旧約聖書、歴史書の感想(ツイッターより転載)。読んだ本はこれ。
旧約聖書〈3〉預言書―イザヤ書・エレミヤ書・エゼキエル書・十二小預言書 | |
旧約聖書翻訳委員会 岩波書店 2005-04-26 売り上げランキング : 462951 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
イザヤ書
・イザヤさんはバリバリ未来予知したことで有名な預言者。エホバの証人の人とかは「ね! 聖書ってすごいでしょ!」ってイザヤ書を見てキャッキャするんだけど、学問的には「未来のことが書いてあるんだから、起こった後に昔書いたフリして書き足したんだろ」って言われてる。
・善行を伴わない犠牲祭儀一般が否定されてる(イザ1-13)。旧約のターニングポイントって感じだな。ま、といっても、ヤハウェの示す(現代にも通じる)善行なんてのは共同体内での弱者救済だけなんだが。イザヤも1章で具体的に言及してるのはその部分だけだな。
・終わりの日々って言葉が出てきた(イザ2)。旧約で終末論的なニュアンスが出てきたのはここが初めてじゃなかろうか(初期のユダヤ教には最後の審判的な観念はなかったらしい)。注によれば「全部終わる」的な終末ではなく、新しい時代へのターニングポイントというニュアンスらしい。
・終わりの日が来たら(新しい世界のスタート)、「戦いについて二度と学ぶことはしない」世界になるらしい(イザ2)。ここ、エホバの証人が剣道の授業をやらない根拠だったな、確か。今まではヤハウェがやれっつーから戦争してきたわけだけど、みんなヤハウェに従えば確かに戦わせる理由はなくなるな。
・といっても、これは「ヒットラーが世界を征服して、皆がヒットラーに従えば戦争はなくなる」と、理屈的には同じだと思うが。
・それでもまあ、一つのイデオロギーに完全に全員が染まりきれば平和、ってのは確かにそうなんだろうなあ。感覚的にはなんとなくイヤだけれど、本当に完璧にそうなったら、それはそれで生きていくのは楽そうだ。メガテンのLAWルートですなー。
・そういえば、なんでユダヤ教では占いを敵視してるんだろう。そのくせ自分たちは神託と言ってクジ引いたりするんだよな。やってる事自体はあまり変わらない。なんだろう、霊的な支配権力が分散するのをユダヤの祭司たちが恐れたんだろうか?
・ん、メシア思想が出てきたぞ(イザ4)。メシア思想もここが初出だろうか? 終末観とメシア思想はセットなのかもしれない。
・イザ5はヤハウェとイスラエル人の関係を、夫と妻(葡萄園)に喩えて、「おいしい葡萄が実るのを待ち望んだのに葡萄が腐ったー。なぜなんだー」とかヤハウェが言ってるけど、そりゃお前がDV夫だったからだろーがと思わずにいられない。
・「ヤハウェはイスラエル人に義を望んでた」とか言うから、そういや義って何なんだろーと巻末の用語解説を見たら、「行為や態度がヤハウェの意志に沿ってることを表す語」で、正義とは「義に基づく行為」らしい。ヤハウェ基準かよ……。じゃあ、義の神ヤハウェってのは「オレが基準」って意味なのかな。
・そもそも「義」と訳すことが適切かどうか難しいらしい。日本語で義というと儒教の「人として守るべき正しい道」となるけど、ヤハウェの意志は一般にイメージされる「人として守るべき正しい道」とは頻繁に外れるからなあ。「捕虜を解放するんじゃねー! 皆殺しにしろ!」とか。
・神の審判の結果として黄泉に落ちていく、という記述があるが、どうもよく分からないな……。この時点での「黄泉」はおそらく地獄とは別物なんだろうけど、単に「死ぬ」というだけの意味なんだろうか。古い注釈書では、地獄ではないものの死者が住まう物理的空間のように解説しているが。
・藤原聖子先生の解説によると、やはり黄泉(初期ユダヤ教の死後の世界)も物理的空間ではあるらしく、(ヤハウェからエネルギーを与えられた人間が)エネルギー切れの状態で存在している、というニュアンスらしい。黄泉について詳しい説明がないのは「ユダヤ人が死後の世界に興味がなかったから」だと。
・ちなみにエホバの証人の人の他界観は微妙に初期ユダヤ教に沿ってて、ヤハウェを信じずに死んだ人間は、この黄泉に行って「神から忘れられる」という認識を持っているらしい。少なくともこの点に関しては、正統信仰よりも聖書に忠実だと思う。
・死後はエネルギー切れでボンヤリ→天国or地獄行き、に死後観が変わったのは、ゾロアスター教に感化されたか、もしくは民族単位(連帯責任)で救済を待ち望んでたのが、個人責任に変化した(「なんであいつのせいでオレまで」)という辺りで学問的には説明されてるようだ。
・ええっ!? セラフィムってサーラーフ(蛇)の複数形なの!!? 蛇の胴体に人間の顔、六枚の翼を持ち、二枚で顔を、二枚でちんこ(足)を隠して、残り二枚で飛んでるだって?? ああああ、ファンタジー世界のレギュラーキャラ、セラフがまさかこんな存在だったなんてー。
・「行け、そしてこの民に語れ、『お前たち、繰り返し聞け、だが理解してはならない。お前たち、繰り返し見よ。だが認識してはならない』、と」。ヤハウェさんの頑迷預言カッケー! 内容はヒデエもんだけど!
・先の頑迷預言は、ヤハウェが預言者に「お前、行って民に説教してこいよ。ただ、お前の説教は逆効果だけどな!」って言ってる内容。実際的には預言者が何を言っても民が言うことを聞かなかったことを指してるんだろう。で、イザヤは「頑張ったのに神の思惑通り逆効果だった……」ってガッカリするんだ。
・ヤハウェ「おいユダ王国、いいか、お前ら、オレのこと信頼しろよ。じゃねーと、オレもお前らのこと信頼できねーからな。いいか、今からオレの言う事をちゃんと信頼しろよ。いいか!……お前らはもう少ししたらアッシリアに滅ぼされる!」 信頼してどうなるんだよwww (イザ7)
・イザヤ書は何が言いたいのかよく分かんねえなあ。「その日、主はアッシリアの王と剃毛プレイをするだろう」とか出てくるんだけど、こんなの説明ないと分かんねえよ。どうもちんこの毛やヒゲを剃ったりするのは捕虜の受ける屈辱的行為だったらしい。
・マリアの処女懐胎伝説はどうもマタイ福音書筆者の勘違い(?)らしい。元々ヘブライ語で「若い女が身ごもる」とあったのをギリシャ語訳(七十人訳)の際に「処女」と訳しちゃって、そこを引っ張ったみたい。そっから逆にイエスが処女から生まれた伝説を作っちゃったんだろうな。
・だから、イエスは処女から生まれなくても、若い女から生まれただけでイザヤ書の預言は成就してたっていうw ちなみに新世界訳はイザヤの方は「乙女」、マタイの方は「処女」と訳してる。まあ、そのまま訳せばそうなるんだから非常に潔い翻訳だと思う。
・基本的に今までイスラエルしか保護する気なかったヤハウェが、エジプトやアッシリアも祝福するとか言い出してる(イザ19-25)。今の流れは「とにかくアッシリアぶっ潰す、その他近隣諸国もぶっ潰す」って感じだったのに突然どうしたんだろう…。ユダヤ教が外部にまで救いを広げ始めた瞬間なのか?
