お仕事メモです。
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『日本の仏教』より
・真言宗の覚鑁は阿弥陀仏と大日如来は本質的に同一とし、現実世界以外に浄土はないとした。
・阿弥陀仏は発生史的に見れば仏教的理念と民間信仰の対象との混合。イラン起源説も有力。
・中国に仏教が入ってまもなく阿弥陀仏信仰が紹介されて、402年、慧遠が白蓮社を作る。主として浄土を観想する修行。
・浄土宗の起源は曇鸞から。不老不死の仙術を求めていたが、浄土信仰に切り替えた。
・道綽が曇鸞の碑を読んで感動し、学問的研究から浄土信仰に転向。一日七万遍念仏を唱えたりして、このころから念仏を唱えて数を数えることが流行りだす。
・道綽の弟子の善導が中国浄土教を大成。善導は信仰に熱心なあまりに自殺したとされ、彼の弟子にも自殺往生するものがあったらしい。念仏信仰が現実逃避の傾向に陥りやすいことの指摘。
『悲しき者の救い 源信『往生要集』』より
・浄土信仰は天台はもちろん、奈良仏教も真言宗もやってた。それぞれの教義に左右された形でだけど。
・天台では『摩訶止観』により常行三昧が行われていた。阿弥陀仏を本尊としてその周りを回りながら口に念仏を唱え、心に仏を観想する。
・二十五三昧会は臨終にあたって十遍の念仏を唱えられるよう相互に励まし合い浄土に生まれることを目的としたサークル。また、死後にちゃんと浄土に生まれることができたか、後に残った人に実際に目の当たりに、もしくは故を通じて知らせることを期待していた。
・二十五三昧会のメイン目的は臨終の時にメンバーを励まして、最後まで念仏できるようにすること。ちなみに死後の葬送などの雑事一切もメンバーで執り行うことに決めていた。(※これが葬式のルーツと思われる)
・臨終に心正しく念仏するために、常日頃の念仏の功徳を積み重ねなければならない。(※要するにリハーサルを通して身体化させろってことか)
・臨終においては心の在り方が重要になってくるため、最後まで浄土を信じていられるように心の持ちようや、周りの人の励まし方とかが『往生要集』には書かれる。
・源信も十八願には注目している。
・源信は「高度な観想」もがんばればできる(仏の助力もあるし)という立場。
・最高の念仏は空の理を悟ること。
・とはいえ源信もパンピーのことは考慮し、称名念仏も重要なものとしている。
・源信的には疑ってても極楽にはいけるらしい。ちょっと行ける場所は悪くなるけど。疑うのは愚かなことだけど、愚かだから疑うのであり、愚かな人が疑うのは仕方ない。
『ひろさちやの「法然」を読む』より
・法然の示した念仏は「極楽往生のため」のみのもの。唱えて気が楽になったとか商売が繁盛したとかは勘違い。
・BC949に釈尊が死んだと思われてたので、末法は1052年からと考えられていた。
・比叡山の僧侶は俗世間の人と何ら変わらぬ行動をしていた。(※さすがに言い過ぎではなかろうか? 疑わしい)
・どんな人も仏になれるという法華経の教えを中心とした仏教の総合大学が比叡山。
・病気治しのための授戒とかは聖道門だから、法然の教えに反するけど、法然は「いい加減」な人なので、まあいいやと思ってやってた。法然は称名念仏を一日何万遍と唱えてて「行」寄り。
・庶民が信仰し始めたから弾圧したというよりは、法然が出てきただけでヤベエと思ったから弾圧した。
・遊女に念仏を説く際も最初は聖道門を勧めている。一応は。
・法華経を学んでも忘れて智者の振る舞いをせずに只一向に念仏しろ。学ぶな、ということではなく、悟りをひらくためにこれから学ぶ必要はない、ということ。
・法然は臨終のタイミングで往生。親鸞は念仏を称えようという心が生じたまさにそのとき、既に往生が完結している」。
・「念仏唱えてる時に眠くなったらどうすればいいの?」「一眠りしてから、また起きて唱えればいいじゃん」(※ここは原文を読むと「起きてる間はずっと唱えてろ」としか読めないんだが……。『図解』の方ではそう書いてある)
『図解雑学法然』より
・疑いながら念仏してもOK。最初から信心が確立した人しか相手にしないわけではない。疑いながらでも唱えてたら信心が確かになるよ。
