【6/17】「マルコ福音書」「マタイ福音書」感想


マルコの福音書

・マルコの一発目から刺激的だなー。「神の子」の言葉は「後代に付加された可能性を否定できない」。イエスにいわゆる三位一体的な意味での「神の子」の自覚はなかった(これを書いた当時の人達にも)という点が焦点だろうか。(マルコ1-1)

・個人的には今までは新約聖書に出てくる「神の子」は、三位一体的なニュアンスじゃなくて、「神を畏れている人」「ヤハウェ信者」くらいのニュアンスで受け取ってたんだけど、さて、どうなんかね。イエスは自分のことをいわゆる「神の子」だと思い込むようなキチガイではなかったと僕は勝手に思ってる。

・巻末の補注に「神の子」あった。①イスラエルの王(王を「神の養子」扱いにすることで王の支配を正当化、「神」ではないので不敬ではない)②イスラエルの民③義人:神の子の意味はここら辺っぽい。「イスラエルの王」の流れから「メシア」の別タイトルにもなったみたい。

・おいおい、「イザヤの言葉を引用しますよー」って言っておきながら、実際は出エジとマラキとイザヤを混合したものを引用してるじゃねーか。マルコのやろー、いきなりムチャクチャしやがるぜ。マルコ1-2~3

・基本的にキリスト教徒は自分の好き勝手都合の良いように旧約聖書を読み替えてる印象だったけど、それは後代のキリスト教徒がどうこうじゃなくて、新約聖書から既にもうそんなもんなのかもしれない。

・ヨハネの「私は後から来る人(イエス)の皮ぞうりの紐を屈んで解く値打ちもない」ってのは、どうも奴隷の仕事だったらしい。キリスト教徒の「うちの師匠に対して師匠面しやがるクソの評価を末代まで汚してやるぜ」という執念を感じる。しかしまあ、これがなけりゃあヨハネなんか忘れ去られてたんだよな。

・ああああ、あの未だによく分からない概念である「聖霊」が出てきたぞう。補注によれば、どうも世の終わりに神から霊が与えられるとされてたらしい。それがキリスト教徒の信者には「終末の賜物の先取り」、いわば「霊の手付金」としてもう貰えることになったらしい。マルコ1-7

・とはいえ、終末思想なんてかなり後の方になって出てきたものだから、「終末の時には聖霊をプレゼント!」ってのもイエスの生まれるちょっと前くらいにブームになったアイデアなんじゃなかろうか。どうも「霊(聖霊)」の概念は時代的にかなり変遷してる気がするなあ。

・んー、ヤハウェがイエスに対して、「お前は私の子!」って言ってるなー。(実際のイエスがどう思ってたかは別として)少なくともこの時点でマルコには「イエスは神の子」というドグマがあったんだな。まさか三位一体的な意味ではないだろうから(ないよね?)、養子というニュアンスだろうか。1-11

・ヤハウェ「よーし、お前が気に入った! 今日からお前はワシの子だ! 荒野に40日間行ってこい!」 相変わらずヤハウェは何考えてんのか分かんねえな。意図が全くノー説明だ。ホントに何考えてんだろう? イエスを試したのか?? だとしたらどんだけ猜疑心に駆られてんだよ。マルコ1-12

・当時の「神の王国」の概念もよく分からないな……。もうすぐヤハウェが王としてこの世で直接統治する時代が来る、という意味なのだろうか。「回心せよ」が具体的に誰に対して何を期待しているのかもよく分からない。(マルコ1-14)

・んで、漁師(といっても当時は最下層民のならずものだったらしい)から四人をスカウト。ここでビッグネームのペトロとヤコブをゲット、と……。「もうすぐ王権交代が起こる!」と言いながら街のならず者を集めてるんだから、そりゃこの時点で権力者はびびるよな。(マルコ1-16)

・「権能ある者」(一般的には「権威ある者」)って一体なんのことだ……。新約は良く分からん単語や概念をポンポン出してくるなあ。おそらくニュアンス的には「神と繋がっている」的なものなんだろうけど。1-22

・イエスが悪霊を追い出してる。旧約には実はそういう描写はないので(悪霊が人に乗り移る的なのはなかったはず。というか、悪霊自体出てこなかった気もする)、なんだか急にオカルトチックになったなあ、という印象。まあ、旧約は悪霊なんかよりヤハウェの方が遙かに怖いんだけど。マルコ1-23

・イエスの発熱してる人の治し方は、その人から「熱」を「去らせる」らしい。つまり、悪霊払いも病治しも理屈は一緒で、その状態をもたらしている何らかの人格的要素をその人の身体から追い出してるっぽい? 当時の病気の理解がそうだったんかね。マルコ1-31

・イエスは一つの場所である程度病治ししたら次に行っちゃうんだな。病治しはあくまでパフォーマンスであり、本来の目的は宣教というニュアンスに感じる。1-361

・イエスはある程度、病気を治したら他に行っちゃうし、らい病治した人に「オレが治したって言いふらすなよ」って言うし、結局、言いふらされちゃったので街に入れなくなるとか、読んでるだけだと自分が始めた病治しパフォーマンスにうんざりしてる感じを受ける。マルコ1-35~

・ちなみに癩病患者がやってきた時は、患者が「もし、あんたが望むなら私を清めることができるんですよ」とか言ったんで、イエスが怒って、でも病気は治してあげたことに田川訳ではなってる(他では「憐れんで」)。写本により違うようだけど、「イエスはキレることもある」くらいに認識しておこうか。1-40

・イエスは人々の心の声を「霊によって察知」したらしいが良く分からん話だなー。ここで言う霊は「神から与えられた生者として生きるためのエネルギー(魂ではない)」という概念でいいんだろうか。読心術的な超能力が起こった時は、この霊による働きという理解なんだろうか。マルコ2-8

・「霊=神から分かれて人の中に入ってる何か」くらいでとりあえず読んでく。

・「人の子が地上において罪を赦す権能を持つことを~」(マルコ2-10)。これもよく分からんな。人の子ってのはイエスを指すのか、人間一般を指すのか。田川先生は後者を推してるけど、文脈的には前者のような気もする。福音記者の時代には「人の子」はまだ人間一般でも使ってたのかな。

・岩波「当時の一般通念として罪は本人の、あるいは先祖の罪の結果であると~」 田川「まーた岩波は適当な事を言って! 当時にそんな通念ねーよ」

・罪人って、売春婦や犯罪人だけでなく、船乗り、羊飼い、肉屋、皮なめし業者なども入るらしい。そういう下級労働者や異邦人を罪人扱いしてメシも一緒に食わないとか、パリサイ派は「鼻持ちならない中産階級」だったんかね。

・イエスのたとえは何言ってんのかよく分かんねーなー。マルコ2-18のはなんなんだこれ。花婿がいるってのはイエスがいるって意味か? イエスが「断食なんて意味ねーぜ!」と改革案を打ち出したからもう断食しない、ってのは理解できるんだが、イエスの死後?は断食すると言ってるのはなんでなんだ?

・宗教儀礼としての断食行為はやらないけど、「断食なんて意味ねーぜ! まあオレの弟子たちはオレが死んだら悲しくてメシも食えなくて断食することになるけどな、ガハハ!」って意味なんだろうか。

・その後の新しい酒うんぬんは、「オレは下らねえ慣習をブッ壊していくぜ!」という程度の意味か。マルコは序盤に病治しと慣習破壊を立て続けに持ってきてるから、イエスをそういうキャラクターとして描きたいんだろうな。

・2-28の「人の子」は明らかに「人間一般」の意(「安息日ルールのために人間があるのではなく、人間のために安息日ルールがある。人間一般は安息日ルールの主である」)。じゃあ、やっぱり2-10も「人間一般」の可能性があるな。

・キチガイヤハウェとキチガイ預言者がキチガイじみた行為を繰り返していた旧約に比べると、なんだかんだいって新約のイエスは感情移入しやすいや。しかし、旧約のキチガイヤハウェをそのまま受け取るならイエスは次の瞬間ヤハウェにブッ殺されてもおかしくないわけで。旧約のキチガイヤハウェを見てたらパリサイ派的な反応も当然と言えるし、つーか、イエスの方がヤハウェを勘違いしてると思われても仕方ない。自分のキチガイ行為のせいで民が過度にビビってる様子を見たヤハウェが、「いや、オレ、意外と物分りいいよ、優しいよ」と送ったのがイエスではなかろうか。

・旧約のヤハウェはちょっと律法違反しただけで嬉々として人を殺すんだけど、ダビデが祭司用のパン食った時は「女から遠ざかってたから」とか何とかいう理由でなぜか殺されなくて、たまたまそういうケースを見つけたのでマルコがしめたと思ってここで引用したんだろうな。

・3-4の「安息日に許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」は二者択一ではなく、「どうでもいいだろ、そんなこと」という意味か? パリサイ派は「緊急時なら安息日でも治療できる」と決めてたらしいが、そんなこと決めるのがそもそもどうかね、ということ?

・パリサイ派はヘロデ党のところに行ってイエス暗殺計画を練ったらしい。でも、ヘロデ党はヘロデ寄りローマ寄りのはずだし、彼らが安息日如きでどうこう言うだろうか。イエスによるクーデターを怖れた? とはいえ安息日うんぬんの下りはクーデターを匂わすようなものでもないしなぁ。

・イエスは病気治しの能力のせいで大変な苦労をしてる。前も街に入れなかったけど、今度は押しかけてきた群衆で押しつぶされそうになったし、「穢れた霊」が「お前こそ神の子だ!」って宣伝するから(単に治してもらった人が感動して叫んだだけじゃね?)イエスが「やめろ、バカ!」って怒ってる。3-7

・しかしまあ物理的に無理だというのは分かるにしても、イエスは結構病人から逃げまわってるんだな。来る者拒まずで治してあげてたような印象だったけど。

・シモンに付けられた「ペテロ」のあだ名はイエスが実際に付けたのか、後に教会が付けたのか不明。仮にイエスが付けたとしても「教会の基礎となる岩」ではないはずなので、元はがんこだからとか、体がガッシリしてるとか、そういう理由だったのかも? 3-16

・熱心党のシモンが本当に熱心党(テロリスト寄りの政治党派)かどうかは怪しいらしい。ルカははっきり熱心党と書いてるけど、田川先生いわく、「イエス当時は熱心派なる政治党派は存在していなかった」。マルコが書いてる当時もまだ存在してなかった可能性があるので、単なるあだ名ではないか、と。

・(忙しくて?)メシが食えないくらい人が押しかけてくるし、家族からは気が狂ったと心配されるし、イエスはあれだな、超能力を持っちゃった人が辿るであろう道のりをちゃんとシミュレートしてるな……。3-20