・イザヤ「おい、シェブナ、てめー、どこに墓作ってんだ。そこは貴族用の墓地だろーが。てめーみてーな成り上がり者が作ってんじゃねー、没落して死ね!」。イザヤは王様が現実的外交をしてたら、「そんなことしてねーでヤハウェに祈れ」とか言うし、その場にいたらスゲーウザイ人なんじゃなかろうか。
・イザヤは現実の見えてない狂信的なヤハウェ崇拝者で、民族主義的でもあり、なかなかロクでもない人物に思えてきたぞう。シェブナの件だって、「貴族の墓地に成り上がり者が墓を作るな」とか料簡が狭すぎるだろう。この場所が何か宗教的な意味を持ってたのかもしれないけど、旧約からは読み取れない。
・「ツロは再びその娼婦の値を取り戻し、土地の表にある地の全ての国々と淫行を行うであろう」(イザ23-17)。なんで海上貿易のことをこんな嫌らしい言い方すんだよ。どこのDMCだ。ちなみにその上がりはイスラエル人の手に渡ることになるらしい。娼婦の元締めじゃねーか。
・イザヤ黙示録があまりにも意味分からんので注釈書を見てみたら、「意味不明」と書かれていた……。
・他の注釈書を見たら、「難解である」とだけ書かれていた……。難解なことは分かってるよ……。
・ちなみにさっぱり分からんのはイザヤ24-16。最後の審判の後、生き残った(?)者たちがヤハウェを賛美する一方で、イザヤが(ヤハウェを裏切って)滅んでいったものたちのことを悲しんでいる……という意味なのかなぁ?
・どうもイザヤ辺りから、ヤハウェが永遠の生命をくれる、という思想が出てきたみたい。復活じゃなくて生き続ける(イザ25-8)。あと、ヤハウェが強国を抑えて弱者を助けるという感覚もあったらしい(嵐からの避け所、暑さをしのぐ蔭)。どうも僕などにはヤハウェ自身が嵐のような感覚なのだけど。
・あれ? 今度は死者が復活するとか言ってる……(イザ26-16) これが比喩表現(捕囚後の国家再生)なのか、文字通りに取るべきなのかも分からんな。後の人はこれを文字通りに取ったんだろうけど、この時点での死後の復活観念はどうだったんだろう。
・ヤハウェの言う「義」ってのは「オレ基準」って意味なんだけど、じゃあ、ヤハウェの言う「公正」ってのはなんなんだ、と思ってたら、どうも「ヤハウェに背く人間をブチのめすこと」、もしくは「正義」=「義」のことらしい……。
・「義と公正の神」=「オレ基準でオレに逆らうやつをブチのめす神」か……。まあ、それはそれでいいんだけど、前者から受けるイメージとの乖離が甚だしいな。だが、考えてみれば、法律と警察のような関係なのかもしれん。ヤハウェは暴力装置!
・ヤハウェ「エジプトと手を結ぶのはやーめろって。エジプトまじ頼りになんねえから。ホントだって。アッシリアはオレがなんとかしてやっから、オレのことだけ崇拝しとけって。えっ? なんでエジプトが役に立たないかって? そりゃお前らがエジプトと手を結んだら、オレがエジプトをぶち殺すからだよ」
・イスラエル人のために客観的アドバイスをしているのかと思ったら、決してそういうことではなかったwww お前が原因かwwwww(イザ31)
・ヤハウェは血で満たされた剣を持って、血に酔ってエドムの地で殺戮を行うらしい。完全に破壊神のイメージだなぁ。しかも、謎なのがエドムを滅ぼした後に獣やリリト(異教の女のデーモンか?)にその土地を永久に上げちゃうんだって。獣はともかく異教の超常存在に上げちゃっていいのかな。(イザ34)
・イザヤ34-14の「夜の魔女(リリト)」が、ファンタジー世界ではおなじみのリリスのことであり、リリスが唯一言及されている場所らしい(死海文書には言及があるらしいが)。明けの明星といい、リリスといい、イザヤ書にはファンタジー界の大物がたくさん出てくるね。
・訳注に「この部分を文字通りに取ると通説と合致しなくなるので、書いた人が何も考えてなかったと取るのが妥当であろう」って書かれてるw(イザ38-1)
・ヤハウェがイスラエル人に「助けてやるぞ」「愛してるぞ」「この虫けらども!」って言ってる。なにこの言葉責め(イザ41-14)。ヤハウェの言葉かイザヤの言葉か微妙だけど、どちらにせよヤハウェの前では自分たちは「虫けら」という感覚があったらしい。「塵」の方はよく出てくるんだけど。
・ヤハウェ「わたしは古から沈黙していた。黙って自分を抑えていた」(イザ42-14)。えええ、あれだけ好き勝手やっときながら何をおっしゃるww
・いまさらだけど、「ヤハウェはイスラエルを救う」と第二イザヤでも強調されてるが、救われなければやってられないような困難な状況に貶めたのも、やっぱりヤハウェのせいなんだよなー。ヤハウェが最初から関わらなきゃそれなりに平和でそれなりに豊かに暮らせるんじゃなかろうかと思わざるをえない。
・ちょww イザヤ書の預言外れんのかよ。43-3の身代金の下りが事実と異なるらしい。大体が事後預言だってのに、普通に預言したら外れるのか……。いや、まあ当然っちゃ当然なんだけど。
・しかし、イザヤ第二になるとヤハウェが「愛してる」っていうことが多くなってきたな。今までは基本的に「オレを愛せ」「愛さないと殺す」だったのが、「愛してる」「オレを愛して」「愛さないなら殺す」「ウソだよ、半殺しで止めるよ、愛してるよ」くらいに軟化してる。
・ヤハウェがイスラエル人をバビロンの捕囚にする→今まで通りの祭儀ができなくなる→祭儀をできないことをヤハウェが許してあげる、とかも出てきた。これまでのヤハウェを考えれば、「(自分で祭儀ができない状況にしたにも関わらず)ブチギレて殺す」くらいしそうなのにかなり丸くなってる。
・「わたしは初めであり、わたしは終りである」とかも言い出した(イザ44-6)。すげー唯一神っぽい。何気に今までの流れでは、あんまり唯一神っぽいこと言わなかったんだよな。他の神をディスってるだけで、自分がナンバーワンだと主張してもオンリーワンという印象は薄かった。
・ふと思ったんだけど、ヤハウェの偶像批判って、(神がいないとすれば)空想を具現化したかしないかだけであって、別に作らないからホンモノってわけでもエライわけでもねえよなあ。神学的にはまあ色々言えるんだろうけど、なんかズレてる気がする。巧く言えないんだけど。
