【5/6】まとめ「唯識三十頌を読む」


『唯識三十頌』を読む (TU選書)
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 お仕事メモです。

 
 ***

・玄奘三蔵がインド行ったよ。当時のインド最大の仏教大学であったナーランダでは瑜伽行唯識派が正統と目されてたよ。それ学んで帰ってきたよ。弟子の窺基が宗祖になったのが法相宗だよ。

・法相宗の唯識思想は日本の大乗でも基礎学問。

・法相宗の学問の基礎が『成唯識論』で、法相宗は『成唯識論』の教理体系に基づいている。『成唯識論』は『唯識三十頌』の注釈書。

・安慧も注釈書書いてるよ。


序章

・アビダルマの壮大な理論と、それに対する龍樹の批判理論がインドで形成されていた。

・アビダルマをやってる修行者たちの間でヨーガが流行り出して大乗教徒が彼らと交わり、大乗でヨーガをやるようになったと推測される。彼らは般若経を信奉しており、般若経の実践手段としてヨーガを取り入れた。

・アビダルマの分析方法を導入して般若経を解釈するようになった。(※般若経や龍樹の説く空をアビダルマの手法で理解しようとした、ということだろうか)

・玄奘が持って帰った『唯識三十頌』とその注釈書を、玄奘と弟子の窺基が一緒にまとめたのが『成唯識論』。


第二章 総論

・瑜伽行唯識派以前は心のあり方は以下の六種類だった。眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識。この六つで日常生活の心のあり方は説明できる。しかし、これらの背後に私たちが気づかない心の働きを想定したのが唯識瑜伽行派。

・物が飛んできたら無意識的によけてしまうが、そこに「気づかない心のあり方」があると考える。このように自分を大事にしよう(自己保存)として、自分を自分であると意識するのが末那識。さらにその背後にあり、このような心のあり方を生み出す働きを阿羅耶識と想定する。

・この八つの識が変容する。初能変で阿羅耶識が、第二能変で末那識が、第三能変で六識が。


第三章 初能変 ―阿羅耶識の変容

・心の奥底にある阿羅耶識は気づかないうちに何かを溜め込んでいる。

・瞑想で心の変化に注目すると、奥底に潜む心の働きに気付き、それを理論化して阿羅耶識という概念を獲得する。(※つまり、阿羅耶識などの謎概念を突然案出したのではなく体験が先立っているということ)

・心の汚れ(=煩悩)を取り払うのが修行だが、その心の汚れはどうして付いちゃうのか、を理論化する。

・インドの輪廻転生を前提にすると、心の汚れは永遠の過去から果てしなく蓄積され続けていると考える。これまでに色んな生き物でやってきた無限の行為や活動が心に何らかの影響を与えているとする。現代人は一個の人間に心の働きが生じるのはせいぜい胎児からだと考えるので、このアイデアは理解し辛い。

・行為、活動は身体活動、言語活動、精神活動の三業だが、これらをすると気づかないうちに心を変化させている(薫習)。そのような行為、活動の微妙な影響力が蓄積されるのが阿羅耶識。

・業の影響力は阿羅耶識に蓄えられ、また何かのきっかけで日常生活に業となって(過去の業が影響する)現れてくる。これを現行という。(※これは要するに、人間が何かするたびに思考や行動の「クセ」が付いて、次に思考や行動をする際に、その「クセ」が影響するということだろう)

・日常生活で業を生み出すと、それがまた阿羅耶識に影響する(熏習する)。そして、阿羅耶識はまた変容する。その繰り返しにより、阿羅耶識はずっと変容する。阿羅耶識縁起。唯識では縁起をこう理解している。

・一切法が日常世界に出現する可能性を秘めた種子として蓄えられているのが阿羅耶識。それゆえ、阿羅耶識を「一切法が現実化する可能態である種子を蓄えた心」という意味で「一切種子識」という。(★P53、よく分からない。五位百法の一つ一つが種子ということ?? イメージできない)

