう無茶苦茶を言うなっつーの。「勝手に言ってるだけだろ」って言ったら、「お前はちっとも神の意思が分かってない」とか言うんだぜきっと。7-16

・共観福音書で、イエスが「お前は悪霊に取り憑かれている」と言われたら、それはちょっとひどいなあ、と思わんでもないけど、ヨハネ福音書で「お前は悪霊に取り憑かれている」と言われたら、ですよねーと同意したくなるくらいのキチガイ度がヨハネにはある。7-20

・しかしまあ、イエスのキチガイ行為に対して、イエスの弟子内部でも賛否両論、対する群衆の間でも賛否両論という点にはリアリティがある気がする。

・「あなたがたの中で罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」の有名な下りはヨハネだったのかー。でも、後世の付加部分と考えられているらしい。確かにヨハネのイエスはキチガイじみたことばかり言ってて、こういう面白いとんちはやらないもんなー。8-1

・「オレは世の光だ~」「お前が自分で言ってても信用できねえよ」「おいおい、律法にも二人の人間の証しは真実だとあるだろ? オレは自分自身を証しているが、そんだけじゃなくて、オレを派遣した神もオレについて証してるんだぜ?」全く理屈になってないwww ヨハネ8-12

・つーかこれ、循環論法だろ。「オレは世の光だ(神から遣わされた者だ)」→「どうして?」→「なぜなら、オレを遣わした神が証明してるからだ」。だから、神がお前を遣わしたことを証明しろっつーの。

・というかそもそも、「また私を派遣した父が私について証ししている」(ヨハネ8-18)。一体ヤハウェがイエスの何を証ししてるんだ?? 「現に奇跡行為が行える」ことを指して言ってるんだろうか?

・「じゃあ、お前の父はどこにいんだよ?」「お前たちはオレのこともオレの父のことも何も理解してない。オレのことが分かってたなら、オレの父のことも分かっただろうにな」 いや、だからお前のことを理解するためにお前の父について説明しろと。いらつくなーこいつwww ヨハネ8-19

・ヨハネのイエスは相手の質問にもろくすっぽ答えずに、とにかく独りよがりに「おれはえらいんだー。父から聞いたことをしゃべってるんだー」というばかり。ヨハネのイエスが同時代人だとしても、僕がこいつを信じることは100%ありえないと断言できる。ヨハネ8-25

・自分を信じてくれたユダヤ人がちょっと口答えしたら、イエスのやろー、「お前たちはオレを殺そうとしてる!」「お前たちの父は神ではなく悪魔だ!」とか言い出しやがった。ヨハネ福音書には、こいつ早く十字架で死なねーかなー、と思わせる力があるね! ヨハネ8-31

・「おれはえらいのだ」「なぜだ」「おれはえらいからえらいのだ。おまえらがえらければおれのえらさが分かるけど、おまえらはえらくないから、おれのえらさが分からんのだ」 ヨハネのイエスはほんとにずっとこればっか。すっごいつまんない。

・①お前たちが真剣に神を信仰してるなら私を信じるはずだ→②なぜなら、私は神と同等の存在だからだ→③私を信じないお前たちは真剣に神を信仰していないのだ。これがヨハネ福音書に頻出するイエスの理屈なんだけど、これが成り立つためには②が証明されなきゃいけない。で、民衆の側もイエスに②の証明を求めるのに、イエスは訳分からん循環理論でその問には答えない。「分からないのはお前たちが悪魔の子だからだ」とまで言う。……うん、これは殺されて当然だと思うんだ。しかもヨハネ8-31では、これを自分に好意を持ってくれた人たちに対してやるんだぜ。

・ヨハネ8-52の民衆側の論理はクリティカルなんじゃね? イエスは永遠の生命とかいうけど、旧約で義人とされたアブラハムや預言者たちは現に死んでいるわけで、 そこの整合性は一体どうするんだろうね。(整合性も何もこのちょっと前まで復活思想なんてなかったせいなんだけど)

・ヨハネ福音書には「オレを信じないやつ(主にユダヤ人ども)は死ね~~」的なことがよく書かれてるけど、ヨハネ福音書が書かれた当時のユダヤ教は「ナザレ派(キリスト教徒)のやつらは死ね~~」的なことを言ってたらしくて、なんだ単に呪いあってただけなのか……。