・ペルシア王キュロスがメシア扱いされてる。一般のイメージとは異なり、メシアはイエスに限定されず、終末論的救世主にも限定されず、現実の王(ヤハウェが遣わした)辺りを指すのでこういうこともあるんだけど、非イスラエル民族でもメシアになれんだな。
・「ヤハウェさんのやり方に文句付けるんじゃねー」的な箇所があるので、やっぱりイスラエル人の中には「なんで異国の王(キュロス)に助けられなきゃなんねえんだよ、もっとマシな方法はねえのかよ」っていう人もいたみたい。そりゃまあそうだよな。今までの流れからして意味わかんねえもんな。
・キュロスに解放されたって、バビロニアに代わってペルシアの属国になるだけなんだから、そりゃあ、「ペルシア王がメシアなんだよ! キュロス王が救ってくれるんだよ!」って第二イザヤが言ってもハァ?って感じだよな。理想と現実とのせめぎ合いを感じる。
・ヤハウェが「偶像なんか結局お前たちを救ってくれねえんだぜ、オレならお前たちを救ってやるのによー」って言ってるけど、うん、確かに偶像は人を救わないだろうが、ヤハウェみたいに人を害したりもしないよね、って思う。(イザ46)
・ヤハウェが「バビロニアに復讐する」とか言ってるけど、復讐も何もバビロニアを操ってたのお前だろ、って思ったらどうも、「イスラエルがムカつくから、てめーにボコらせたけどよ~。オメー、やりすぎなんだよ、憐れみがねえんだよ。ブッ殺すぞ」ということらしい。マジかかわりたくねえ……。
・少なくとも第二イザヤによれば、ヤハウェがこれまでイスラエル人にブチギレながらも皆殺しまではしなかったのは、「てめーらと契約した手前、皆殺しにしたらオレの面目丸潰れだからな!」ってことらしい。モーセも巧くここを突いてたし、ヤハウェ攻略の最大のポイントなのかもしれん。(イザ48-9)
・49-4でイザヤが「私の預言活動は無駄だったー」とか言ってるのは、イザヤ「ペルシアのキュロス王がオレたちのメシアだー!」→キュロス「いや、おれ、普通にマルドゥク神を崇拝してるけど……」→イザヤ「ペッ!」っていう背景があったらしい。イザヤ書の預言、外れまくりだなー。
・さっきは、「てめーらを皆殺しにしねーのは、オレの名誉のためだー」とか言ってたヤハウェが、「乳飲み子を忘れる母がいようか。わたしもお前たちを忘れることはない」とか言い出してる。どっちなんだよ、お前。それとも「名誉のために忘れない」ということで両立してるのだろうか。(イザ49)
・イザヤ52-13から始まる「第四の僕の詩」は今の知識から見たら、確かにイエス預言にしか見えねーな。まあ、実際は初期キリスト教会が、ここを見てイエスの死を解釈したんだろうけど。後代の解釈はどうでもいいとして、じゃあ、何を思って当時これを書いたのか、だけど、僕はイスラエル全体、特定個人(第二イザヤ?)、メシアなどと解されているらしい。イエスの十字架→贖罪の流れの、「イエス」の部分を置き換えるのね。「イスラエル全体」と置き換えた場合は、「バビロニアにフルボッコにされたけど、解放後はがんばるぜ」になって、メシアと解した場合は、第二イザヤの「オレもボコボコにされたし、きっとメシアもボコボコにされるけど、メシアならやってくれるはずだぜ!」になって(ここの僕の解釈怪しい)、総合して解する場合は、「本来はメシアを指してたけど、第二イザヤの弟子が『第二イザヤとイスラエル全体』をイメージして」編集した、と考えたりするらしい。
・まとめると、「イエスの登場と十字架の贖罪が預言されてるかに見えるイザヤ53は、本来は『メシアの登場』か、『イスラエル全体のバビロニアからの解放』の内容だったと思われる。個人と見た場合は『第二イザヤ』を指すのかもしれない」。うーん、ここは注釈書の情報量だけではちと厳しいなー。
・「見よ、攻撃を仕掛ける者があっても、それは、私から出たことではない」(イザ54-15) これまでは外敵に襲われてロクでもない目に遭うのは常にヤハウェのせいだったんだけど、バビロン捕囚解放後はそうではなくなるらしい。(ヤハウェ、すぐに忘れて敵を差し向けそうな予感がするが……)
・イザヤ55-11の「わが口から出るわが言葉も、わがもとに空しく帰って来ることはない。必ず、わたしの望む事をなし、わたしの言い送った事を成し遂げる」もヨハネ1と合わせてイエス預言と考えられるんだろうな。
・これ、クリスチャンが読んだら、「やっぱり聖書は神の言葉なんだー。全て預言されてたんだー」って思っても不思議はないなあ。よく出来てる。僕でさえちょっとそんな気分にとらわれるもん。
・ゲゲーッ! まじすか!!? なにおれクリスチャンでもないのに深読みして感心してんの! めっちゃはっずかしー!!!! ご指摘ありがとうございます……。 RT @shinobuyoshi:日本語で見れば同じ「言葉」ですが、ギリシャ語で見れば違うので、イエス預言とは考えにくいかと。
・第二イザヤ終了。結びの一章はヤハウェの救いが永続的なものになることを示してるらしい。これまでの救いは刹那的というか、「戦争に勝たせてやろう」とかだったのが、永続的になるらしいんだけど、読んでる限りではあんま分からんね。「僕」の活躍により永続的なものになると読めるらしい。
・さて、ここから第三イザヤ(解放後)だー。エルサレム神殿が壊されちゃったので、これまでの祭儀宗教的な面が薄れて、安息日も「仕事を休んで」「神殿で祭儀する」だったのが、神殿祭儀が抜けて「仕事を休む」だけになり、個人主義化して民族の枠を超えるようになるらしい。なるほどー。
・申命記2では「ちんこの潰れたやつ、混血はイスラエル民族に入れてやらねー」ってヤハウェ言ってたのに、イザヤ56-3では「安息日と契約守るなら仲間に入れてやるよ!」に修正してる。ユダヤ教がどんどん民族宗教から脱却していくなあ。
・しかし、第二イザヤでは「解放後はヤハウェがめっちゃ救ってくれるぜ!」「もう安心だぜ!」って言ってたのに、第三イザヤではさっそく「宗教指導者がクソだ……」「政治指導者がカスだ……」ってぼやいてるww ホントに預言あたんねーなwww