・肉体と心を統御して維持する機能(執持)は日常世界からは伺い知れない心であるとして、執持識=阿陀那識とした。肉体は老いるが、その変化は肉体自身によるものではなく、肉体を形成する潜在的な力(阿陀那識)である。

・この阿陀那識に「他にも色々機能あるじゃん」と見出したてできたのが阿羅耶識。つまり、阿陀那識は阿羅耶識の原型。

・阿羅耶識は認識したものを言語化し、分別する機能(種子)がある。

・肉体の感覚器官を自己とみなす執着が阿羅耶識に潜在的に働いている(※要するに、肉体を自己とみなす、つまり、自己が無我であるという認識を生来的に妨げているのは阿羅耶識の働きということだろう)

・六道輪廻のどこに生まれるかは、阿羅耶識に蓄積された業の影響力によって決定すると考えられた。

・地獄に赴くと苦痛を受けるが、つまり、地獄に赴いた者には地獄での生存状態に特有な五感による感受作用があることになる。趣の違いは五感に基づく世界を感受するあり方の相違。私たちの環境となっている世界は、阿羅耶識の機能によって対象化されて世界像となって現れている。

・業の結果として世界像が構成されるので、世界像がそのまま実在するわけではない(一水四見)。「もし、私がパイロットの訓練を受ければ、私の目に映る計器盤の姿は今見ているものとは非常に違った形で見えるだろう」。個人個人の経験(業)が違うから、一人一人が異なる世界を生きている。(しかし、人間としては共通の世界を生きている)

・欲望の世界(欲界)に住んでいれば、様々な事物は欲望の対象として見える。欲望を抑制して捨て去ると、物質は欲望の対象として見えなくなる(色界)。さらに肉体や物質への意識が消え去り純粋に精神的な働きのみの世界が現れてくる(無色界)。瞑想の深さにより上昇する。

・修行とはつまり、経験(業)の蓄積された阿羅耶識の統御。

・阿羅耶識と日常意識の心理作用との関係。いつも働いている五つの心理作用が、触、作意、受、想、思。

・触は仏教の感覚・知覚論の基本で、対象(境)と感覚機能(根)と表象作用(識)の結びつきのこと。これにより認識が成立する。知覚する際はいつも「触」が機能している。(※リンゴを認識する際は、対象であるリンゴ、リンゴを見る視覚機能(「目」というよりは「目」に付随する「見る機能」といったニュアンス)、リンゴを視覚表象する作用(「見る機能」による「リンゴの映像」)、これら3つが結びついて(触)リンゴを見ることになる)

・作意は、何かを近くする際にはその一つの事物に(たとえ一瞬だけであっても)心が専念していること。心理作用としては、一時に異なる二つ以上の対象に心を向けれない。

・作意の際に成立する感受作用が受。それは対象への愛着を引き起こす。ただし、愛着を引き起こさない感受作用もあって、阿羅耶識と関係しているのは引き起こさないのだけ。

・想は映像を言語化すること。(※識との違いが分かりにくいが、おそらく識の段階ではその対象の映像に対して言語化による判断が行われていないのだろう。リンゴを触で捉えた段階(識)では、まだそれはリンゴではなく赤くて丸いもので、それが想に至って「リンゴ」になるということか)

・思は想による概念化を下に、より良い生活をしようという心の働き。思とは業を形成する意思。

・これらの五つは常に阿羅耶識と結びついている。(※これはつまり、対象を認識し、それを元に行動しようと考える時には常に阿羅耶識と関わっているということだろうか)

・阿羅耶識自体は涅槃に向かう妨げとならず、煩悩に覆われていない無覆であり、善悪どちらでもなく価値中立な無記(ニュートラル)である。(※思考や行動の結果はいわば深層心理である阿羅耶識にクセとなって溜まっていくが、しかし、そのクセがどんなものであろうと善悪とは関係ない。善悪とは実際に表に出てから問題になるものであって絶対的な善や悪があるわけではないから、と理解した)