・イエスがしゃべりだすと途端にキチガイじみて何の説得力もなくなるのだけど、イエスの発言が少なめで他の人達が主に議論しているヨハネ9章は、今度はディティールも凝っててリアリティを感じさせる演出になってる。ヨハネ福音書は不思議な本だなー……。

・マルコのイエスが、行きすぎてキチガイじみてきたユダヤ教の慣習に対するアンチだとすれば、キチガイに対し否定的な僕たちにも納得できる姿勢で好感が持てるけど、ヨハネのイエスはユダヤ教のキチガイに対して出てきた新たなるキチガイであり、ゆえに親しみが持てないのではないかとふと思った。

・ヨハネ10-7ではイエスが「羊たちの門」だと言ってるのに、10-11では「良い牧者」になってる。喩え話の中で指し示す対象が変わるとか、どうかと思うぜ。

・「悪魔に取り憑かれており、気が狂っている。どうしてお前たちは彼の言うことに耳を貸したりするのか」(ヨハネ10-20) この箇所を読んでて僕が素直に感じたことを劇中のユダヤ人がそのまま代弁してくれた。

・「オレ以前に民を導いたやつらはみんな強盗みたいなもんだ! オレは信者たちのために死ぬぞ! オレが生命を捨てるから、神はオレを愛してるんだ! そしてオレは復活する! この命令をオレは神から受けてきたのだー!」 どう考えても悪霊に取り憑かれてます。ヨハネ10-7

・ん、「わたしより前に来た者」が誰かはよく分からない、か。羊は彼らの言う事を聞かなかったので(ユダヤ人は聞いてるよな)。

・ヨハネ10-25「オレが父の名で行ってる業がオレの証しだ」10-38「オレを信じれなくても、オレのやってる業を信じろ」 業ってのが何なのか分からないけど、奇跡行為だとすれば奇跡行為ゆえに信じるのもオッケーってことになるよね。前は、奇跡を見て信じるやつは、ケッって感じだったけど。

・ヨハネ10-34の旧約の引用は、相変わらずの恣意的、自分勝手、やりたい放題のひどい引用。元ネタの詩篇の方では「地上の為政者」に対して「あなたがたは神々である」と(天上での神々会議に仮託して)書いてるのに、「だからオレが神の子だって言ってもおかしくないんだー」という強弁。

・しかしまあ、今まで「おれはえらいからえらいのだ」とキチガイの世迷言しか言ってなかったイエスが、無茶苦茶な強弁とはいえ一応理屈立てて話をしようとしたことは確かだ。無茶苦茶ではあるが、このくらいなら読んでてまだ楽しめる。

・ラザロが死んでイエスが泣いてるんだけど、イエスは「オレのスッゲー奇跡」を見せるためにわざわざ死ぬのを待ってから復活させに行ったんだよね。ここで怒って?泣いた理由もよく分からない。略解だと「死の支配力に対する憤り、サタンの哄笑に対する怒り」らしいが、とても諒解できん。11-33

・ここで怒ってる理由としては、むしろ、マリヤとマルタがそんじゃそこらのユダヤ人どもと同様に、自分の死者蘇生能力を信用しきってなかったからじゃなかろうか。とはいえ、怒ってる理由はそれで良いとしても、涙を流す理由としてはイマイチだなあ。

・ヨハネ11-48の「イエスを放置してたらローマ人に滅ぼされちゃうぞ」という謎のテキストは、略解いわくエルサレム陥落後、ユダヤ教再建のためにメシア運動と手を切ろうとした現実的判断が下敷きになってるらしい。これは言われんと分からんなー。久しぶりに略解がいい仕事をしてくれた。

・ヨハネではユダは会計係でありながらちょろまかしてたという設定になってる。畑で死んだことにされたり、首括って死んだことにされたり、この人も後世の人間に好き勝手にやられてるよな。まあ、キチガイみたいに描かれちゃったイエスに比べればマシだろうけど。ヨハネ12-6

・「ギリシャ人がイエス様に会いたいって来ましたよ」と弟子に言われたイエスが、「オレはもうすぐ死ぬ~~」とか言い出して、しまいには神と会話とか始めて、そのままギリシャ人を無視してどこかに消えていった。ヨハネ12-20