・イザヤ59では形式的な苦行(断食)を否定し、「共同体内の弱者の保護」という実際的な善行が推奨されてる。……と、いうと、「あの凶暴酷薄なヤハウェが善行を勧めるなんて……!」と驚くかもしれないけが、「共同体内の弱者の保護」だけはヤハウェは一貫して言ってるんだよな。
・「ヤハウェ E:正義の鎧 E:救いの兜 E:復讐の衣 E:妬みの外套」(イザヤ59) 「正義の鎧」は終盤に出てきそうな主人公専用装備で、「救いの兜」は特殊な魔法効果を持ってそう。「復讐の衣」と「妬みの外套」は明らかに呪われてるだろww
・「まことに、わたし、ヤハウェは公義を愛し、不法な強奪を憎む」(イザ61)。でも、ヤハウェが扇動して異民族に攻めこんでブチ殺して強奪するのはアリだってんだから、こういうのがヤハウェはアレだよなーって思う。義って「ヤハウェ基準」だから、理屈的には確かに合ってるんだけど、胸糞悪い。
・イザ63-9によれば、ヤハウェに逆らうイスラエル人をヤハウェがフルボッコにする時、実はヤハウェも苦悩してたって言うんだけど(とてもそうとは思えないが…)、一方、63-17を見る限りは、イスラエル人がヤハウェに逆らってたのはヤハウェの操作だって書いてあるんだよな。なんなんだろこれ。
・イザ66-3でヤハウェは「牛を犠牲にすんじゃねー、羊を犠牲にすんじゃねー」って言ってて、これは当時の神殿派(儀式重視か?)に対するアンチの姿勢から出たものなんだけど、そういった背景を抜きにして見ると、前にやれって言ったことを「やったらぶっ殺すぞ」って言ってるわけで意味分からんよな
・イザヤ66-19で「オレのこと知らねー辺境のやつらにもオレの敬虔な僕を遣わしてオレのことを伝えてやるぜ」ってヤハウェが言ってて、これは歴史的には「異邦人も仲間に入れてやろう」という方針のアレなんだろうけど、現代的視点から見ると「ヤハウェのこと知らねーやつはどうすんの? 構わず皆殺しにすんの?」に対するアンサーに見える。今では「ヤハウェは人類みんな救おうとしてる」が当たり前の認識になってるから(昔は知らねーやつは構わず殺してた)、「ヤハウェのことを知らない人」が問題になって、そん時に、このイヤザ66が使われてるんじゃねーかなー。
・イザヤ書、ようやっと終了。読みにくかったー。イザヤ書は「遙か未来のことが預言されて当たってんだ! 聖書スゲー!」って一部信者から言われてて、「ま、事後預言だから当たり前だろ」くらいに思ってたんだけど、実際読んでみると、預言はちょこちょこ外れてるっていうww これはびっくりだった。
・あと、イザヤ書は「ヤハウェはまじお前らを愛してる」「昔はフルボッコにしたけど、皆殺しにしなかったのは愛してるから」とかって、かなりヤハウェの愛を強調しててなんだか落ち着かない。「おまえらブッ殺すぞ!」とか言ってたら、「わーい、いつものヤハウェさんだー」ってむしろホッとする。
エレミヤ書
・ヤハウェ「昔のお前らはホントに純粋でオレを慕ってたのによー。荒野をさまよってた時とかさー。それなのに今のお前らときたらよー」(エレ2-2)。確かに荒野でさまよってた時代は逆らってなかったが(というか、何も記されてないだけだけど)、その前後は逆らいまくりだった気がするんだけどな。
・ヤハウェ「あたしの何が悪かったのよ! あたしが悪かったら悪いって言えばいいのに、何も言わなかったじゃない! どうしてあたしを捨てて他の神のところに行っちゃうよの! あんたが悪いんだからね! あんたが悪いんだからね!」 悪いところを悪いって言ったら、お前、ブチギレて殺すだろーが。
・浮気して出て行った妻(ユダ)を捕まえてボコボコに殴ったけど、それでも自分の下に帰って来ない。もう怒ってないよ、帰っておいでよ。って、ヤハウェが言ってるんだけど、なんでこいつは殴ったら帰ってくるとナチュラルに思ってるんだ……。ちなみに、ヤハウェはユダを愛してるから、ボコボコに殴っても殺しはしないんだよ!(エレ2-3)
・イエスが神殿で暴れまわったように、エレミヤも「神殿、神殿、言ってんじゃねー」と形式的信仰(?)に対するアンチの姿勢を見せてるなあ。イザヤも確かそういう傾向があったし、イエスを待つまでもなく、「てめーら、神殿に行ってりゃなんとかなると思ってんじゃねー」って風潮は昔からあったみたい。
・ただ、エルサレム神殿に民衆の信仰が集中したのは、旧約的には善王とされているヨシア王の宗教改革(地方の聖所を廃したことによりエルサレム神殿の地位が高まった)なんだよね。旧約的に良いことをしても旧約的に良い結果にならんとかヤハウェも大変ですな。(エレ7)
・ヤハウェ「オレはてめーらの先祖をエジプトから連れ出すときに、全焼の供犠だとか犠牲を捧げろとか言った覚えはねーぜ」(エレ7-22)。おいおい、何いってんのヤハウェさん。あんた五書でモーセに言いまくってたじゃねーか。どういうことなんだよ。
・ヨシヤ王がアシュタロテ崇拝をやめさせる→エルサレムが落ちる(ヤハウェのせいで)→「やっぱアシュタロテ崇拝やめたのがいけんかったんや」→アシュタロテ崇拝再開→ヤハウェブチギレ、「お前らオレをキレさせたいのか? ぜってー皆殺しにすっから執り成しとかすんじゃねーぞ」(エレ7-16)
・ちなみにヨシヤ王が善政を敷いたにも関わらずエルサレムが陥落したのは、ヨシヤの祖父マナセにヤハウェがブチギレてたため。「ヨシヤはえらいけどマナセがイラつくからエルサレム落とすわ」。僕らがもし仮にヤハウェを真剣に愛しても「お前のオヤジがムカつくから殺すわ」とかあるんじゃねえの?
・エレミヤ7-22はさっぱりわからんな……。注釈書は「エレミヤは形式的祭儀を否定したんですよー」という説明をしてて、そりゃ宗教学的・歴史学的にはそれでいいだろうけど、信仰的にはどうすんだよ、これ。ヤハウェが「(やれっつったけど)オレそんなこと言ってねーぜ」って言ってるんだぜ。
・あー、そういうことかー。エレ8-8で答えらしきものがあった。エレミヤ的には「律法は偽物に書き換えられた」らしい。その律法が何を指すのか不明だけど、五書の犠牲に関する部分だとすれば話が通じる。しかし、旧約の一部が「ここは神の言葉じゃねーけどな」ってことになるんだけど、それはいいの?