・先述の通り、阿羅耶識は一瞬ごとにヒュンヒュン変わってるので、無常の自己があるわけではない。

・煩悩に束縛するクセを阿羅耶識から排除すれば阿羅漢になれる。阿羅漢の時点ではまだ阿羅耶識の機能は失われていない(阿羅耶識を捨てるのではなく方向転換する)。仏陀になれば阿羅耶識は大円鏡智にランクアップする。


第四章 第二能変 ―末那識の変容

・特定の対象に限っての思惟を本質とする識が末那識。(阿羅耶識を自己と捉える思惟)

・末那識が働く習慣性は阿羅耶識を根拠としており、阿羅耶識のみを対象とする。

・阿羅耶識は全てを生み出す根源であり、生み出されたものを阿羅耶識に映し出すことでもあるが、末那識は阿羅耶識の「生み出す」側面だけを対象とする。(※阿羅耶識は業を生み出し、また生み出した業に影響されるが、その「生み出す」方の働きだけを言っているのか?)

・仏教は自己を実在とみなす傾向を批判する。末那識が阿羅耶識を自己と捉えてしまうことが迷いの原因である。

・先に書いた通り、阿羅耶識はいつもヒュンヒュン変わってるのだけど、末那識はこれを「変わってない」と思ってしまい、「変化しない我」だと捉えてしまう。(※迷いの原因の根本は末那識がうっかりさんだから)

・自己執着が働く原因は末那識が四つの煩悩とともに働くから。その四つは、我チ(チはやまいだれに疑)、我見、我慢、我愛。

・無知は苦を引き起こす根本にある衝動で、理論的に反省すれば因果の理法などに対する認識の誤謬がある。このような無知によって自己認知に錯誤が起こっている状態が我チ。(※末那識が阿羅耶識を我と錯誤することを「わかっちゃいるけどやめられない」状態。やめられないのは理屈が身にしみて分かってないから)

・肉体と精神は様々なこだわりや執着を引き起こすが、そういった煩悩の働きにこそ自己が生きているという実感があるとすれば、五取蘊の中に我があるという錯誤が生じる。これが我見。(※欲望がムラムラ湧いて、それを達成したりしなかったりする時に生きてる実感を感じたりすると、それが我だと勘違いする)

・我慢は自分が永遠であると思い込む尊大な態度と、「私は~である」という自慢。(※これは要するに「なんとなく明日も生きてるし、明後日も生きているだろう、なんとなく」(本当は明日死ぬかもしれないがそのことをリアルに感じない)という感覚と、後は普通に自慢のことだろうか)

・我愛は自己愛。

・阿羅耶識のことがよく分かってない(我チ)から、末那識がうっかりして阿羅耶識を自己と思い込んで(我見)それが意識で起こって、我があると思ってるから永遠だとか思って(我慢)、我に対する偏愛的な執着が生じる(我愛)。これらの四煩悩によって汚された意という特徴が備わっているのが末那識。(※ここの理屈はいまいちイメージし辛いが、要は末那識が四煩悩に汚れた結果、表層意識にも煩悩が生じるということだろう。これらの四煩悩のせいで阿羅耶識をうっかり自己と勘違いして、その悪影響が意識に生じる、といったところか)

・末那識の思量は現代的な意味での思考のように言語化された論理性があるものではなく、アメーバーが自己保存の活動をする際にも働くもの。

・そう考えると、末那識は自己保持と自己執着の機能を持つが、それ自体は自我意識とは異なる。「私は~である」と言語化して自己を考える意識は、末那識の働きではなく、第六意識の方。第六意識の方に現代的な意味での自己意識はある。

・四煩悩は自己に執着してるだけで(そこから善業や悪業に発展したとしても)それ自体は善でも悪でもない。四煩悩と結びついている末那識もその点は同じ(ニュートラル)。ただし、自己執着は悟りの道にとっては障害となる。よって有覆無記(善悪の面では価値中立だが、悟りにとっては邪魔)。

・自己へのこだわりがあるから他者と対立するが、しかし、自己へのこだわりがあるからこそ他者への共感や同情も可能となる。(※この記述は言外に、自己へのこだわりを捨てることで他者に対してもおそらく無関心となったら上座部との差異化を匂わせているのか?)