・略解は「異邦人が弟子になりたいと言ったのを契機に、十字架にかかるタイミングが到来したことを宣言」と解釈。まあ、それはいいとして無視されたギリシャ人はアレだよな。ヨハネはどうも独りよがりというか、言いたいことをイエスに言わせるためにしばしば劇中の相手を無視する。

・ヨハネ12-37「イエスはこんなに奇跡を行ったのに彼らは信じようとしなかった!」群衆はキャッキャと集まってきてるじゃん。 38「預言者イザヤの言ったとおりである!」イザヤはそんなつもりで言ってない。 42「といっても指導者の多くは彼を信じた」イザヤの言ったとおりになってねー!!

・イエス「オレの言葉を守らなくてもオレはさばかないよ! オレは世を救うためにきたんだから! ただ、オレのオヤジがギッタギタにするだろうけどな!」 こんなことを突然(虚空に向かって?)叫びだした。相手の存在を無視するとか、誰もいないとこで叫んだりするとキチガイじみて見える。12-44

・ヨハネ13-1の洗足の下りが理解できないな……。マタイやルカなら「えらぶりたい宗教指導者は謙遜な態度を取りましょうね」くらいの意味になるんだろうけど、ヨハネの著者は何を考えてるんだか……。ユダを示唆する話も入り組んでて、この箇所は書きながら混乱してるんじゃないかとも思う。

・岩波訳の注にあるとおり、12節後半から17節までを加筆だと考えれば、ここの下りは単に「裏切り者がいるぞー!」だけの単純な話として理解可能。こういうところこそ田川先生の解説が欲しいなぁ。

・イエス「裏切り者がいるぞー」→弟子「主よ、どいつですか!?」→イエス「いまから私がパンを渡す者だー、えいっ」→ユダが受け取り、出て行く→弟子「あっ、ユダさん。祭りの買出しに行ったんだ」 弟子たち馬鹿じゃねえのwwwww ヨハネ13-21

・「私はあなたがたを愛した。同じように、あなたがたは互いに愛しあいなさい」(ヨハネ13-34) 大変うつくしいお言葉ですが、イエスが弟子を愛した場面ってなんかありましたっけ? ラザロは復活させてもらったけど。

・ヨハネ福音書はどうも具体的事例をあまり見せずに「愛!」「愛ですよ、愛!」って連呼してる印象。非常に薄っぺらく感じる。まあ書いてる彼らからすると、イエスが十字架でウギャーと死んだ事自体が愛の塊なんだろうから、それでもう「イエスは十分愛した」っていう気持ちになってんだろうな。

・そういえば、「遣わされた者は自分を派遣した者より大いなる者ではない」(ヨハネ13-16) ヨハネ福音書では、「イエスはヤハウェと同じくらいスゴイ」と「イエスはスゴイけどやっぱり神の使いっ走り(ヤハウェより下)」とがあって、イエスの立ち位置が明確でない気がする。

・イエスを信じれば、イエスが行う以上の業が行えるようになるらしい。この業ってのがなんだか分からんが奇跡行為だとすれば、少なくともキリスト教徒は死者蘇生が普通にできる理屈になる。これに真面目につっこむ気はないけど、当時の著者たちが自分にできないことをなぜさらりと書いたのかは気になる。14-12

・14章まとめ:イエス「オレの命令『互いに愛しあえ』。オレの命令を守る=オレを愛してる。するとオレと父もお前を愛する」 弁護者(精霊)の役割「イエスの命令を守ると弁護者がもらえる」「すべて?を教えてくれる」「イエスのお話を思い出させてくれる」

・「互いに愛しあえ」を実践するとイエスを愛してることになりヤハウェにも愛されるわけだが、ヤハウェに「息子を殺せ~」と言われたアブラハムなんかは、息子を殺そうとした時点で愛してない?ことになって、イエスを愛しておらず、結果ヤハウェに愛されない事になりそうなもんだが、それはどうなんだ?

・敷衍して言えば、「互いに愛しあえ」よりもヤハウェの命令は上位に来るということだろうか? 「互いに愛し合」わないとヤハウェに愛されないが、ヤハウェが「愛しあえ」に反する命令を出して、それに忠実に従った場合でもヤハウェは愛してくれる??