・やっぱり女の子を好きになってから、何が好きなのかを言語化するのと同じで、まずは非理性的な信仰心を持ってから、信仰心にそぐわぬ問題を理屈で片付けていくのが宗教ってもんなんだろうな。始めから理屈と理性で掛かっていって納得できるようなものとは思えない。
・「まことに、それらは災いを降すこともできず、また、幸いをもたらす力もないからだ」(エレ10-5)。偶像攻撃の箇所。前も書いたけど、偶像がたとえ無力だったとしても偶像は人を害しないんだよな。人を害するのは、そんな無害な偶像を依り頼む人間を見て嫉妬するヤハウェっていう。
・ていうか、思い出したけどヤハウェは列王下3-27でケモシュにやられてるじゃん。何が「偶像にはなんのパワーもない」だよ。昔の注釈書ではあの部分を「イスラエル人の中に罪があってヤハウェの罰が下された」と解釈して、最近のは「犠牲行為によりモアブ人の士気が上がった」と解してる。
・「お前の裾を顔までまくりあげて、まんこ見てやるぜー」ってヤハウェさんが言ってる(エレ13-26)。もちろん比喩表現なんだけど、クラウザーさんを想起せざるをえない。
・エレ14-14で「偽預言者どもは平安があるとか飢饉は起こらないとか言ってるけどよー。おれ、あいつらを遣わしたことも命じたことでもないからよー」ってヤハウェ言ってるけど、今まで「これこれすれば平安がある」って散々言ってきたのにそりゃねえだろって感じ。
・結局はこれエレミヤによる社会の主流派攻撃なんだろうな。それまでのヤハウェ宗教の主流で「Aすれば平安がある」という価値観というか様式というかが固定化されそうになった時に、それをブチ壊したいエレミヤが「あいつらの言ってるのはウソだ!」って叫んでるっていう。
・ヤハウェ「わたしは、憐れむことに飽きた」(エレ15-6)。だんだん、ヤハウェはツッコミ待ちなんじゃないかと思えてきた。
・エレミヤが「みんなが僕をいじめるんだ。助けてよヤハウェー」って言ってるけど、そりゃ固定化されつつある社会の価値基準に対してニセモノ呼ばわりしてりゃ迫害されるよな。それに対して「だって僕の神様がニセモノって言ってるんだ! 助けて僕の神様!」なんだから、こりゃキチガイにしか思えない。
・エレミヤは神殿祭儀ファックな立場なのに、一転して「安息日は守れコナクソー」とか言ってて、どっちだよって感じなんだけど、どうも神殿祭儀のような共同体的儀礼行為はアウトで、安息日みたいな個人で頑張ることを推奨してるみたい。エルサレム神殿がこの時破壊されてたことも関係するみたい。
・「みんなが私を陥れて殺そうとしてる! ヤハウェよ、やつらに復讐を! 若者を戦争で死なせ、男達は虐殺され、子供を飢饉に渡し、妻は子と夫を失いますように! やつらの家が盗賊に襲われる時、彼らの家から叫び声が聞こえますように!」(エレ18-18) エレミア凶悪すぎるwww
・これ、エレミアは実際に殺されそうになってたんだと思うけど、もしこれも被害妄想だとしたら、自分の妄想の神に言われたまま他の聖職者をニセモノ呼ばわりした挙句、被害妄想で殺されると叫びだして、妄想の神に復讐を乞うてるんだから完全なキチガイだよな。イザヤもエレミアも独善的すぎてキモイ。
・エレミヤってば、あまりに周りから迫害を受けるもんだから、「オレの生まれた日は呪われろ~。オレが生まれたとき、オヤジに吉報を伝えたやつは呪われろ~」とか言い出したよ。いよいよキチガイじみてきたなあ。(エレ20-14)
・イマイチ良く解らんのだけど、エレミヤは本当の預言者(つまりエレミヤのこと)と偽預言者の区別として、どうも「オレはマジで霊感がビビっと来たけど(エクスタシーもあったけど)、偽預言者は夢のことを話してるだけ」って言ってるように読める。(エレ23-16)
・エレミヤは「オレだけが聞いた本当のヤハウェの言葉」を叫んでたら死刑にされかけて、そこを長老たちに弁護されて助かったんだけど、この流れはイエスの時と同じだなぁ。一方、同時代に同じことを言ってた預言者ウリヤは処刑されたわけで、でも彼は無名のまま。イエスとは何が違ったんだろうか。
・あー。なるほど。 RT @f0f8ff:「復活」じゃないですか?
・バビロンは新約なんかではいかにも悪の帝国かのように言われてるんだけど、エレミヤは「バビロンに降伏しろよー」って言ってたりする。しかし、反バビロン連合の諸国は、たかがユダの民族宗教の、その中でもキチガイ扱いのエレミヤがいきなりこんなこと言ってきて聞くわけないよな。
・エレ28は興味深いな。預言者の真偽を見極める方法について、エレミヤが一つのガイドラインを提示している。いわく、戦いや災いや疫病など悪いことを預言する預言者と、平安を預言する預言者がいた場合、後者は平安が実現して初めて本物だと分かる、とのこと。
・しかし、この状況はバビロニアに立ち向かう(勝って平安が訪れるよ)か、降伏かで預言者同士が互いの真偽を主張してるんだから、「平安が実現して初めて本物と分かる」にしても、そのためにはバビロニアに戦争仕掛けなきゃいけないんだから、結局、事後でなければ真偽判定できないじゃん。意味なくね?
・預言者同士の真偽争いは水掛け論だよなー。エレミヤもイザヤも聖書の文脈の中に置かれれば、迫害を受けながらも正しい神の言葉を伝えた義人に見えるけど、実際はKYの異端者で、へたをすればキチガイ扱いされてたんじゃなかろうか。言ってることは現代のキチガイとあまり変わらん。
・エレ31-31でヤハウェが「契約を更新するぜー」って言ってる。これまではヤハウェとイスラエル民族の間の契約であり、祭儀重視(形式主義)だったのが、新しい契約ではヤハウェと個々人の間の契約になって非形式主義的になるらしい。で、この「新しい契約」のアイデアがキリスト教にまで繋がる、と
・エレ33-11では「ヤハウェの家に感謝の生け贄を携えて来たる者たちの声」という形で、ヤハウェによる救済後の国家が描かれてるんだけど、「ヤハウェは生け贄を捧げろなんて言ってないぜ!」「あれはフェイクだぜ!」って言ってたのに、またちゃぶ台返しかよ……。
・エレミヤの預言も外れてるな(エレ34-4)。預言者はたくさんいて、各自が好き勝手言ってたから、当たった奴を本物扱いして外れた奴を偽物扱いすることで、当たった奴が聖書で預言者扱いされてるのかと思ったけど、そういう人でもちょこちょこ外してても大丈夫なもんらしい。
・バビロニアに包囲された時、ゼデキア王が奴隷解放令を出したらしいんだけど、これはどうも兵糧攻めされてる時に奴隷に食料を渡らせることを渋ってのものだったらしい。こういう理由で奴隷解放されることもあるんだなー(ちなみにバビロニアが帰っていったら再び奴隷化した)(エレ34)
・ヤハウェ「おい、エレミヤ。お前、レカブ人に葡萄酒飲ませてこいよ」→レカブ人「父祖ヨナダブに禁じられてるから飲めません(´・ω・`)」→ヤハウェ「えらい! よく父祖の言いつけを守ってる! それに比べてイスラエルのやつらときたら……(ぐちぐち」 一種の引き合いに出されてるわけだね。
・しかし、これ話の流れは分かるけど、ヤハウェは普段「やれっつったろーが!」「殺すぞ!」って感じなのに、この時だけ「(オレの命令に従わずに)父祖の言いつけを守りぬくなんてえらいな!」というのは、なんだか納得いかないな。お前、今まではちょっと逆らったらスグ殺してたじゃん。(エレ35)
・「バビロニアに滅ぼされるぞー。降伏するんだー」って言いまくってるエレミヤは、ある意味、敗北主義者であり、そりゃあ王の立場からしたら国民の士気を勝手に下げるべく活動するエレミヤは厄介だよな。しかも、咎めたら「ヤハウェの呪いがうんたらかんたら」言うんだから、本当にヤだったろうなあ。
・でも、王はそれなりにエレミヤのことを信頼してたみたい。個人的に相談とかしてる。王「投降するのはいいけど、そしたら、オレ、(既に投降している)ユダヤ人に殺されるんじゃね?」エレミヤ「ヤハウェが心配ないって言ってるから大丈夫すよ」。うん、まあ聞き従えなくてもしょうがないよな。エレ38
・「バビロニアやべーよ。エジプトに逃げよーよ」→エレ「ヤハウェは留まれといっている」→「やだよ、エジプト行くよ」→エレ「ヤハウェはエジプトを滅ぼすと言っている」。ユダヤ人の亡命先に選ばれたせいで滅ぼされるとかエジプト傍迷惑すぎる。ちなみにこの預言が成就したかは怪しいらしい:エレ43
・エレミヤ「てめーらがヤハウェ以外の神を拝んだからこんなヒデー目に遭ってんだよ! 今すぐ異教の神への信仰を捨てやがれ!」→民「アホかー! イシュタルを拝んでた時は平和だったのに、ヤハウェだけ拝むようになってから不幸の連続じゃねーか!」こんな説得力のある反論が旧約中に出てくるなんて!