・法然は夢の中で善導に会って専修念仏を広めるための確証を得たと受け取った。(※やはり宗教には理だけでなく、なんらかの体験が必要なのではないか? しかし、夢で良いとはお手軽だなあ)
・比叡山を下りたのは人に念仏を教えるためでなく、念仏を実践してる先輩(円照)がいたので会いに行ったから。円照も別に人に念仏を教えていたわけではない。
・積極的に念仏を勧めたりはせずに、自分は念仏をやって、たまたま人が来たら勧める程度。
・臨終の際に妄念を起こさず正しく念仏すれば阿弥陀仏が来るという考え方を否定し、阿弥陀仏が来るから妄念が起きずに正しく念仏できるとした。
・阿弥陀はアミターユス(無量寿)とアミターバ(無量光)。阿弥陀は時間的・空間的に無限。
・阿弥陀仏は自分の名を呼んでるやつがいねーか、キョロキョロ見ながら昼も夜も耳をそばだててるらしい。(※迷子の子供が「ママー、助けてー」と叫んでるようなニュアンス)
・疑いながらでもやってると段々その気になってきて、「きっと迎えに来てくれる! ウヒョー!」という気持ちになったら三心が備わった状態。最初から三心を備えるなんてのはパンピーには無理。
・「念仏を唱えてても心が乱れるんだけど?」「乱れたままやってもオッケー。阿弥陀は来てくれるよ。おおらかに称えようぜ」。パンピーが心を乱さずに唱えるなんて無理。人間に目や鼻が備わってるように、人間の心が当然乱れるもの。
・「回数決めておかないと人間怠けるから数を決めるといいよ。一日一万~十万くらいで」「多いに越したことはないよ。ずっと唱えてられるから」「とにかくずっと唱えてたら何回でもいいよ」
・「一回唱えただけでも極楽だけど、そんなすげー功徳があることに嬉しくなって100万回念仏を唱えちゃう」「一度でも極楽に行けるという気持ちで一生涯念仏を唱える」
・煩悩があるのはしょうがないが、念仏を心のメインにして、煩悩がそれにまとわりついてる感じ。念仏を称えてると阿弥陀の光明の清浄光に照らされて、「貪りの無い善い行いをする身となって、戒を保つ清浄な人と均しい」らしい。(※念仏により無我が実現されるということか。キリスト教により近い気がする)
・後の世に極楽に生まれるために念仏以外のことをして念仏に差し障りがあるなら良くないが、この世のためにすること、浄土へ生まれるためにすることでなければ、神にも祈ればいいんじゃね。
・「ニンニクくって口くせえけど、念仏していいの?」「いいよ」
・『観仏三昧経』には念仏を謗る者は無間地獄に堕ちて、八万劫苦しみ続けるらしい。
『法然を読む 選択本願念仏集』より
・人の目に触れないように壁に埋めろ、って書かれてる。本人もヤバイことは分かってたみたい。
・「聖道・浄土」を区別したのは道綽。法然のオリジナルではない。
・道綽が浄土門を主張したのは、①釈尊が死んでから時間が経ってること、②仏教が難しいこと、による。
・善導や道綽の浄土教は中国ではさっさと滅びている。
・当時は宗を立てるということは国家の保護と特権を受け、体制護持を任務とする。いわば国家のお抱えになるということ。その公認の手続を無視して宗を作るのは反体制的な行為。(※しかし、歴史的に見るならば仏教を国家から切り離したとも言える)
・本来の無量寿経の第十八願は「十念すれば~」だったのが、法然は善導に依拠して「十念」を「十回、称名すれば」に変えちゃった。
・法然は「ただし、五逆と正法を誹謗する者を除く」を無視した。煩わしい教義的議論をしないため。
・無量寿経には称名だけでなく、出家や仏塔、仏像作り、菩提心を持て、なども言ってるが、法然に言わせれば廃止するためにわざわざ例証として挙げているらしい。称名が一番簡単だというためにはそれより難しいものが挙げられていなければ分からないから。(※見事に詭弁だなあ)
・とはいえ、自分はそうするというだけで、他の人が「諸業」を選んでもどうこう言う気はない。
・無量寿経は「末法が始まってからも100年有効」と書いてあるのに、法然はそれを「末法が終わってからも100年有効」と読む。
・凡夫であることを自覚しろ。そうすれば進退窮まって凡夫に注がれている阿弥陀仏の慈悲が実感できる。
・「極楽往生はあると思えばある。ないと思えばない」。心持ち次第。
・法然も「浄土教を誹謗したヤツは地獄に堕ちるぞ」と言ってる(のを引用している)。