・そういえば「神の愛は無条件」というのは一体どこから出てきた寝言なんだろうか。とりあえず旧約、新約をここまで読んできた限りでは、条件付きの愛以外はなかった気がするんだが。パウロあたりが言ってんのかな?

・あー、なるほど。ヨハネ福音書でいう弁護者(精霊)ってのは、要するに教会の働きのことなのか。確かに聖霊の機能は教会に置き換えれる。「ヨハネの聖霊論は~父と子に対して副次的な立場に留まるのである。通訳と訳される由縁である」。略解グッジョブ。

・略解「子の業も、そこに現れた神の業も、愛であって、それを拒む者は、光が来たのに闇に留まるという選択を自ら下したのであり、父や子の責任ではない」。なんだ、略解的には「おれはえらいんだ、おれに従え」と言いふらすことが愛なのか。簡単だな。僕にもできそうだ。

・しかし、キリスト教には「自分に従わない者さえ愛する」という発想はないのかね。いや、人間同士の関係で言えば「敵を愛せよ」があるんだけど、ことが神になると、神を愛さないやつを神が救う義理はない、というのが自明の理になってしまう気がする。チャンスだけは与えてくれてるようだが。

・ヨハネ15-1の葡萄の木の寓話は、わざわざ喩え話にする必要もないような含蓄の無さなんだが、これは僕が気付いていない意味合いが何かあるんだろうか。どうでもいいけど、共観福音書によると喩えで話すのは相手に理解させないためで、それを弟子たちに向かって話したということは(ry

・ヨハネ15-13「人がその友人たちのために自分の生命を棄てること、これよりも大いなる愛は誰も持つことがない」。やっとだよ! いままでアイアイ、アイアイとおさるさんのように連呼してきたけど、やっと愛が何なのか説明してくれた! おせーよ!!

・しかし、ここまで愛が何なのか説明しようとしなかったのは(そしてさっきのも極端なケースの説明に過ぎない)、ひょっとすると、これを書いてる当時の人たちの中では愛は特に説明がなくとも分かる概念とされてたのかもしれない。

・ヨハネ15-22「仮りに私が来て彼らに語ることがなかったとすれば、彼らには罪がなかった」ということは、考えようによってはヤハウェは自分を愛してくれないやつを心置きなく断罪するためにイエスを遣わしたんじゃなかろうか。

・イエスが宣伝しなければ彼らは罪がなかった。しかし、イエスが宣伝したのに従わなければ彼らに罪が生じる。そして、イエス自身は25節で言うとおり、「彼らが自分に従わない」ことが"成就されなければならない"とすら考えている。少なくとも一定数の人間が断罪されることは確定だと認識してる。

・救いと呪いは表裏一体だと前々から思ってるけど、ヨハネ15-22はまさにそれを表してるんじゃなかろうか。イエスを拒絶することが罪だとすれば、そもそもイエスが救いの可能性をちらつかせなければ、誰も罪には落ちなかったんじゃないかね。

・ヨハネ15-26の記述が、あのクソくだらない論争、フィリオクェ問題に繋がるのか! あれってなにが一体そんなにシリアスな問題なんすかね。

・「聖霊が父から出てるか、それとも子からも出てるか」という議題を聞いただけで、心底くだらないなあとしか思えないのだけど、しかしまあ当時の一級の知識人たちが必死に考えてたんだから、何か僕には及びもつかぬ重要な問題だったんだろうなあ。たぶん。きっと。

・仏教が基本的に「あなた、私たちの教えを聞かないと将来ロクでもない目に遭うから従った方がいいですよ」なのに対し、キリスト教は「オレたちの教えに従わないとロクでもない目に遭うぜ! 誰が遭わせるかって? もちろんオレたちだよヒャッハー!」なのがイラっとするんじゃないかと思った。

・イエス「あなたがたのうちの誰も私に『どこへ往くのか』とたずねようとはしないが~」トマス・ペテロ「(さっきから聞いてんのに答えねえじゃん……)」 ヨハネ16-5

・どうもヨハネ福音書の中では、聖霊(弁護者)とは「オレたちヨハネ教会の言うとおりにイエスさまの生き様の意味を理解すること」のようだ。ヨハネ福音書中の愚かな弟子たちは、聖霊を受けることでヨハネ福音書の言うとおりの理解ができることに(ヨハネ福音書の中で)なる。