・3-27の例えが何を言ってるのかさっぱり分からない。おれ、教祖マニュアルで「イエスはたとえを使って分かりやすく~」とか書いたっけ? 書いた気がする。ごめんなさい。不明でした。

・あー、分かった。強い者ってサタンのことか。「悪霊の親玉と知り合いだから、悪霊を追い出せるんだろ」って言われて、「ちげーよ、バカ! サタンをふんじばってからじゃねーと、悪霊も追い出せねーだろ! 常識的に考えて!」って答えてるんだ。……って、なんだよそれ、答えになってねえよ。(荒野でサタンを倒したんだぜ、と解釈するらしい)

・この時点ではサタンは完全に神と対立する概念になってんなー。しかし、「一つの王国が自らに敵対して分裂したら、そんな王国は立ちゆかないだろ」って、その理屈だとヤハウェ門下からサタンが敵対して分裂したんだからヤハウェの王国もダメじゃん。

・「罪は赦される」「神への冒涜も赦される」「でも聖霊を冒涜するのは赦されない」(3-28) このイエスの理屈は全く意味が分からない。神と聖霊で何が違うんだ。田川先生いわく「神への冒涜も赦される、がラディカルすぎたので初期キリスト教会が修正のために付け加えたんじゃないか」とのこと。

・3-31~は、イエスが気が狂ったと思って迎えに来た家族に対して、「あんなのうちの母ちゃんじゃないやーい。ここにいる僕の取り巻きが本当の家族なんだーい」ってイエスが言う有名なシーン。新興宗教の教祖と考えるとすごくリアルな描写で僕は気に入ってる。

・ちなみに田川先生によれば、ここはマルコが意図的に「イエスをキチガイ扱いしやがった家族のクソども」を強調しているらしい。マルコがこれを書いてた当時、イエスの弟であるヤコブが教会の指導者だったから反感を持ってたんだろう、と。

・4-13 弟子の物分りが悪くてガッカリするイエス。「なんでこんなことも分からないのー」。いやいや、イエスさんのたとえ結構難しいっすよ。

・ありゃ? 4-12で引っ張ってきてるイエスのセリフってイザヤの頑迷預言じゃん。ヤハウェが(民を殺したくてしょうがないのか)「オレを崇拝しないように宣伝してこい」っていう酷すぎるアレ。イエスは「部外者には分かんねえように、救われないように」難解な例えを使ったことになってしまう。<岩波に関して吉田先生から:「佐藤先生はギリシャ語の文法の観点からあのように訳されました(ドイツのLampeという研究者の論文に賛成して)。因みに、イザヤ書6章10節の最後は、ヘブライ語文法的に「しかし彼らは癒される」とも読めるのでして、面倒な議論があるのです」>

・田川先生によると、そういう酷いイエスの伝承があったので(おそらく初期キリスト教の排他主義的なやつらが作った)マルコはやむなく入れたけど、そういう弟子たちだってどうせ分かってなかったんだろ、という彼らの自己優越意識に対する批判とのこと。

・と、思ったら3-21から、「選ばれた者しか理解できねーとか、そんなわけねーじゃん!」ってイエスが言ってる。田川先生いわく、先に排他主義的なイエスの言葉を置いた後で、マルコがそれを批判するために直後に矛盾するイエスの伝承を置いた、とのこと。

・この解釈が正しいとすれば、旧約にせよ新約にせよ、どちらも編集過程であえて矛盾するテキストを提示することで自己批判してバランスを取ろうとしてるのかもしれない。やはり聖書には意図して矛盾が収められている?

・どうでもいいけど、新約を読むのが遅々として進まない理由が分かった。イエスの喩えがいちいち難しすぎるせいだ。4-25の喩えなんかは田川先生いわく「おそらく当時の人も意味が分からなくなってた」代物だというし、だとしたら読んでて躓くのも当然だよなー。

・4-26の田川先生の解釈が面白いw 「神の王国ってのは、種を撒いたら大地が育てるようなもので、いずれ刈入時(終末)になったら鎌を入れるんだ」と普通は解釈するけど、田川先生はこれは素朴に「大地ってスゴイね、自然ってスゴイね」でしかない、と。確かにそれを神の国と言うセンスは素敵だな。

・4-33~を読む限りでは、イエスは「喩えが分からんやつは分からんでもいいが、弟子で分からんやつには教えてやる」というスタイルだったことになる。喩えは民衆が「分かりやすく」「聞きやすく」するためかもしれないけど、「足切り」でもあったことになる。

・田川先生の解釈は逆で、イエスは分かりやすさのため喩えを使った。で、特に誰にも解説はしなかった。「弟子たちにだけ解説した」は、「弟子たちの間で解説を作ってた」という弟子集団批判(?)のニュアンス。

・嵐に遭う→船が沈みそうになる→イエス寝てる→「お師匠様、起きてよ!」→イエス、海に対して叱りつける→解決→「お前らさあ、まだオレのこと信じてないわけ? このビビリどもが!」→弟子すっげー怖がる(4-35)。急に起きたと思ったら海に対して叱りつけるとか、パッと読む限りはキチガイだ。

・当時はどうも風とか息とか空気の流れは全て目に見えない霊のせいだと考えられており、嵐を鎮めるのも病治しと同じ理屈らしい(霊に命令できるので病も治せるし嵐も止めれる)。いろんなスキルを持ってるんじゃなくて、同じスキルの応用法だったんだね。

・レギオンの悪霊祓いの下りだけど、レギオン(ローマの軍団)が穢れた動物である豚に乗り移って溺れ死ぬという流れに、ユダヤ人のルサンチマンをバリバリ感じる。こいつらホントにローマ人が嫌いだったんじゃねえかな。5-1

・しかし、イエスは超能力を発揮したら、人がわんさか来て迷惑するとか押しつぶされそうになるとか、弟子に不気味がられるとか住民に気味悪がられるとか、なんだか本人はつらそうだ。病人も時々ナメた口を利くしなー。

・「イエスさまの着物に触れたら病気が治るかも……えいっ!」→「ファック! 誰だ、オレのパワーを使いやがったのは!」→「ひえええ、こわい! ごめんなさい、私がやりました」→「許してやる、達者でな!」(5-25) やっぱりイエスは優しいなー。これがヤハウェなら間違いなく殺してたぜ。

・イエスがザオリク使った。で、改めて「ぜってー人に言うなよ! ぜってーだぞ!」。どうも本当にイエスは迷惑してるっぽい。しかし、旧約ではほとんどなかった死者蘇生が新約ではポンと出てくるな。悪霊払いもそうだけど。なんだかオカルティックだ。いや、ヤハウェが出ずっぱりの旧約の方がオカルトか。

・マルコ6-1は各地できゃあきゃあ言われてたイエスが、地元に帰ってきたら「大工の小倅が何言ってやがる」と言われて全然かまってもらえない有名なシーン。しかし、きゃあきゃあ言われても迷惑するし、見下されたらそれはそれで呆れたりするし、やっぱりイエスは大変よね。

・田川先生のヤコブ評が面白い。「イエスの弟。イエスの死後にエルサレムでキリスト教会ができあがると、いつのまにかその指導者にのしあがり、キリスト教をごりごりのユダヤ主義の方向に引き戻そうとした人物」

・イエス厳しいな。「人の家に泊めてもらいに行け。泊めてくれないなら出ていく時に足の裏の埃を払い落とせ(徹底的に絶縁しろ)」。エホバの証人が部外者と(家族であっても)絶縁するのも、これを参照すればあながち間違ってない気がする。6-7

・ヘロデ・アグリッパ(ヘロデ王ではない)は意外とヨハネを殺したくなかった感じにされてる(そこまで保護しようという感じでもない)。マタイ→ルカとだんだん殺したくて殺すような描写になると予想しとく。確か福音書は時期が後になるほど外部に対して攻撃的になっていったはず。6-14

・イエスが海の上を歩いても弟子はビビってるだけだし、パンを増やした奇跡からそれを肯定することもなかったみたいで、マルコのこのところまでを読む限りでは「ミラクルパワー使っても人を信じさせるのにそんな特効があるわけじゃないんだぜ」という感覚を受ける。6-32~

・パリサイ派と律法学者たちが「メシ食う前に手洗えよ!」(衛生的な意味ではなく宗教的な意味で)って言ってるのに対して、「聖書に書いてもないてめーらの作った規則に従えっか!」「体に入るものが穢すことはない、体から出て行くものが人を穢す!」ってイエスが怒ってる。7-1

・これは当時の浄不浄観念に対してのアンチであるから(どうせ相手も衛生観念などない)、当時これを言うことは神学的に革新的で意味があったと思うけど、現代的視点から見ればメシ食う前に手を洗った方がいいのは当たり前なわけで。汚い手でくったら(神学的じゃなく衛生学的に)汚れるわけで。

・なので、この言葉は「当時にしては」大変革新的だったけど、永遠の真理とかそういう類の物じゃないと思う。もしイエスが本当に全知全能の神のお仲間なら、衛生学的にも正しい場面で同様のアンチ行為をしたはずだからね。まあ、全知全能の神からすれば人間の衛生観念などゴミだ、という理屈は成り立つけど。

・ちなみにエホバの証人は五書のどっかにある「戦時中は陣の外にいってうんこしろ」を取り上げて、「聖書には当時ありえない衛生観念が書かれてるんですよ!」って言うけど、ここのイエスは衛生観念まったくないわけでダブスタ。

・イエスひでえええ。お忍びでオフ中のイエスのとこにギリシア人のおっかさんが「娘を助けてー」ってきたら、「子供のパンを奪って犬に与えてやるのはよくないだろ?(ユダヤ人でもない異邦人のイヌをなんで助けなきゃならんのだ)」。この時はお母さんはとんちで切り抜けてたけどひでえなあ。

・7-31~はイエスが聾唖者を癒す具体的描写がある箇所。指を耳に入れて、唾を付けて舌に触る。これ、当時の病治しキャラ(イエス以外にも普通にいた)がやってた、よくある治療メソッドらしい。今から見たらなんだか奇妙で突出したミラクルパワーに見えるけれど。

・イエスはパリサイ派に「奇跡を見せてみろよ」って言われたら見せねーんだな。地元でみんながかまってくれなかった時もミラクルパワーできなかったみたいだし、やってみろって言われたらやりたくなくなるのは、心情的には分かるけど、なんでなんだろうな。8-11

・イエス「パリサイ派とヘロデのパン種に警戒せよ(あいつらの影響力に気を付けろよ」→弟子「パン!? パン大好きー。パンうまうまー! あ、でも
、食べるパンないや……。しくしく……」→イエス「ア、アホ弟子どもめ……。ってか、オレがあんだけ奇跡でパン作ってやってたのに……」マルコはホントに弟子たちをアホの子扱いしたいみたい。 8-14 

・これはさすがに重箱の隅と言われても仕方ないが、8-22の盲人の癒しで、イエスが治してあげた盲人が「人間が見えます。木のようなものが歩いているから」というのが納得できない。人間を認識できてなかった盲人がどうして木は認識できてるんだ?