・エレミヤ的には「異教の神を拝んだから懲らしめのために酷い目に遭わせた」なんだけど、どっちにしろヤハウェのせいで不幸になってることは変わらんよな。聖書的に悪王とされる王たち(異教の神を拝んだ)の時は民衆は幸せだったってのは、素人考えでも分かる話で、要するに異文化に寛容だったってことなんじゃねーかなー。それが聖書的に「善王」とされる王(異教の神を礼拝するのを禁止してヤハウェに一本化した)の場合は異文化に不寛容で他国とも軋轢を起こしやすく、また、これまで異教の神に親近感を持ってた民衆の反感も買うだろうし、そりゃ国が乱れてもなんら不思議はない気がする。
・ちなみに民衆たちによる説得力ある反論はエレミヤ書44-15に載ってる。旧約聖書中でここまでヤハウェ信仰を相対化してる箇所は他にないのではなかろうか。聖書に書かれてるのは、あくまで「ヤハウェ信仰」という一面から見た、非常に一面的な記述に過ぎないことが、この部分からも気付かされる。
・しかし、一部のキリスト教徒はこういう記述も「エジプトのユダヤ人は、屁理屈をこねてあっさりエレミヤの勧告を断った」と言って一蹴しちゃうんだな。最終的にどう結論付けるにせよ、もう少し考えりゃいいのに、と思うんだが、まあ僕の知ったこっちゃねーな。http://bit.ly/ejZZ3j
・次回はエレミヤ書50章から。どうも読んでいった感じ、この当時のこの辺の主役はバビロニアとエジプトであって、ユダ王国なんかは両大国の間で右往左往してる脇役に過ぎない感じ。そうだとしたら、脇役にも関わらず自分とこのヤハウェが全てを操作してると考える辺りは滑稽にも感じる。
・エレ50-3:「バビロニアは北からの敵に滅ぼされるぞー!」→実際は東からきたペルシアに滅ぼされた。預言が外れてる箇所なので一応めもめも。
・エレ51-58:預言「バビロンは燃えて廃墟と化す!」→実際「バビロンは無血開城」
・これまでは「オレたちイスラエル人が悪かったんだー」「ヤハウェが怒ってバビロニアを差し向けてくるぞー」「諦めてバビロニアに投降するんだー」って言ってたのに、エレ50~51では「バビロニアにヤハウェが復讐してくれるぞー」って話になってる。復讐も何もヤハウェがやらせたんじゃねーか。
・注釈書には「ここは明らかにエレミヤが書いた預言ではない」「だって、エレミヤはバビロニアに怒りはなかったはずだもん」とあって、それはそうだと思うんだけど、ということはこれを編集したやつらは、エレミヤが突然バビロニアに怒りを抱いても不都合はない、という感覚だったんだろうな。
・ヤハウェが自分で道具としてバビロニアを使っておきながら、その道具を自ら潰して「復讐してやった」という非倫理的振る舞いを、なんでさらりと受け入れられるのか分からねーぜ。クリスチャンの皆が皆そうじゃないんだろうが、えらい排外的に感じるなあ。http://bit.ly/dG5ojh
・こういう「どうかと思われる箇所」を見つけるたびに、クリスチャンは真剣にこの問題を考えたりしてるのかなーと検索するけど、意外なまでにそういう記述を目にすることがない。えらい単純にヤハウェを賛美してるケースが多くて、僕には正直気持ち悪いのだよ(「ネット上の傾向」という可能性はあるが)
エゼキエル書
・ヤハウェ「エゼキエルよ、人糞で焼いたパンを食べなさい」エゼ「えー、オレが何したっつーんすか!?」ヤハウェ「じゃあ、やっぱ牛糞でいいよ」(エゼ4-12)。人糞うんぬんは籠城戦時の食料不足を表してるんだろうけど、抗議したら牛糞(一般的な燃料)を許したのはなんでなんだろう??
・「人糞で焼いたパン」をエゼキエルに食わせるのは象徴行為(これからこんな事態になるぞ的なデモンストレーション)だろうから、「食えよ」「ヤですよ!」「じゃあ、いいや」という流れはイマイチ分からない。「いくら預言者だからってスカトロはごめんですよ!」ってことでいいのかな?
・いくら神に遣わされた預言者とはいえ、「デモンストレーションのため、390日間ずっと一人スカトロやれよ」って言われたら抗議もしたくなるよなー。どうもエゼキエルが「オレは今まであんたの言いつけを守って穢れたものは食ってなかったってのに!」に対して、じゃあ、牛糞でいいよとなったらしい。
・エゼキエル的にはヤハウェの怒りを止めるためには、ヤハウェが怒りのままに思う存分イスラエル人をギッタギッタのボッコボコにすることによって怒りは止まるらしい。その時のヤハウェの怒りは嫉妬感情だそうな(偶像礼拝に対する嫉妬)。(エゼ5-13)
・ヤハウェ「ほう、お前たち、偶像礼拝をしているのか。そりゃ結構なことだな。どれ、わたしも一つそれを見習って、お前たちをブチ殺して、死体を偶像に供えてみようか」。ヤハウェ、ほんとこええ。(エゼ6-5)
・エゼ11-19によれば、ヤハウェはイスラエル人に「新しい霊」を与えるらしい。こうすることでヤハウェの言うことを聞くようになるらしい。でも、これは言い換えれば、ヤハウェ側からの積極的働きかけがなければ、言うことを聞けるようにはならないということなんだろうか?