・つまりですね、聖霊を受けるとイエスの言行が正しく理解できるようになるわけじゃない。「ヨハネ教会の言うとおりに理解できました」状態になると、「聖霊を受けた」ことになって、そして聖霊効果により、なんと「ヨハネ教会の言うとおりにイエスの言行が"正しく"理解できる!」わけですよ。

・今までヨハネ福音書のイエスはキチガイかカルト宗教の教祖だと思ってたけど、「イエス」というラベルが付けられただけのヨハネ教会のスピーカーなんじゃないかと思えてきた。しかも壊れたスピーカー。ヨハネ福音書のイエスはあまりに非人間的過ぎる。

・「真理とはなんだ」とピラトは真面目に尋ねてるように見えるのに、略解だと「ピラトの答えは<真理とは何か>であり、イエスが分からない。彼もまた「この世」の陣営に属しているのである」とダメ出ししてる。異邦人のピラトがこんな訳分からんこと言われて即座に理解できるわけねえだろ。18-38

・略解いわく「(「私が王だとは、あなたの言ってることです」は)ギリシャ語の慣用句としては、「(あなたの言うとおり、)私は王である」の意味である」。うさんくせー。すんげーうさんくせー。これ、ホントですか?>ギリシャ語分かる方

・共観福音書ではイマイチはっきりしなかったけど、ヨハネ19-7を見る限り、少なくともヨハネ福音書においてはイエスを死刑にしたい理由は「イエスが自分と神を同等の位に置いたから」みたい。略解の言う「神の子に定冠詞がないうんぬん」は判断保留したい。ホントにそんな使い分けしてんのかな。

・共観福音書では、そこらへんを歩いてたおっさんが十字架を運ばされたことになってるけど、ヨハネ福音書ではイエスが自分で運んでる。イエスを死刑にした理由もだけど、僕らが適当に摂取するキリスト教知識ってかなりヨハネ福音書に影響されてんだな。

・トマス「オレはイエスさまの両手の穴にスコスコ指を入れて、脇腹の穴から手を突っ込まないと信じないぞ!」イエス「分かったよ、やりなよ!」 焼き魚食ったり、スコスコされたり、イエスも大変だな。ヨハネ福音書では貴重な、イエスの可愛らしいシーン。20-24

・20章で明らかに話は終わってんのに、21章で復活したイエスが弟子たちと朝ごはん食べる話が加わってる。えんえんと、えんえんと「弟子の中には"イエスの愛弟子"っていうスゲー弟子がいたんだぜ」ってアピってたのに、それがこの福音書の著者だって明言してなかったからしたくなったのかな。

・21章に対する意見:岩波訳「つながりが悪く、この文書の中でここだけに出てくる語彙が目立ち、また20-30~31は結びの言葉だからである(付加に決まってんだろ、こんなの)」略解「内容的にも語彙・文法・文体の面からも、福音書記者自身が追加したと考えてもよいほど同質と言われている」

・内容はともかく語彙なんかは客観的に分かることじゃねーのwww どっちなんだよ、ハッキリしろよ神学者www やっぱ略解は信用できねえなあ、もうー。

・ヨハネ福音書のイエスまとめ:壊れたスピーカー。「オレハエライ……エライカラエライ……オレハカミ……エライ……」まるで血の通った人間という気がしない。唯一人間らしい部分は死ぬ前の「母ちゃんをよろしくな!」だけ(ラザロの死で泣いたのは前後の文脈からしてむしろキチガイ描写と判断)

・個人的な福音書の面白さ評価:マルコ>>(超えられない壁)>>マタイ>ルカ>>(超えられない壁)>>ヨハネ ただし、田川先生の影響を受けてることは否定できない。

・面白さっていうか普遍性の問題かなあ。マルコには現代日本人が読んでもカッコイイなと思えるところがある。マタイやルカになると、「なんだ結局、お前んとこの宗教の宣伝か」って感じになって、ヨハネだと「お前、宗教の宣伝以外何もやってねえな」って感じ。

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