・8-27「なあ、世のみんなはオレのことをなんて言ってるん?」「ハイ、ヨハネとかエリヤとか預言者だとか言ってます!」「で、お前らはオレのことなんて宣伝してんの?」「ハイ、キリストだって言ってます!」「あああアホなこと言うんじゃねええ! お前らもうそういうこと言うんじゃねえぞ!」

・マルコ的には、ここではっきりイエスは「オレのことをキリストだって宣伝するんじゃねえぞ」って言ってる。これはどういう意味なんだろう。単に「オレが誰かとかそういう議論をするな」ということなのか(田川先生はこのニュアンス?)、それとも「キリストだなんて誤解を招くことを言うな」だろうか。

・マルコが弟子連中をアホ扱いするのは基本だとして、でも、イエス=キリストを否定?する気があったかどうかは良く分からん。さすがにそこまではないのかな?? あったら福音書を書かない気がするな。「お前らの考えるようなキリストじゃねえぞ」という辺りか?

・なお、マタイやルカになると、ここは単純に「イエスがキリストって見抜いたペトロさんカッケー!」になるらしい。

・8-34からの流れはよく分からんが、マルコ的には①イエスはユダヤ教的ないわゆるキリストではない②イエスは「人以上」の存在③「神の国」という概念がある、くらいのことは言えそう。マルコが「イエスはキリストではない」というのも変な話だけど「最強の武力を持った政治指導者ではない」くらいの意味。

・あー、なるほど。9-1を田川先生の言うとおり皮肉と理解すれば8-35の流れも理解できるな。9-1は「「神の王国が来るまで死なないやつがいるよ」→「そんなにすぐに神の王国来ると思ってたのか。イエスの予言外れてるww」だと思ってたけど、「へぇー、みんな迫害に遭ってるのに終末が来るまで生き延びれると思ってるとかスゲーっすね~」っていう皮肉だと受け取ればなるほどって感じ。田川先生の解釈が護教論的に機能してる珍しい例w 一方、新共同訳略解の解説はドグマがキツすぎてさっぱり理解できない。ありゃ一体何言ってんだ。

・9-2でイエスがエリヤとモーセと話してる。エリヤは天に登っていったけど、モーセは死んだはず。この頃のユダヤ教ではモーセも死なずに天に登ったことになってたらしい。で、エリヤが終末の前に来る、という思想も生まれてたみたいで、洗礼者ヨハネがエリヤの再臨とされてた?

・9-12で「人の子について、彼が多くの苦しみを受け、ないがしろにされると書いてあるのはどういうわけか」とあって、そんなのどっかで書いてあったかな?と思ったけど、やっぱりどこにも書いてないらしい。まあ聖書がFIXされたのは後の話だし、この時点ではなんかそんなのがあったのかもね。

・9-14からの流れもよく分からないんだけど(新約は意外とよく分からないことばかりだ)、癒しにおいて必要なのは「信じること」(誰を?イエスを?)らしい。で、「祈り」(誰の祈り?)なんだって。誰が誰を信じるのか、誰が祈るのかがよく分からない。

・イエスが「信じて祈っ」たから子供の悪霊が払われたのか(悪霊祓いの手段に関する問題)、子供のオヤジが「信じて祈っ」たから払われたのか(対象の心構えの問題)。後者だとしても、実際払われたのはオヤジじゃなくて子供なんだよな。子供本人でなくていいならオヤジでもイエスでも良さそうなもんだが。

・「信じる」の前提となっている「いま現在信じていない」状態の人が誰なのかもよく分からなくて、悪霊祓いができなかった弟子が不信仰なのか(田川説)、その場にいた群衆が不信仰なのか(略解説)分からない。ここは略解の説明の方が理屈は通るような気がする。

・9-33からの流れもよく分からないが、イエスがキリストとして活躍した後に上位に上るのはオレだオレだと言ってる弟子たちに対し、「現世的に上位に行こうとするやつはまあ奴隷になるのが関の山だな! オレの弟子だってんならそこらのガキ(社会的な保護対象)を保護しろよ!」くらいか?

・9-43でゲヘナが地獄扱いになってる。新約の時代には地獄の概念がもうあったらしい(ギリシャ神話の影響)。この頃(もしくは旧約の終わり頃)になって生まれた概念としては他に神の王国、死者蘇生、悪魔、悪霊など(たぶん)。

・9-38で、「イエスの名前を使って悪霊祓いをしながらも弟子集団に従わなかった」やつを弟子がやめさせたのに対し、イエスは「私たちに逆らわないものは私たちに味方する者なのだから」と許容する姿勢を示している。これを敷衍するならば、キリスト教が内部で異端うんぬんを論じる理由はない気がする。

・9-42の「(イエスを)信じる小さな者」は田川説だと「イエスの名を使って勝手に悪霊祓いをした人」。これだとそれを止めさせた弟子たちをお「海の中に投げ込め」になる。一方、略解の説だと「小さき者」はキリスト教伝道者で、伝道者を邪魔するやつは死ね!的な意味になる。真逆といっていい違い。

・流れ的には田川説のが飲み込めるなあ。それにこっちの方がイエスのキャラが暖かい。部外者に厳しいイエスよりも弟子に厳しいイエスの方が好感が持てる。しかしまあ、とにかく言えることは、新約聖書を読んでなんか理解できた気になるのは多分間違いってことだな。

・9-49~50の意味が全くわからなかったんだけど、田川先生いわく「全く意味不明」「理解しようとしても無駄」。

・マルコ10-1はイエスが離婚の禁止について触れてる箇所。ただまあ、この当時はおそらく夫に捨てられた妻は社会的弱者なので弱者救済的なニュアンスだったんじゃないかと思う。ただ、妻の方から離縁するケースにも触れられてて、だとするとそこまで女性の地位が弱くなかった、ようにも思える。

・ところで、イエスは以前は「長老が決めただけで聖書に書いてねーことを規則にしてんじゃねー」ってパリサイ派に怒ってたんだけど、今度は「聖書に離婚していいって書いてあるけど、しちゃいけねーんだ」って言ってるんだよね。この態度はフリーダムというべきかダブスタというべきか。

・マルコ10-15「神の王国を子どもの受け取るように受け取らない者は~」は、田川訳では「神の国を子供を受け入れるようにして受け入れるのでない者は~」。

・マルコ10-15「神の王国を子どもの受け取るように受け取らない者は~」は、田川訳では「神の国を子供を受け入れるようにして受け入れるのでない者は~」。今まで当たり前のように前者で読んでたけど、どうもマタイははっきり前者で書いてるらしい。マルコでは五分五分。文脈的に後者も納得できる話。

・前者だと「純真な心で神の国を受け入れる子供えらい! 見習え!」であり、後者だと「神の国ィィ~? まず、こういう社会的弱者の子供を受け入れたなら入れるかもしれねーな。お前らさっき追い出してたけど」になる。しかし、マルコだとイエスは弟子に怒ってばっかりだなー。

・「真面目に十戒守ってますよ!」っていう金持ちに「じゃあ、あんたの金を弱者に与えれば?」は別に無一文の修行者になれとか経済活動を否定してるとかじゃなくて、見るからに不当に金持ちになったであろう男に「あんたが奪った分を返してこい」くらいの意味らしい。例によって田川先生によると、だが。10-17

・略解の方ではここは一般的な見解で「全て捨ててこいよ!」って言ったことになってる。そう取るのも分かる話で、直後でペテロが「オレたちは全部捨てましたよ! お師匠!」ってドヤ顔してるから。田川説ではイエスが「うん、でも、それって別にお前らだけじゃないからね」ってたしなめたことになる。

・10-40などを読む限り、明らかにイエス(キリスト)の権限は(神に比べて)制限されているんだけど、どうもこれは三位一体的にマズイらしくて「従属論」と呼ばれ異端視されたらしい。マルコの時代ではイエスの立ち位置は明確に神以下だったんだね。この点はエホバの証人は忠実w

・弟子の権力志向を諌めて「権力者になりたいとか思ってたら奴隷になっちゃうよ」っていう10-35からの流れなんだけど、それにしては46の「オレも仕えるために来たんだよ」はよく分からない。田川先生は「そういう風に生きなさい」と奴隷的な生き方を肯定的に捉えてる? まあ権力志向よりは確かにマシだろうか。

・しかし、マルコの時点で既に十字架の神学……というか、「お師匠が犯罪者として死刑になっちゃったんだけど、どういうことなの?」をなんとか理由付けしようという動きはもうあったんだな……。そりゃまあ何か理由付けできないと普通に解散して終わるもんな。

・10-46で盲の乞食が近寄ってきたら、また弟子たちが追い返してイエスに怒られてる。まだマルコも半ばなのに、このパターン何度も見たよ! マルコは本当に弟子たちを権力志向で自尊心が高くて排外的なロクでもない連中に描こうとしてるんだな……。

・ちょっと新約聖書を読んでて感じた問題点をメモがてらに書いておく。まず、難しい。とても読めない。解説なしでは理解できない。最初は素直に読んで素直な感想を持ちたいのに、解説なしでは理解できないので田川先生にしろ略解のドグマバリバリの解説にしろ何らか人の意見に従わないと情景を理解することさえできない。そうやって得られたイエス像なんてのは、結局、誰か他人のイエス像であって、新約聖書を真面目に読んで自分だけのイエス像を作るなんて無理! おそらく四福音書それぞれの著者ごとに違うイエス像があって、さらに各々の福音書ごとに違うイエス像を読み取れるはず。

・結局のところ、新約聖書は誰か他人の理解に沿った形でしか理解できないんじゃなかろうか。今の僕も「あの人はこういってる」「ドグマ的にはこうなってる」を頭の中にばらばらに収めていってるけど、自分の中のイエス像なんて曖昧模糊としてて捉えどころがない。読み進めていけば少しは固まるんだろうか。

・現時点であえて言えそうなことと言えば、(若干の例外はありつつも)イエスは基本的には社会的弱者に対しては常に優しい(気がする)。「社会的弱者への配慮」というのはヤハウェのほとんど唯一の美徳なので、その路線を継承しているのだとすれば、この線はあり得るような気がする。

・マルコ8-9の「主の名によりて来る者に祝福あれ」はマルコの時点ではまだイエスを指してるのか、単に巡礼のお登りさんを指してるだけなのか分からないらしい。イエスがどの時点でオンリーワンの神聖視されていったかを図る目安になりそう(?)