・そして、どうもよく分からないのだが、その「新しい霊」を与えられた人たちも偶像礼拝に向かう可能性がある?らしい(11-21)。「ヤハウェの言い付けを守る人は守るし、守らない人は守らない」なら、今までと特に変わらないのだが、「新しい霊」はいったい何の意味があるんだろう。
・エゼ13では偽預言者をディスってるんだけど、他の預言書と同じく、預言者へのディスは水掛け論っていうか、「向こうも同じこと言ってんだろ」って気になる。申命記18-22によれば、預言者の真偽は預言が実現するか否かで決まるらしいけど、そんなん結果論だし、全く役立つ判定法じゃないよなー。
・エゼ14-9によれば偽預言者も「ヤハウェが誘惑して」預言をしているらしい。列王上22でもそういうエピソードあったけど、やっぱヤハウェがやってんのかよ。注釈書によれば、「偽預言者も神の意志によるという信仰」「神の意志によったとはいえ、その罪悪の責任は彼らに課せられる」。まじイミフ。
・まー、出エジプトの時からそうなんだけど、ホントにヤハウェは「自分で逆らわせて」おきながら、「あいつらが言う事聞かない!」って怒りだして、「もう辛抱たまらん!」って民をブチ殺すんだよなー。や、もう絶対殺したいだけだよ、コイツ。ヤハウェに操られた人々に一体何の罪悪があるんだよ。
・ヤハウェ「民がオレの言う事聞かなかったら、そん中に義人が三人いたとしても、その三人が助かるのは自分の命だけで、オレは残りの民を絶対ぶっころす。義人の息子や娘もぶっころす」(エゼ14-12)。因果応報の観念が民族規模ではなくて、個人レベルになったらしい。
・ヤハウェ「捨て子だったてめーを拾って育てて、思春期になってオッパイもボインボインになったから結婚して上等な服も着せてやったのによ~。チンコのでけえエジプト人を始め誰でもセックスしやがってこのクソビッチが~。間男どもを集めて全裸にして視姦させ、石打ちで殺すぞクソが~~」(エゼ16)
・以上、イスラエルを妻にたとえ、異教礼拝や大国との外交を姦通と例えたヤハウェさんのブチギレ描写でした。こういうたとえをされると、心情的には理解しやすくなるけど、同時に「神のくせにそんなことでブチ切れてんのか……」とも思わざるをえない。理解はしやすくなるけど、あまりに人間臭い
・なんで「バビロニアに逆らうなー」ってゼデキヤに言ってんのかと思ってたけど、どうも、ゼデキヤがネブカドネツァルに「ヤハウェの名において、あなたには逆らいません」的な誓約をしたからっぽい。なので、バビロニアに逆らったらヤハウェが怒るらしい。(エゼ17)
・しかし、これはテキスト上は宗教的な理由だとしても、戦略的な視点から考えて(バビロニアに逆らうのはヤバイ)ヤハウェへの誓約を引き合いに出して止めたのか、それとも戦略的視点関係なしに純宗教的な理由で止めてるのか、それともどっちの要因もあったのか、ここからは読み取れないなあ。
・ヤハウェ「父が邪悪であっても子が義人であれば、どうして父のせいで子が死ぬだろう! 邪悪な者も立ち返ったなら生きるだろう。邪悪な者であっても、どうして私が死を好むだろうか!?」→実際「ほう、反省したか。いいだろう、貴様は生かしてやろう。ただし、貴様のよくできた孫を殺すけどなァー!」
・ちなみにイイコト言ってるヤハウェはエゼキエル18章で、言ってることとは全然違って、よくできた孫を殺すヤハウェは列王下23-26な! 本当にヤハウェの言うことは白々しくて信用ならん。
・ヤハウェ「てめーらのことはエジプトん時からもう何度も皆殺しにしようと思ってたんだけど、カナンに連れていくって約束した手前もあるし、てめーらブチ殺したらオレがナメられっから殺すのだけはやめてやるぜ」(エゼ20)。ヤハウェが殺さなかったのは自分自身の名誉のため、って前も言ってたなー。確かモーセもこの論法で、民を皆殺しにしようとするヤハウェを説得したりしてたね。
・これもひどい話だなー。出エジ13-2などではヤハウェが「お前らの長子を犠牲に捧げろ」って言ってて、「まー、長子の代わりに生け贄の獣でいいけどな」ってことになるんだけど、これなんかはエゼ20-25~によればどうも純然たる嫌がらせらしい。「わたしが彼らを呆然とさせるため」だそうな。
・ヤハウェの様々な悪徳の中に「嫌がらせで命令を出す」が加わったぞう。ちなみに、ここで言う、「子供を火によって捧げる」という異教的風習(ヤハウェ信仰でもあった?よく分からない)は、本当に子供を焼き殺してたのか、それとも火の前で七五三的なことをやっただけなのか、よく分からないらしい。
・ヤハウェ「バビロニアを操って義人も悪人もまとめてぶっころす」(エゼ21)。ちょ。さっき、「義人の子が悪人の父ゆえに死ぬことはないよー」って言ったばっかりなのにwww 確かに「まとめてぶっころす」はエルサレムに対してで、「義人は死なないよ」は捕囚民に対してだから対象は違うけどさー。
・エゼ21-21は預言者エゼキエルが神から象徴行為をするよう指示されてるのだと取ると、神から無差別殺人をするよう示唆されていると読むことも可能。どうも三大預言者はアブナイ人に感じられるので、そういう電波を受け取ってたとしても何ら不思議ではないと思う。
・今日はおしまい。預言者は涎を垂らしながら恍惚状態で預言したらしいし、大なり小なりヤバイ人たちだったんじゃないかなー。また、他の預言者たちが民族主義的に(?)徹底抗戦を唱える中、親バビロニア的姿勢のエゼキエルとかは鼻つまみものだったんじゃないかなあ。
・だって、ホントにヤハウェを信じてる預言者たちなら、そりゃ「ヤハウェがいるから大丈夫!バビロニアなんかに負けません!」って言うよね。そこを「神がバビロニアを差し向けてくるのだー」とか言うわけで。歴史的には前者に従って失敗したから、結果論的にエゼキエルとかが本物扱いされてるだけかと。
・ヤハウェはエゼ23でもイスラエルとユダをビッチ扱いしてるなー。ここまでビッチ描写されると、ちょっと性的興奮を覚えてきた。
・エゼ24ではエルサレム崩壊の象徴行為として、予行練習的にエゼキエルの妻が殺されてるけど、これもヒデエ話だな……。まあ、実際は、妻が何らかの理由で死んで、それに対するエゼキエルのリアクションってだけのことなんだろうけど。
・ヤハウェがユダをフルボッコにする一方で、フルボッコにされるユダを嘲笑った近隣諸国にはそれはそれで制裁を加えてフルボッコにするらしい。(エゼ25)
・エゼ29-17によると、ネブカドネツァルには報酬としてエジプトを与えることになってるらしい(史実的には、確かBC568のエジプト征服が成功したかどうかは不明)。報酬まで与えておきながら後でボコボコにするのか……。
・バビロニアがユダを滅ぼすのは(自分の意図したことだから)アリだけど、機に乗じて攻めてきたエドム人のことは許さねーんだな……。「のび太をいじめていいのはオレだけだ」的発想なんだろうか……(エゼ35)
・エゼ37では白骨死体からの復活という幻が描かれてる。これは旧約の死後観念から外れるが(この頃は死後の世界といったアイデアはなかったはず)、どうも文字通りの復活ではなく捕囚されたイスラエル人の復興を喩えているらしい。
・エゼ43では神殿の中で供犠をやれって言ってる。「犠牲の獣を捧げろなんて言ってねーよ」ってのはどこだったっけ……? イザヤ? エレミヤ?