・イエス「うー。腹へった。おっ、イチジクの木じゃん。まだ実残ってるかな? ……ねーじゃねーか!(だってもうイチジクの季節じゃないから) ファック! 今から誰一人お前から実を食べるもののないように!(枯れろ、くらいの意味か?)」 イエス、すごいな。パンクロッカーだな。マルコ11-12

・なお、この箇所に関する解説は略解が「この期待と落胆は民の配信を嘆く言葉を想起させる。エルサレムの律法学者に対する永遠の断罪に通じる表現である」。田川先生は「腹減ってイチジクに近付いたら実がなかったんで、この木はけしからんね、とおどけただけだろ。もしくは地名から作られた聖者伝説」

・イエスが神殿で暴れまわった時の「両替商」ってのは、どうも一般に出回ってる貨幣はローマ皇帝の顔が入ってるから偶像崇拝的に献納できなくて、専用の献納用貨幣への両替をする仕事だったらしい。しかも、両替手数料を取る。寄付を受けるだけでなく手数料まで取るとか頭いいな。マルコ11-15

・いちじくの木が枯れた話の後日談で、「お師匠さま! あのいちじく枯れてますよ!」「強い確信を持てばこんくらいラクショーよ!」ってなってるんだけど(田川先生の解釈)、しかし、これだと同じく田川先生の「おどけてみせた」と「確信」が結びつかない気がするな。マルコ11-20

・神殿で暴れまわった後で、のこのこと神殿の中を歩きまわっていられるはずがないので、マルコは別に時系列に出来事を並べているわけではなく、話の主題に応じて似たようなものをまとめて並べている、とのこと。11-27 

・12-1からの喩えは「イエス=神の子」という前提あってのものに読めるな。でも、三位一体的な意味ではないだろうから、ここでは「義人」くらいか? 真面目なヤハウェ崇拝者が来ても殺しちゃったよ、くらい? こういうところから三位一体的な話(イエスは神の息子!)につながったんかね。

・「カエサルのものはカエサルに、神のものは神へ」は四者四様に解釈されてて、一般的には政教分離的なニュアンス(ローマには逆らわずに、それはそれとして信仰はちゃんと~)で捉えられてるけど(オリゲネスとかもそう)、岩波訳の注では神をカエサルの意味と取って、ユダヤ教信者のふりして近付いてきた質問者に「おまえら肯定崇拝してんだろ?」という皮肉と解してる。これは説得力あるなあ。田川先生は神を神殿税と取って、「ローマに税金払って神殿にも税金払え」(=市民から税金を取り立ててるお前らがローマに払う払わんだのとふざけんな、という皮肉)と取ってる。略解では神を出すことで皇帝を些少なものと見ている、という解釈。

・12-26でイエスが死者復活を旧約を典拠に説明してるんだけど、その理屈が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とヤハウェが自分で言ってる、だからアブラハムとかは今生き返って生きてるんだ、ということらしい。イエスは他では結構とんちが効いてるんだけど、ここは全く理屈になってない。

・マルコ12-18からの議論は今見ると興味深いな。サドカイ派は保守派で、死者復活とかいう"ポッと出の思想"に反対してたんだよね。で、どうもイエスは死者復活はすると思ってたらしい。少なくとも初期教会は。しかもイエスは人が生き返ったら天の御使みたいになると考えてたらしい。(そんなもん旧約にはない)

・イエスは思想的には意外とミーハーだったのかな? でもハードコアなところもあるよな。旧約にやけに固執したかと思えば、旧約をねじ曲げることだってあるし、何考えてんのかよく分からん人だ。

・マルコ12-28の箇所はマルコとルカで正反対らしい。マルコのイエス「一番大事な教えは神を愛することと隣人を愛すること」 ルカのイエス「一番大事なのは神を愛することと隣人を愛すること? はぁ、そうですか。頑張ってくださいな。まあ、あんたら全然できてないんだけど」

・マルコ12-35から、イエス自身の口で「キリストがダビデの子ではない」と言ってる(ダビデは"ユダヤの歴史の中では"すごい軍事指導者だったから、次に来るすごい王(=メシア)はダビデの子孫だと思われてた)。なら、ルカがイエスをダビデの子孫設定にする必要はなさそうなもんだけどね。

・イエスいわく終末時に起こる徴:*イエスを名乗る者が現れる(マタイだと「キリストを名乗る者」)、*戦争が生じる、民族が民族に対して立ち上がる&王国が王国に対して立ち上がる(よく分からない。大規模な戦争のことか?)、場所によっては地震や飢饉がある、*弟子が議会に引き立てられて殴られたりする、*全世界に福音が宣べ伝えられる、*家族間で(迫害に関して)裏切りがある、*宗教迫害される(ただし、*印の付いている箇所はそう読めるか曖昧。13-9辺りで話が変わってる可能性もある。そもそも終末の徴などイエスは語りたくないのかもしれない)

・13-14からの下りは、終末時に大悪魔が現れて艱難の日々が訪れる、と読むべきか(略解はこれ)、ローマ皇帝がまた偶像をおったてようとして戦争が起こるかもしれないけど、そうなったら艱難だよねえ、くらいに読むべきか(田川先生はこっち)。「荒らす忌むべきもの」は僕も単に偶像な気がする。

・実際の終末の際には、太陽が陰って、星が落ちて(星は悪霊みたいなもんだと思われてた、おそくら異教では星を崇拝してたから)、人の子が雲に囲まれて到来する(ここでの人の子がイエスを指すかどうかは怪しい)らしい。で、世界中から神に選ばれた者が集められるんだって。

・13-32「終末のタイミングは神の子も知らない」。仮にマルコがイエスをいわゆる神の子だと考えてたとしても、絶対的に祭り上げていたわけではない、ということが分かる箇所(らしい)。確か前もイエスの機能を(ヤハウェに比べて)制限してたし、まあ、そういうイエス観なんだろう。マルコの中ではイエスは明確に神より下の存在。

・マルコ13章は(田川先生に従ってまとめると)「せんせー、終末はいつくるのー?」という弟子に対し、終末の徴がどーとか、終末がいつ来るとかグダグダ言ってねーで、まあ来る時には来るんだから、いつ来てもいいように日頃からちゃんとやってなさいよ、といった感じか。後半は一般的な解釈と同じかな。

・マルコとヨハネでは十字架の日が一日ずれるらしい(そう岩波の注に書いてあった、自分で確かめたわけではない)。個人的には聖書には今までも無数に矛盾が出てきたわけだし、いまさら一つ二つ新しく出てきてもどうとも思わない。

・聖餐式的な行為やドグマはキリスト教初期からあった(かもしれない) 14-23

・捕らえられる直前にイエスが神に祈ってると、一方、弟子はうとうとしてる。

・ユダはでもドグマ的には計画の一部なんじゃね?

・14-49 キリストの受難は旧約の時点で予言されていた、というドグマ。

・解説を読む前にパッと読んだ感想を書くことにしよう。14-62は読んだ感じ、イエス=キリスト=神の子と読める。やっぱりマルコ的にもイエスはキリスト? しかし、その後の下りの、大祭司いわく、それが冒涜の言葉になる、というのは意味が分からない。キリストの概念自体はあったわけなんだから。

・大祭司「お前は神の子なの?」→イエス「そうだ」(口語訳、新共同訳、岩波訳)イエス「それはお前らが勝手に言ってることだろ」(田川訳) 解説を読む限りはここは田川訳の方が説得力がある。マタイもルカも「お前らが勝手に~」だからね。やはりマルコ的にはイエス=キリストはまだ保留か。

・冒涜に関しては田川先生も略解もスルーか。「もうすぐキリスト来るかも」は当時ふつうにあった観念だろうから、「それが私です」と言っても即座に冒涜とはならない気がするんだが。しかも、この箇所はおそらく「それはお前らが勝手に~」なので、いよいよもって神を冒涜しているようには読めない。

・この箇所はマタイやルカでも意味が通じないな。意味は分からないが、ともかく当時のユダヤ教の文脈ではこれが神への冒涜になったんだろう。理解できないが。

・ピラトは僕が初めてキリスト教に触れたころは、別に悪い人じゃないのに変なことに巻き込まれて困惑してる人、くらいのニュアンスで教わったけど、キリスト教の中ではイエスを殺した極悪人的な扱いを受けてきたこともあるらしい。史実では、ふつうにロクでもない為政者ぽかったみたいだけど。

・史実から離れて(ローマへの遠慮からか)福音書はピラトをあまり悪人に描かなかったのに、キリスト教徒は福音書から離れてピラトを悪人だと思い込んで、そんで実質、ピラトはふつうにイヤな為政者だった、ということかなw

・あれ? バラバって強盗殺人犯だと思ってたけど、マルコだと暴動と殺人になってる(正確には「暴動と殺人を犯したものと一緒にいた」。ルカではそう)。バラバが強盗犯なのはヨハネだけか。マルコ15-7 なお、祭りの際に恩赦を与えるということがあったかどうかは歴史的には確認されてないらしい。

・イエスが絶命する瞬間、大声で叫んだら神殿の幕が上から下にまっぷたつに切り裂かれたらしい。マンドラゴラみてーだな。マルコ15-38 岩波訳はこれを「神顕現」と解釈、略解は「神殿の否定」と解釈してる。

・イエスの「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」の後に近くにいた人が「みろ、エリヤを呼んでるぞ」っていうシーンがあって、岩波訳では「当時、苦しむ義人にはエリヤが天から助けに来る、という民間信仰があった」と書いてるけど、単にエロイをエリヤと聞き間違えた、という説もあるらしい。15-34

・「我が神、我が神、何ゆえ~」は田川先生はそのままに読んでて、これが詩篇22の引用なので実は神賛美だって説を罵ってる(加藤先生はこれ)けど、神賛美という方向も個人的にはなくはない気がする。文学的にはありえると思う。とするとイエスが末期のセリフで本当に言ったとは思えないけど。

・とはいえ、この時代のキリスト教徒にそんな文学的なものを受け取る素養があったとは思えないし、マルコ中でもみんな適当に旧約から(文脈無視して)テキストを引っ張ってきてるから、やっぱり事実としては、イエスは詩篇22の全体なんか考えずに、単に神に恨み言を言っただけなんだろうな。

・福音書ってなんかドラマチックな印象があったけど、マルコのラストシーンはイエスの墓に変な若者(天使?)がいて、「イエス生き返ったよ! 弟子に伝えといてよ」って言ったら、イエスのママやマグダラのマリアが「ギャー!!!」って逃げ出してブルブル震えて終わってる。そこで終わったらホラーだよ。

・ちなみにマルコでは、ペテロ他の弟子たちはイエスが引っ立てられたときに逃げ出してからそれっきりで出てきません。完璧スルー。弟子に対しては一切フォローなし。きびしい。(マルコの中では単に「いざという時に逃げ出した腑抜けども」なんだろう)

・マルコは「イエスの復活」までは信じて(?)いたようだけど、「復活したイエスと再会できる」ことまでは信じてなかった?

・マルコ読みなおした。以下、マルコのイエス像:並の人間以上の特別な存在であって何らかの奇跡的能力もあるけど、みんなから押し寄せられるのは迷惑がる。挑発的な態度を取り、慣習破壊的でありながら、論争相手にはとんちの聞いた応えを返す(テロリストとまではいかない)。社会の不公正に対する問題意識を持つ。党派意識は薄い。神学的にミーハーなところもある(死者復活を信じてる)。自分がキリストという意識はあるかどうか不明。<弟子を叱ってばかり。異邦人には厳しい。自分の将来に対して悲観的になっていく>

・<>内はマルコの意見とか初期教会の意見とか十字架という結果から逆算したものだろうから、その分差し引いて考えたもの。総合してみると、こりゃ要するに預言者ではなかろうか? 挑発的であり、社会の不公正に問題意識を持ち、神への愛を強調する、というのは旧約の他の預言者と同じ気がする。

・他の預言者と違う点としてはイエスがえらい皮肉屋だということだろうか。あと、意外にも(凶悪、酷薄、冷酷、残虐で知られるあの)ヤハウェを「あんまり愛の神にしていない」。イエスはもっとヤハウェのイメージ向上に務めた印象だったけど、マルコでは意外とそうでもない。若干上方修正させた程度。

・マルコ福音書のヤハウェ像は、従来のヤハウェ像とそんなにまで変わらない気がする。ヤハウェのほぼ唯一の美徳である社会的弱者救済を強調して、他の数多ある暗黒面を取り上げなかったことで、結果的にイメージがよくなってる感じ。

・おそらくマルコ的にイエスは、「ウッヒョー! オレの同時代にスッゲー預言者が出てきたぜー! この人、権力に対してヤベエ挑発行為もバンバンやるし、奇跡も起こすし、まるで聖書の預言者みてーだー。しかも、根っこは真摯で優しいんだよな! いかすぜ! 神がかってるぜ!」くらいじゃないかなあ。


マタイ福音書

・マタイ1でイエスがダビデの出身であることを系図で証明しようとしてるけど、マルコでイエスが「キリストはダビデの子じゃねーぜ」って言ってるし、そもそもこんなもの不要なのでは? 岩波訳も「でも、イエスはヨセフ(ダビデの子孫)の子じゃなくて処女懐胎したんだろ?」って突っ込んでる。

・略解によれば、イスラエルでは血縁関係よりも法的関係の方が重要なので、ヨセフの精液から生まれてなくても、イエスがダビデの子孫ということになるらしい。

・ん? 義人の意味が変わってないか?? ヨセフが(結婚前から妊娠してた)マリアを結婚後すぐに離婚しようとするんだけど、これはそうすることで婚前交渉の罰(石打ち!)からマリアを助けるため、と解説されてる。なぜならヨセフは義人だから、と。でも、義人なら殺すんじゃねーの? そういう人間的な情を入れずにヤハウェの言うとおりにブッ殺すのが義人だったはずだ。新約の時代(というかキリスト教後?)から感覚が変わったのだろうか?マタイ1-19

・義人の件は、ヨセフが「聖霊によって身ごもった」と知ったからなのかもしれない。聖霊によって身ごもったのなら殺さないのが義人、ということか? しかし、「聖霊によって身ごもった」から別れようとしたのに、天使に「聖霊によって身ごもったから受け入れろ」と言われて受け入れるのもよく分からん。

・マタイ1-20からすると、マタイになると流石にイエスがユダヤ人を救う、的なニュアンスが出てくるっぽい。また、マタイになってから、イエスの権威を旧約で裏付けようとし始めるらしい。

・1-23の乙女の件は、田川先生は「七十人訳の時点で乙女なんだから、当時のギリシャ語ユダヤ人は処女降誕で読む意味が広がってた」とのこと。別にキリスト教徒がイザヤ書を無理にイエスにあてはめたわけではない(勘違いではあるが)ということだろう。

・それはそれとして、「『インマヌエル』と呼ぶであろう、って言われてるのに、ヨセフは『イエス』と名付けた、とマタイは平気で書いてやがる」という点には突っ込んでる。「細かいことはどうでもいいから、ともかく何か有難い聖書の予言があればよろしい、ということだろう」だそうなww

・東方の三賢者(三人かどうか不明だけど)の件って、異教の宗教者が「ユダヤ人の王」(つまりメシアか?)を拝みに来たってことらしい。その際の「指導者はベツレヘムから出てくる~」は元ネタのミカ書では「ベツレヘムは最小の者」。マタイでは「最小の者では決してない」。なぜこんなセコイ改竄を? 2-6

・旧約のあっちこっちから適当に知っている文句を引っ張ってきてパッチワーク的に繋げて作文するのがどうも当時流行ってたみたい。2-6もそういうもんなんだろう。にしてもベツレヘムの評価を裏返すのは良く分からんし、そもそもダビデの子孫じゃなくても別にいいってマルコは言ってたのにね。

・2-13 ヨセフが天使のお告げによりイエスと一緒にエジプトに逃げたのは預言書の「エジプトから、私はわが子を呼んだ」が満たされるためだそうだが、本来の文脈(ホセア書)に照らせば、この後イエスはヤハウェを裏切ってヤハウェにぶちのめされることになるんだけど。文脈とか全然考えてねえな。

・一部のキリスト教徒がしばしば文脈を何も考えずに聖書から引用するのがどうかと思ってたけど、そもそも福音書の時点で文脈とか何も考えてないんだからしょうがない気がしてきた。

・2-18も文脈無視だが、まあギリギリ許容範囲。「北イスラエルの人がひどい目にあった」くらいが元ネタの意味なので、ヘロデ大王に子供殺されたのは一応イメージ的には繋がらんでもない。でも、これ、多くの人がまとまってひどい目に遭ったら(飢饉とか疫病とか)それでも預言成就したことになるよな。

・天使のお告げでイエスはエジプトに逃げたわけだけど、他の子供達は特に救いもなく虐殺されてるので、相変わらずこの辺は何の配慮もない。いつもどおりのヤハウェ節。神学通りヤハウェが自分の子を人間のために犠牲にしたのだとしても、それならこの時に子を殺された親たちも同じようなもんじゃん。

・ちなみにヘロデの幼児殺しは99%創作。出エジプトにおいてモーセを殺そうとエジプト人のユダヤ人の子供を殺した伝承を重ねあわせたものらしい。田川先生いわく、ヘロデが純粋なユダヤ人ではない(イドゥーマイヤ人)なのでユダヤ人側の差別意識で「何かにつけ滅茶苦茶な悪口を」言われてたらしい。

・確か、それを裏付ける何の証拠も出てないらしい。当時の支配者なのでそんくらいのことはやりかねないとしても、たとえやっていたとしても、当時クソのつくド田舎であったベツレヘムでの幼児殺しだからどんなに多くても20人も殺してない、という話もあるらしい。

・マタイはガリラヤ生まれのイエスをベツレヘムで生まれたことにすることによって、「イエスはあのダビデも生まれたベツレヘムの出身なんですよー」と泊を付けつつ、ついでにヘロデの悪口も言えて一石二鳥、ということか。

・マタイではイエスがヨハネから洗礼を受けたことを一生懸命カバーしようとしてる(イエスがヨハネの弟子になっちゃうから)んだけど、いよいよヨハネに対して失礼な感じになってきたな。しかし、「なぜイエスが洗礼を受ける必要があったのか」という問題は何も解決されてない気がするんだけど。マタイ3

・この文脈的にヨハネの洗礼には一体何の意味があるんだ?? ……いや、まあ本来は「普通の意味で洗礼を受けただけ」なのを、強引に「まあそんな必要はもとよりなかったけどな!」ということにしただけなんだろうけど。すると、そもそもそれをする意味がなくなるという。

・マタイは何かというとパリサイ派とサドカイ派の悪口にするらしい。マルコはともかくも直弟子のディスを入れていたが、福音書によって「主にバカにする相手」が決まってるのかもしれない。

・マルコだとイエスは病治しをしながらあっちこっち行って、その都度、なんか言われたら応えたりしてる形だったけど、マタイだとみんながやってきた前で一人座ってなにやら有難い説教をするスタイル(後の教会の反映?)になってる。マタイ5

・ちなみにマタイ5の冒頭は、群衆がやってきたのでイエスは山に登って弟子に教え始めた、と、なんだか群衆を無視したような話になってるが、田川先生いわく、後でイエスは群衆に話を聞かせてたことになってるし、どうも書いてるマタイ本人がマルコを中途半端に参照したために混乱したのだろう、とのこと。

・「幸いだ、乞食の心を持つ者たち」(5-3) 分かるような分からんような文句だが、解説を読む限りでは「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」的なニュアンスらしい(ホントかね?)。パリサイ派、サドカイ派を念頭に置いたアンチと考えてもいいのかしら。なお、ルカでは単に貧乏人を指す。

・山上の説教に入ってから、なんかイエスがえらい偉そうになったな。マルコの時はやぶれかぶれのあんちゃんって感じで好感が持てたのに。

・イエス「律法や預言者を廃棄するために来たんじゃなくて満たすために来たんだよ。律法のどんな小さい掟も無視しちゃダメだよ」(5-17) んー。バリバリのユダヤ教教条主義者に感じるな。そして、これだとまずパウロがアウトな気がするんだが。(ルカは反対に「旧約はヨハネまで」的なことを言っている? 要確認)

・「律法と預言者(旧約聖書)を満たす」は、別にイエス(キリスト教)がユダヤ教を超克するとかじゃなくて、文字通り「100%実現する(パリサイ派もがんばってるけどオレたちはもっとがんばる)」らしい。少なくともマタイ派の建前としてはそうらしい。