・エゼ45を見る限り、指導者(王)が供物を捧げることが許されているように見える。前にサウロが供物を捧げた時には怒ってたのにね。(サム上13-7)
・寄留者(外国人)も子供がいて、すっかり馴染んでいるならば、嗣業地を与えることになっているらしい(神殿には入れないけど)(エゼ47-22)
ホセア書
・ホセアはヤハウェから「ビッチと結婚しろ!」と言われて神殿娼婦らしき女性と結婚したらしい。ホセアはビッチ妻と自分の関係を、北イスラエルとヤハウェの隠喩で捉えてるけど、その視点には注意が必要(おそらく女性蔑視的な意味で)とのこと(by注釈書)。
・ホセ1によると、ヤハウェは「北イスラエルは許さない。ユダは憐れんで救ってやる」って言ってる。確かエレミヤかエゼキエルでは「ユダが最悪すぎるので、相対的に北イスラエルがマシに見えてきたから、北イスラエルは許してやる」とか言ってたハズ。やっぱり内容的な矛盾を統一する気はないようだ。
・ホセアは北イスラエルで活動してたから自分の地元に対して厳しくなるのかもしれない。ユダに対して優しい、というよりは、ユダにあんまり興味ない、というニュアンスで。ユダは憐れんでやる、の部分は後代のユダ側による付加とされている。
・北イスラエルはバアル崇拝が混じってたのでホセアが怒ってたらしいけど、そもそも北イスラエルがホセア以前にヤハウェ宗教の本質(ってなんだ? 唯一性とか?)をどこまで理解していたか怪しい、とのこと(by注釈書)
・ホセ3ではホセアが別れた妻?と寄りを戻してる。……というか、神殿娼婦に戻った妻をカネで買い取ってる? ホセア書はホセアが夫婦喧嘩しながら預言していく書だと思うと、なんだか新しいな。
・ホセ6-2が「三日後に復活」の元ネタらしいが、原子キリスト教会がすぐにここを見出したわけではなく、ちょっと後の話らしい。また、「三日後に回復」は類型的な話で王下20-5、8にも出てくるとのこと。
・預言者はたいてい(後で回復されるにせよ)「オレたちはヤハウェにブッ殺される!」と言いまくってる気がする。おそらく、当時は「ブッ殺される」派も「守ってくれる!」派も両方いたんだろうけど、歴史的にはブッ殺されたために前者だけが正しい預言者として残っているのではあるまいか?
・ホセ11-9によれば、ヤハウェは「神であって人ではない」から怒りを止めることができるらしい。怒りの感情は人間的な有限性であり、神は有限性を超えているから、というもの。注釈書によれば、これによりヤハウェはイスラエルにとって益のある存在としてギリギリ残り、ある意味、ヤハウェはこの記述に救われている、という。
・ホセア12-13はヤコブが妻を得るために働いてたのを、利己的と批判?しているらしい。
・ホセアは王制に批判的らしい(ホセ13-10)
ヨエル書
・ヨエル3はキリスト教の聖霊降臨の際に引用されるらしい。
・これの成立時期は捕囚後のペルシア帝国が衰え始めた頃だと(よく分からないなりに)考えられているらしい。
アモス書
・他の預言者「周辺諸国は滅ぶ、ヒャッハー!」アモス「周辺諸国は滅ぶ! ついでにユダも滅ぶ! 最後には腐れイスラエルも滅ぶぜ、ヒャッハー!」
・ヤハウェ「コロス、とにかくコロス、お前ら全員ブッコロス」って言ってたのに、後代の加筆により、「でも、みんな殺さないし、後でメッチャ回復させるよ!」ってことになったらしい。
オバデヤ書
・「エドムのやろー。今まで仲良くしてやってたのに、オレがバビロンにフルボッコにされたら、調子にのって攻めてきやがってよー。ブッコロス、必ずブッコロス」くらいの内容しかない。ちなみにエドムの方からすれば必ずしも「仲良くしてもらってた」感じではない可能性がある。(「ダビデはアラムを討って帰る途中、塩の谷でエドム人一万八千を討ち殺し、名声を得た」サム下8-13)
ヨナ書
・預言活動しろと言われたヨナがビビって逃げ出すと、嵐に巻き込まれ魚に飲み込まれて、結局やれと強制させられる。
・神の言葉から逃げて魚の腹に捕らえられるのはバビロン捕囚の暗示らしい。
・ヨナがニネベ(=アッシリア)の危機を訴えて、ニネベの人たち(に仮託されているが、実際はペルシア)が従ったのは、当時のペルシアにあったゾロアスター教の倫理性をユダヤ人が認めざるを得なかった証拠であり、ゾロアスターの二元論はユダヤ教に影響を与えている。
・するとヨナは怒って、「ニネベを滅ぼせよ!」とか言っちゃう。この辺りはユダヤ人の独善性と民族主義的傾向に対するアンチテーゼらしい。オバデヤ書での過激な民族主義に対する編集者の自己反省的な面を持つとされている。
ミカ書
・ミカ4-5ではおそらく初めて他宗教を容認していると取れる記述が出てくる(ただし、「他のやつらはしらねー! おれたちはちゃんとヤハウェ信仰するもんねー」とも読める)。一方、ミカ5-13では「他宗教ぶっころす」とも言ってるので、どちらにしろ、一貫性のある記述ではない。
ナホム書
・ナホ1-11にてベリアル出てきた。
・内容的には滅んでいくニネベ(アッシリア)に対する嘲笑詩らしい。しかし、前にどっかで「あいつらはオレたちがバビロンにやられた時にあざわらったからいつかブッコロス」って言ってたのに、なんだよ、自分も人にはやってんじゃねーか。
ハバクク書
・ハバ2はアンチアッシリアなのかアンチバビロニアかで意見が分かれてる。岩波はアンチバビロンと取り、注釈書はアンチアッシリア(正確には「アッシリアと結んだ国内勢力」か?)と見ている。
・内容的には「マジでアッシリアうぜーぜ! ヤハウェ何やってんの!? え、もうすぐ何とかしてくれる? ヤフー! ヨシヤ王とヤハウェが何とかしてくれっぜー!」って感じ。テキストだけからはこれがヨシヤ王を指すとは読み取れない。ちなみにヨシヤ王はヤハウェから「てめーのジジイがムカつく」って言われてネコに殺されちゃった人。
ゼファニア書
・「ヤハウェが自分に従わないイスラエル人をぶっ殺す。諸国民もぶっ殺す。最後には自分に従うエルサレムは救ってあげる」という、よくある展開。全然面白くない。3-9は「諸々の国民の唇を浄める」とあり、この部分だけは民族主義を脱しているとも読める。(それさえもマソラの校訂者は「我が民」と読ませようとしているが……)
ハガイ書
・「おめーら、今は貧しいからとか言って神殿建てようとしないとかどういうことなの? 神殿できたらマジこれからハッピーだよ? ゼルバベルとか政治的メシアになっちゃうよ?」的な内容。ゼルバベルを擁立しようという動きはおそらく頓挫したと見られる。
・聖性は神殿の外には伝わらないが、不浄は伝染する、という感覚があったらしい(ハガ2-12~)。だが、ここで例えられていることの意味はよく分からないらしい。注釈書によれば三つの説に分かれている。
ゼカリア書
・ゼカ5-11は一見したところでは、「異教の偶像のために神殿を作ってあげる」という内容に読めるが、前後の流れからすると「異教の偶像を閉じ込める」的な皮肉的文章にも見える。注釈書もそういった解釈。
・ゼカ8-22でも普遍主義的なテキストがある。この辺りになると民族主義的なニュアンスはある程度鳴りを潜めて、「どの民族でもヤハウェに仕えれる」という感覚が生まれてたっぽい。
・ゼカ12-10に「刺し貫かれたもの」が出てくるが、これが誰を指すのかは定説がないらしい。新約ではこれをイエスに結びつける。
・ゼカ13-3では異教的な預言者を「その両親が刺し殺す」となっており、かなりクレイジー。