・5-21 「殺すなかれ」の件。「神への供え物の前に身内(本当の意味での兄弟か、それともキリスト教内部の意味か?)の関係改善を優先して処理しろ」というのは旧約には見られない発想だと思う。ヤハウェは自分に捧げ物をする人間が周囲と巧くやってるかどうかなんて気にするようなキャラじゃない。

・5-27「女の子をエロイ目で見ただけで姦淫したのと同じなんだからね!」は、どうもマタイの専売特許ではなくユダヤ教では結構普通に言われてたことみたい。ここでの「女」は田川先生は文字通り女一般を指すとしているが、僕には岩波訳の注が言うように「人妻の女」限定の気がする。

・申命記では「女の側に問題があった時だけ離縁状を書いて離縁しろ」とあって、マタイ5-31では「姦淫以外の理由では(離縁状を書いても)離婚禁止」になってる。田川先生は「問題=姦淫なら何の意味もない一節。せっかくイエスが革新的な『理由に関わらず離婚』(マルコはそう)を掲げたのに」と言ってるけど、当時、ユダヤ社会では「問題」が拡大解釈されて、事実上、ある程度、好き勝手に離縁できた状態だったようだから、「姦淫の場合のみ」に離婚の条件を限定したのは一応意味はあるんじゃないかなあ。

・5-33 「神にかけて!とか言って誓うのは一切ヤメロ」 旧約の義人の多くがアウトじゃね? あと、パウロもアウト(コリント第二1-23)。

・田川先生いわく5-33も、イエスが「とにかく一切誓うな!」と言ったのを、「(然り然り、否否と強調して)適切に誓いましょうね」っていう形に変えちゃったらしい。後で(マタイ23~)誓いの話に言及されるし、やっぱりここもマタイ的にはアンチテーゼではないんだそうな。

・マタイ5-38からの有名な「右の頬を打たれたら~」「下着を取ろうとする者には上着も~」は、無抵抗とか憐憫の情とかではなくて、悪人に対する反骨精神らしい。しかし、そうなると「目には目を~」を否定しているのはなんでだろ。

・マタイ5-42に関しては、相手は悪人ではないので、これは普通に慈悲の話らしい。田川先生いわく。

・<メモ>出エジ23の4-5には「敵に対して親切に」という記述がある。

・5-43 「敵を愛せ。なぜなら神は義人だけでなく悪人にも太陽を上らせ雨を降らせるからだ」 これは旧約でもしばしば問題になってた、「なんでヤハウェは悪人を罰さんのん? 義人は割合わなくね?」問題を一回転させたアンサーだなあ。

・「マタイたちは~ユダヤ人のためにも祈ってやりましょう、という意味に変えた。マタイ教団の人たちは、この種の、いわば歯を食いしばって無理をした倫理がお好きである」。ここは普通に良い箇所だと思ったのに田川先生ったらww 「イエスという男」を読まないとここの先生の真意は分かりそうにないな。

・6-14「人の過ちを許してやるなら、天の父もお前の過ちを許してくれるぜ」は一見普通にイイ話のようだけど、キリスト教ドグマ的にはあんまりよくないらしい(神の許しが絶対的なものではなく、条件付きになるから)。ドグマバリバリの略解も「マタイは主の祈りに偏った解釈を与えている」と書いてる。

・マタイ6「施しとか祈りとか断食とかは『やってますよ!』って見せびらかしてやるもんじゃねえぜ」 イエス自身の言葉とは思えないらしいが、アンチ形式主義という精神は一貫してる。とはいえ、マルコによればイエスは断食とかそもそもやってないみたいだけど(もっと過激な躊躇のない形式破壊志向)。

・マタイ6-24にマモンが出てくる。ただし、この時点では単に「富」位の意味で悪魔化するのはまだ後のおはなし。

・マタイは事あるごとに異邦人をバカにしてる(律法学者とパリサイ派もバカにしてるらしい)。

・6-25~の「神がちゃんとやってくれるから食う物着る物にいちいち思い煩うんじゃねえよ」は現実的にはどういう背景の下で語られてるんだろう。宗教的狂信なのか、単なるやけっぱちか、ケセラセラでもなんとかなる風潮があったのか、プチ共産主義だったらしい初期教会だからこそ言える呑気な話なのか。

・マタイ7-6に豚に真珠の元ネタが出てきた。イエス「あなたたちの真珠を豚どもの前に投げ出すな」。これ、本来は「異教徒の豚どもに宣教などするな」って意味らしい。ひでえな。田川先生は異教徒ではなくユダヤ教徒を想定。まあ何にせよ、ひでえな。

・7-12 マタイによればイエスは旧約を「人からして欲しいと思うことはすべて、あなたたちも彼らにせよ」の一言でまとめている。旧約のどこをどう読んだらそういう結論になるんだ……。

・しかし、「人からして欲しいと思うことはすべて、あなたたちも彼らにせよ」を黄金律とか言ってるやつらはどんだけ脳天気なんだろう。かといって論語の「己の欲せざる所は人に施す勿れ」で解決する問題とも思えない(黄金律よりはマシだが)。そんな簡単な原則でアレやコレやが解決したら苦労しねーよ。なお、ユダヤ教ラビの方だと「己の欲せざる所は人に施す勿れ」のニュアンスらしい。それを肯定形に変えてキリスト教が再利用したのか? 

・ともあれこの辺で、「ヤハウェは赦してくれる神」「ヤハウェは与えてくれる神」というニュアンスが強調されてる。マルコではヤハウェのイメージはあんまり改善されてないのに、マタイではかなりのイメージアップが図られている。

・ああ、隣人愛(というか同族愛というか)が律法の最も大事な戒め、というのは当時のユダヤ教で広く普及してたらしい。「旧約をまとめたら例の黄金律になる」ってのはそっから敷衍した話みたい。同族愛に関しては確かに旧約は強調してる(この点はヤハウェの唯一の良識)。

・7-15では「偽預言者に注意しろ」と言っておいて、その見分け方(?)として「善い木は善い実を結ぶ」と言ってるんだけど、これは申命記での偽預言者の見分け方(「あいつの言ってる通りにならなかったら偽物じゃね?」)と同じで何ら利用価値のない判別法だよなー。これじゃ注意しようがない。

・しかし、あれだな。当時の初期教会にしても、いきなり霊を受けて発言する預言者は迷惑な存在だったんだろうな。当時はそれでもまだ預言者を尊重する風習があったから、「ちゃんと見分けましょうね」くらいだったのが、教会権力の確立と共にひでえ扱いになってくんだろうね。

・7-22によれば、どうも終末の時(?)にイエスに拒否られるようなものであっても、当時は悪霊を追い出したり、奇跡を行ったりできたらしい。現代的な感覚からはイマイチ飲み込みにくいけど、当時は神秘が(ヤハウェによるものもそうでないものも)そこらに溢れてたんだろうか。

・しかし、イエスの名で奇跡やら悪霊祓いなんぞをやってたら、イエスから「不法を働く者よ」と叱られるのは意味が分からないな。略解によれば隣人愛がないからだ、ということになってるが、悪霊祓いをしてあげてる時点で愛に基づく行為なんじゃねーの?

・田川先生はこの部分、逆に取っていて、いわゆる「隣人愛」をしてるからイエスが怒る(「偏狭な同族愛」じゃないからイエスが怒る)と理解している……のかもしれない。つまり、マルコがそんだけ偏狭なのだ、と。訳と注には「『宗教とは何か』を読め」くらいしか書いてないのでイマイチ掴めないが。

・んん?? 預言がその通りになったらそれは正しい預言者なんだろ。でも、正しく預言できる人であっても、ヤハウェの意思を行ったことにはならない?? 論理的におかしくないか? いや、実際、ヤハウェは自分の意思に適わないことを預言させたりもするんでアレなんだが。

・8-5 百人隊長、僕の病気治癒のためにイエスの下にお願いに来るなんてずいぶんイイ人だな。僕って奴隷のことっしょ? イエスは「オレを信じるとかえらいな!」って感じだけど、むしろ奴隷の病気治癒のために奔走してることの方がえらいぞ。

・あ、田川先生は僕じゃなくて子にしてる。ヨハネだと息子で、ルカだと奴隷で、マタイだとどっちでも取れるんだ。で、田川先生は子と解釈したと。自分の子どものために奔走してるんなら、ふつうだな。

・病人本人(子)ではなく、仲介者(百人隊長)が信仰を持つことで本人が治癒されるというのは確かマルコでもあったので、どうもそういう感覚は普通にあったっぽい。とはいえ最終的には本人が信仰もたないとダメなんでしょ? よく分からんね。

・マタイになると「群衆に押し寄せられて困っちゃうイエス」の描写がなくなっちゃうな。あと、田川先生によると、イエスの病気治癒からも魔術的な仕草が消えてる?(言葉によって治した、を強調してる? この点は後の記述でも要確認) 弟子へのディスも微妙にフォローしてる。

・8-21はなんだこれ? 岩波注通りに読むなら、「おっとうが死んだので埋葬しにちょっと離れてもいいですか?」「ダメに決まってんだろバカ。てめえのオヤジの埋葬なんざ、(オレに従わねえ)生きる屍であるてめえの家族にやらせときゃいいだろ」となって驚くほどひどいんだが。

・8-29で悪霊が「ちょwww イエスさん、来るのまだ早いっすよwww」って言ってる。マタイには、そのうちイエスが来て世界全体を支配する(と悪霊もいれなくなる?)という認識があったっぽい。

・9-13でまたヤハウェのイメージアップ。だんだん新約のイメージアップの正体が分かってきたぞ。旧約はもともと両義的というか、神学的、社会的にバランスを取ろうと、預言者たちはあえて伝統と反することを言ったりするんだけど、そのクリーンな面だけを取り上げてイメージアップに繋げてるんだ。

・前は断食しろって言ってるのに、9-14からは「断食するな」になってる。イエスは断食の慣習を意図的に破壊したのに、弟子たちがまたやり出しちゃって、しょうがないからイエスが「死んだ後なら断食してね」と言ったことにしたということか?

・マルコだとイエスが奇跡的なことをすると、みんな喜びつつも、「ウギャー!」って感じでビビってもいたんだけど、それがマタイになるとビビってる様子は大体オミットされて(9-20~とか)、イエスがどんどん聖人っぽくなっていく。でも同時にヌミノーゼも消えてくかんじ。

・「彼らはあたかも牧人のいない羊のように疲れ果て、打ち棄てられていたからである」(マタイ9-36) この表現はマルコにもあるんだけど、なんか「オレが導いてやらなきゃダメなんだろ?」的な感じで、イエスがすごく高慢ちきに感じられて好きになれない。なんでこんなこと言われなきゃいけえねえんだ、とイラッとする。

・弟子の派遣に際してはマルコ以上にイエスは酷い。①異邦人には宣教すんな。サマリア人にも ②無一文で行って適当な家に転がり込め ③宣教を受け入れてくれない家や町は裁きの日にソドムやゴモラよりも酷いことになるぜ! マタイ10-5

・そもそも身内以外を排除した上で、さらに言うことを聞かないやつは身内でも呪うという偏狭さの二段構え。つーか、おまえ、善きサマリア人の喩えはどうしたんだよ。なんでナチュラルにサマリア人をスルーしてんだよ。

・キリスト教はユダヤ教と違って、「ユダヤ民族以外も救っちゃう!」点が画期的だったんだけど、とはいえ、それも後の話で、マタイの頃はまだまだユダヤ教の民族主義がしっかり残ってたんだな。「拡張されたユダヤ教」的な感覚だろうか。

・田川先生いわく:マルコの見方「イエスもイエスの派遣した弟子も主目的は病治し」 マタイの見方「イエスとイエスの派遣した弟子の主目的は『神の国』の宣教」

・「お前らきっと迫害されっけど、まあ、全部回り終わる前に裁きの日が来るからさ」ってイエスが慰めてるんだけど、それダメじゃん。宣教終わらないうちに来ちゃったら回心のしようがないじゃない。田川先生はここを慰めではなく、「すぐ裁きの日が来るから異邦人に宣教なんかしてる時間はない」と解釈。10-23

・マタイ注P649で田川先生がプシュケーとプネウマの詳細な解説を書いてくれてるが読んでもよく分からない。プシュケーは「生命」の意味であり、息により生命が保たれるから「息」でもある。プネウマは「空気の動き」。「息」も意味する。プネウマは個々人に属するものではなく、超自然的な力で人間の中に入って影響を及ぼす。聖霊とか悪霊とか(空気の動きは霊によるもの、という考え方があったっぽい)。しかし、人間の生命維持に関する表現でもプネウマは使われる。場面によってはプシュケーとプネウマは同義語になる……らしい。正直よく分からん。

・マタイ10-28は田川先生いわく霊魂不滅が前提ではないらしい。「霊は出ていっても生命は続いてる」という本人たちもよく分かってない状況を想定してるんじゃないかと。田川「新約聖書に限っても、死後の世界について古代人全体に共通する統一的で整合性のある思想などが存在するわけがない」

・10-34で、イエスが「オレは家族間の仲を引き裂きに来た。(オレへの信仰において)最大の敵は家族だ!」って言ってる。あー、こういうことを言うからエホバの証人が家族仲を(ry

・この箇所、「家族」じゃなくて「使用人」という説もあり(田川)

・なんつーか、マタイの描くイエスは「大義のためなら小事を犠牲にしても構わん」的な、すごいイヤな感じのキャラクターになってんなー。こういうのってノリ切れたら、「ウオー、オレも犠牲にするぜー!」ってなるんだろうけど、外部から見ると、ちょっと、ねぇ……。

・ん。マタイ11-2で「イエス=キリスト」を前提にした記述が出てきて、田川先生は「マルコの時代になるとキリストがイエスの別名として用いられるようになった証拠」とあるけど、でもマルコ9-41の「キリストの者」も同じ意味合いなんじゃなかろうか?(マルコの成立の方がマタイより早い) ということは、マルコにもイエスがキリストであるという感覚はあった??

・まあ、おそらく(マタイ的には)イエスがキリストだということを言いたいのだろうけど、ヨハネの質問に対して、11-5~6の答えは「キリストです」という回答にはなってないと思うんだが。むしろ、「単なる治癒能力者ですよ」「ちょっと奇跡使えますよ」くらいの謙遜にも読める。

・マタイ11-12は田川先生によると、「神の国を自分たちの宗教思想、終末思想のために好き勝手に使ってる洗礼者ヨハネなどに対するイエスの批判」と解してる。イエスは「神の国」運動に関しては常に冷めて皮肉を言ってる、という考え。田川先生の読み解くマルコだとまさにこういうキャラになるね。

・マタイ11-13「旧約聖書の預言はヨハネまで」。これ、そのまま読むなら、今まで必死に「イエスの出現は旧約にも預言されてたんだー」って言ってきたのが全部無駄になるね。田川先生は「預言活動はヨハネの時代まで」と解釈。おまけに「マタイ自身あまり厳密に考えて記したとは思えない」。(意味的には「旧約が絶対的権威な時代は終わった」)

・マタイ11-20ではイエスが「あんだけ奇跡を見せてやっても信じねーとか、お前ら裁きの日にはとんでもねー目に遭うからな、クソッタレがー」みたいな呪いを吐いている。イエスはほんとマタイでどんどんイヤなやつになっていくな。

・マタイのイエス:①人を集めて偉そうに説教をする ②家族を犠牲にしてでもオレに付いてこい、と人情味のない事を言う ③自分に従わないやつには呪いを吐く

・しかし、11-20なんかはイエスの言葉じゃなくて初期教会のやつらの創作なんだろうから(田川先生ばかりか略解でもそう言ってる)、イエスも変なことを勝手に言ったことにされて、2000年後のオッサンに「イエスはひでーやつだなー」とか言われるんだからホント迷惑な話だよな。

・マタイ11-27だと、はっきりイエスが「オレは父の子(神の子)」って言ってるなー。で、神から全権委任された、という内容にもなってる。マタイ的にはイエスはこうだったんだろう。(だからあんなに偉そうなのか)

・前にイエスは「律法は完璧に守れ」って言ってたくせに、12-1では安息日規定を破った上で、律法の細かいところを引き合いに出して、かなり強弁して自分たちの律法違反を正当化してる。(まあこれは、そもそもイエスが「律法を完璧に守れ」って言った方が創作なんだろうけど)

・元々は安息日に麦を摘んで食ってたらパリサイ派にぐちぐち言ってきたので、「うるせー、安息日はお休みのための日だろーが」とイエスがキレただけの話なんだろうけど、それを後の人が旧約に依拠してアレコレ付け加えた結果、旧約を知らない現代人から見るとむしろかえって説得力が失われたという感じ。

・田川「もしもイエスが~マタイのこの付加的挿入のような律法解釈議論をしていたのであったら、ちょっとすぐれたラビの一人ぐらいに思われて彼らに尊敬されるだけですんでいただろう」。これは面白い意見。マルコだとイエスはブチギレて直裁に慣習破壊的な発言をするんだけど、マタイではラビ的律法解釈をやって、既存の慣習の中で「より適切な変更を加える」程度のスタイル。で、田川先生いわく、後者なら普通に尊敬されて終わりなんじゃねーの?と。つまり、マルコが描くみたいにイエスは理不尽な慣習に対してもっとストレートにブチギレる人だったんじゃないか、ということか。

・マタイ12-15~21はパッと読んでも意味が分からないし、引用元のイザヤを読んでもイザヤの言ってる意味が分からないし、さらにマタイが何を考えてそれをここで引用したのかも分からなくて、三重に意味不明でなんだかもうげっそり。

・田川「この引用はこの段落の話とほぼまったく無関係である」 ぐあああああ、真面目に考えても分かるわけがなかった! ムカつく! マタイ、ムカつく!!

・12-28によると、イエスの存命時に既に神の国は地上に実現してたことになる。田川先生はこれを「病気が治ったなんて大したことじゃん。神の国がどんなもんかしらねーけど、もうこれ神の国みたいなもんじゃね?」的な神の国運動に対する皮肉と解釈してるけど、ここの説得力は……どうだろう?w

・イエス「オレと一緒にいないヤツは敵だ」(マタイ12-30) マルコ9-38だと「オレに従わなくても、逆らわないやつは、まあ味方みたいなモンよ」って言ってたのに党派意識バリバリになっちゃった。

・マタイ12-43の意味もさっぱり分からんのだが、やはり田川先生によると「当時流行ってた格言がイエスの言葉ってことにされたんだろう」。シェイクスピアいわく、みたいなものか。こういうのをキリスト教徒は前後の文脈から判断して必死に意味を読み込むんだよな。まあ、適当に入れられたなんて普通思わないもんね。僕だって最初は意味を読み解こうとがんばるもん。しかし、キリスト教徒の信仰的態度としてはそれで全く問題ないと思うけど、僕みたいに部外者が読む場合は厄介なことこの上ないなあ。必死に考えても「実は特に意味はない」だもんな……。

・ちなみにマタイ12-45の田川先生の解説は「おそらくマタイもイエスがこの語録で何を言いたいのか理解できなくて、何とか教訓ぽくしようと『この邪悪世代にとっても事情は同じである』と付け加えたんじゃね?」。そうだとしたら、実際にみんな教訓っぽく理解しようと頑張ってんだから大成功だよな。

・イエスが頭おかしくなったんだと思って家族が保護しに来て、イエスが「あんなんうちの母ちゃんじゃないやい」のシーンは、マタイだと「頭がおかしくなって」の部分が消えてる。そんで略解はここを解説して、「肉親の情に拘束されず~」。前提を消すだけでこうも意味合いが変わってくるんだね。12-46

・マタイ13の種を撒く人の喩えはマルコの記述でも十分にイエスがうざかったが、弟子批判的なニュアンスが消えたことにより、マタイのイエスは一段とうざい。「なんで喩えで話すかって? バカどもが分かんねーようにしてんだよ!!」(マルコだと「お前ら弟子もバカだけどな!」が続く)

・一方、次の毒麦の喩え(13-24)は略解によると「毒麦でも回心するかもしれないから刈り入れの時までは見守りましょうね」と解せて、これはこれで説得力があるんだけど、さっきの「バカに分からねーようにしてんだよ!」と全く整合性が取れない。もっとも整合性を期待するのがそもそも間違いなのか。

・略解が言うように果たして毒麦の喩えは寛容の教えなんだろうか……。毒麦の種が毒麦として芽を出して、時間を与えられたからといって、それが良い麦になるんだろうか??

・マタイ13-34は一転して、「喩えで説くのは、今まで隠されてたことを明らかにするためだよ」になって、「バカに分かんねーように喩えで語ってんだ」と矛盾する。田川先生は「参照した記事を矛盾しようとしまいと並列するマタイの編集者精神」と解説。あまりにイエスがうざいのでバランスを取ろうとしてくれた、と考えたいところだけど。

・「直弟子たちはイエスのことを全然理解できていませんでした」で終わってたマルコの海上歩行奇跡に比べて、マタイでは「まことにあなたは神の子です」で終わってる。マタイ14-33

・マタイ16-5の下りも、マルコだと「このばかたれが」とイエスが弟子をなじって終わってるのに、マタイだと弟子たちがちゃんと理解したことになってる。ホントにマタイは弟子のイメージアップをきっちりやってるなー。せっかくマルコががんばってイメージダウンを狙ったのにw

・「お前たちはオレのことなんて言ってんの?」「はい、キリストだと!」「そういうアホなことはもう言うなよ」(マルコ)が、マタイだと「はい、キリストだと!」「えらい! シモンえらい! お前もペテロって呼んであげる!」になってる。マタイはやりたい放題だなー。16-13

・正統派キリスト教会はマタイ福音書を絶対的権威として、こんな感じでマルコとまるで反対であっても、マタイの方が正しいことにしたらしい。マタイが福音書の中で一番最初に置かれてるのもそのせいなんかね。(イエスの直弟子が書いたと信じられていたから)

・マタイ16-23ではペテロをサタン呼ばわり。珍しくここはフォローなし。しかし、ついさっきペテロに対し、「お前が地上で下す正誤判断は天上でもその通りだよ!(お前の正誤判断は間違いないよ)」って言ってたのにね。じゃなくて田川説の「教会から追放する権利を持ってるよ」くらいの意味か? ちなみに「お前の地上で下す正誤判断は~」(マタイ16-19)が教皇無謬説の根拠らしい。

・イエスの税金の収め方は「海へ行く」→「釣りをする」→「魚を釣る」→「魚の口の中にカネが入ってる」→「収める」らしい。いいなあ。オレもこれで区民税収めたいよ。

・田川先生によると、「イエスが神殿税を払わなくて周りからけしからんって言われたから、『神の子だから神殿に税金払う必要ないもん』と弁明しながらも、『でも、実はちゃんと払ってたんですよ!』って言い訳しようとしたらこんな変な話ができた」とのこと。

・岩の上に教会をうんぬん~、という箇所で頭の中に疑問符が渦巻いていたが、やっぱりマタイ福音書で「教会」が出てくるのは時代錯誤ってことでいいらしい。イエスの生きてた時代に教会があるわけないもんな。「召しだされた者たちの群れ」くらいのニュアンスかと思ったけど群れを建てるってのも変だし。

・イエス「教会の言うことを聞かないやつは、あなたにとって異邦人および徴税人のようになるように(絶交しろ、くらいの意味)」。ちょっと前には取税人と一緒にごはん食べてたのにね。 マタイ18-17

・「教会の兄弟が私に罪を犯した場合、何度まで赦すべきですか?」「無限に許せ」。おまえさっき絶交しろって言ってたじゃん! 18-21

・マタイ19-10~はカトリックの神父が独身となる根拠の箇所だけど、普通に読むとよく意味が分からないな……。「独身の方がいい」とも、確かに読めなくもない……。現実に独身の神父さんの学者は時間と金を研究に費やせるらしいので、「結婚しない方がいいよ」というのも頷ける文脈ではある……?

・19-28でまた弟子をフォロー。

・ヤコブとヨハネが抜け駆けして、「神の王国では俺たちをトップ2と3にして下さいよ」っていうシーンは、マタイだとヤコブとヨハネのお母さんが言い出したことになってる。マタイとしてはお母さんに責任を着せるつもりなんだろうけど、今の視点から見るとなんだかマザコンっぽく見える。20-20

・「もしイエスが自分の権威は神に由来すると言えば、それは直ちに神を冒涜する言葉となりイエスを逮捕することが可能となる」って略解ではさらっと書いてるけど、本当に当時これが神の冒涜になったの?? それって預言者と何が違うの??

・マタイ22-1の盛大な婚礼の譬:「王が婚礼を催し招待客を招く」→「来ない上にメッセンジャーが殺される」→「王が怒ってブチ殺す」→「そこら辺のやつを集める」→「服装がなってないので追い出す」。ここでの王は神の比喩なんだけど、神の無制限の愛なんて微塵も感じないぜ。マタイの言いたいことは理解できるけど、話としては王の偏狭さばかりが目立つ。

・つーか、キリスト教になって若干ヤハウェの性格が改善されたとしてもだ。「無制限の愛」なんてものは新約においても全く見られないんだが(制限付きの愛は見られる)、これは今後新約の中に出てくるんかね?

・マタイ22-41でも「キリストはダビデの子じゃねーぜ」って言ってるな。冒頭であんだけ「イエスはダビデの子孫なんですー」って強調してたのに。略解ではこれに対して解説を入れてくれてて、「ダビデの子だけじゃなくて神の子でもあることを示唆」とのこと。まあマタイ的には実際そうなんだろうな。

・マタイ23-13からの律法学者とパリサイ派批判はひでえな。あまり具体的な批判点もなく、とにかく彼らの存在を全否定したい感じ。

・福音が世界中にちゃんと伝わったら終末が来るよー、の根拠となってるマタイ24-14はマルコでは別にそういうことにはなってない(「まあとにかく福音がんばれや」くらい)。ちなみにエホバの証人が一生懸命戸別訪問してるのはここのマタイの下りに関係する。

・マタイはパリサイ派(外部)も大嫌いだけど、どうも身内(キリスト教徒)の一部も嫌いらしい。嫌いというか、ちゃんとやってないと思ってるというか。一世紀末頃のキリスト教会も十分ごたごたしてたんだろうな。

・25-1「賢い乙女と愚かな乙女が灯火を持って花婿を待ってる」→「花婿が遅れてしまい、愚かな乙女は油を忘れてたので困ってしまった」→「賢い乙女の皆さん、油を分けてくれませんか?」→「足りなくなるわ。買ってくればいいじゃない」→「買いに行くとその間に花婿が来ちゃって閉めだされる」

・だからさー。比喩で言いたいことは分かるんだけど、比喩の話自体は非人情すぎじゃね? 日本人の民族性としてはこういう「賢い乙女」を受け入れ難いと思うんだけど、一般的にはどうなんだろう?(自分が足りなくなってもできるだけ油を分けてあげる子の方が日本人的には好かれるんじゃね?)

・25-14の喩えは意味分かんねえな。主人がいない間に財テク(?)して財産を増やしておいた僕は誉められて、そのまま財産をキープしてた僕は「両替屋に預けておけば利子が得られたのによ~」って怒って放逐する話。そもそも主人が何を思ってカネを僕に預けたのかからよく分からん。

・田川先生的にはここの箇所は「おそらくイエスは古代資本主義社会のむごい現実をたんたんと指摘しただけだったが、マタイが信者の信仰生活に対する比喩と解した」とのこと。にしてもよく分からん。ここで預かった大金というのは何を意味しているんだ??

・財テクが宣教努力のことで、元となる軍資金はマタイ教会の教えってことかなあ。「軍資金を預かったなら勇気を出して財テクしなさい」=「教えを受けたなら、勇気を出して布教活動しなさい」くらい……? 教えを受けただけで布教活動しないやつはカスだという意味か??

・ゲツセマネの祈りって、イエスがペトロとヤコブとヨハネだけを連れて行って、その弟子三人はグースカ眠ってたんだから、イエスが祈ったとか苦しんだとかいったい誰が伝えたんだ?? マタイ26-36

・マルコだとまだ「ユダめ、あんちくしょー」というニュアンスだったのが、マタイになると「これも計画通り!」な感じになってる。計画通りならやっぱりユダを責める道理はない気がするんだけど、まあそういうのはあんまり気にしないのかね。25-47

・26-63「お前は神の子キリストなの?」「いや、それはお前が言ったことだろ」「冒涜だ! 死刑だ!」の意味がさっぱり分からんかったんだけど、略解でも「これは疑問」「信憑性が乏しい」とのこと。どうもこれは「よく分からん流れ」でいいらしい。

・マタイ27と使徒行伝1でユダの死に様がぜんぜん違う。田川先生いわく、ユダの死をなんとか旧約の予言と結びつけようと、各人が勝手にこじつけた結果、こんなことになったんじゃないかとのこと。

・次はエレミヤの預言とゼカリアの預言をマタイが間違えてる。ここまでミスや矛盾が普通にわんさか出てくるのに、聖書に間違いはないとか信じれる一部のキリスト教徒のメンタリティは一周回ってスゴイな。27-9

・マタイの定形引用をまじめに考えようとすると頭が痛くなってくる。

・イエスの死んだ瞬間は、マルコだと神殿の幕が裂けただけなのに、マタイだと岩々も裂けるわ、聖人がゾンビ化して歩きまわるわ(この時点の聖人って誰だよ)、なんだか色々と派手になってる。27-511

・マタイによれば、イエスの死後、パリサイ派が「イエスの弟子どもが死体を盗みだして復活したと騒ぎ立てるかもしれないから墓に見張りを立てましょうよ」って言ったことになってる。マタイはほんとくだらねーことをするなー。ウソでないことを証明するためにウソをつくとかホントどうしょうもねえや。

・マルコでは、イエスの死体が消えてたことを知って、おっかさんやマリアが「ギャー!」って叫んで震えて終わったのが、マタイだとちゃんと喜んで弟子に伝えて、弟子が復活したイエスと再会したことになってる。まあ、マルコの終わり方だとアレだもんなw 28-16

・マタイのイエス:イエスは神の子でありキリストであり、その出現は旧約の時代から預言されている。人を集めて偉そうに説教を垂れるいわゆる「聖人」っぽい人間で、律法は完璧に守るように言うが、一方でそんなに厳格に守らない。理想主義的なところがあり自他共に厳しく、家庭を犠牲にしても信仰に生きろなどと非人情なことを平気で言う。「神からの見返り」を説き、逆に従わない者は脅しつけ呪いを吐く。加えて民族主義なところもあり差別的発言が目立つ。アンチユダヤ教だけどユダヤ教の延長上(その範囲内にいるから反対する、的な)。ただ、マルコを写してるとこもあるので、とんちものだとか、弟子に厳しいとかは同じ部分もある。

・マルコのイエスが、無鉄砲で破れかぶれで、でも根は真面目で好感の持てるあんちゃんだったのに対し、マタイのイエスは真面目くさって聖人づらしたいけすかねえやつで、新興宗教の教祖に感じる嫌なイメージばかりが強調されたようなキャラ。「オレはえらい」と思ってて平気で人に非現実的な要求を突きつける、なんというか連合赤軍みたいな危うさがある。ヒロイックに酔って身内を扇動して集団自殺とかやらかしそう。ユダヤ教の「外部のやつはみんな死ね」「身内もだいたい死ね」って感じの延長上にも思える。

・やっぱ新興宗教の教祖って気持ちワリィんだな、という結論。


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