・阿羅漢の境地では末那識は完全に断滅される。

・滅尽定は全ての精神作用が死滅した状態の瞑想の境地(非想非非想定のことか?)。仏教以外の宗教はこの境地を涅槃と考えているが、仏教はそれを批判する。瞑想中、この状態になっている時は末那識は抑えられるが、瞑想をやめるとまた復活してしまう。

・出世間道は空性理解であり、菩提樹下の体験を追体験することで、これも滅尽定と同じく、末那識は完全に断滅されず復活する。(※私の理解では滅尽定と出世間道での体験は同じものに思えるのだが……)


第五章 第三能変 ―感覚・知覚の変容

・アビダルマでは心=意=識だったが、唯識では心=阿羅耶識、意=末那識、識=六識となった。

・感覚、知覚対象を捉える六識の働きは価値中立。

・唯識ではアビダルマに倣い、心と心理作用を区分する。心は阿羅耶識、末那識、六識の八つ。それと結びつくのが心理作用。

・心と結びつく心理作用は①遍行②別境③善④煩悩⑤随煩悩⑥不定がある。それぞれ複数の種類がある。(※これは要は、心に起こる想いは色々あるよ、色んな時に色んな想いが起こるよ、善いことも悪いこともどちらでもないこともあるよ、といったとこだろう。ここでいう「心」は現代的な意味でいう自我意識であり第六意識のこと)

・前五識は阿羅耶識に根拠付けられているが、前五識が働くのには条件がいる。その条件とは①作意②五根③境であり、対象があって、それを把握する感覚機能があり、さらに対象に向かう志向性が揃って感覚が成り立つということ。

・前五識は単独でも、同時にも働く。メシを食うときは、まずそれを見て眼根が働く。口に入れると舌根や身根や鼻根や耳根なども働く。それらのセンスデータ全体を意識によって美味と認識する。

・前五識は働いたり働かなかったり。末那識と阿羅耶識は気づかないが常に働いてる。意識は例外を除いて常に働いている。例外は、寝てる時、ブッ倒れてる時、瞑想状態(夢想定、滅尽定)にある時。


第六章 正?唯識 ―唯識ということ

・識の変容の三つのあり方全てを分別と規定する。

・ありのままの世界は、まず阿羅耶識の影響により「私の見る世界」に変わる。そして、末那識が自己を構想して、意識が「世界を見ている私」と「私に見られている世界」との主客の関係を形成する。

・「ないものをあると思い込んだり、あるものをないと思い込んだり」する分別(虚妄分別)は存在する。しかし、その思い込みにより捕捉されたものは当然存在しない。主観と客観は思い込みにおいては存在しているが、実際は存在していない。思い込みという心的活動は存在する。

・その場合の客観として把握されるものが「我と法」。

・デカルトは「全てを疑っている『考える我』」は確実に存在するとしたが、唯識では「全てを疑っている『考える我』が確実に存在するという思い込み」だけが確実に存在することになる。


第七章 心法生起 ―心の働きの起こり

・外界は阿羅耶識が生み出した器世間であるが、そのような外界を拠り所にして、識の内部にイメージが生み出される。(★P193、よく分からない。外部に何かがあって(仏教的には外部に興味関心を持たないとしても)それに触発されて阿羅耶識にイメージが生まれるというなら分かるが、その外部を阿羅耶識が作るとなると、その元々の外部はどうやって阿羅耶識が作るのか?)

・阿羅耶識縁起を成立させる総体の潜在的な力を「展転力」という。(※というのはいいが、名前を付けられてもこのエネルギーが何によって生じているのかがよく分からないぞう)


第八章 有情相続 ―生死と心のつながり

・業の蓄積である習気が輪廻における身体的存在を形成する力となっている。

・それプラス、主観、客観の認識構造が阿羅耶識に保持されて、次の生における主観、客観の認識構造となる(ことによって、同じ人間に生まれても個性が違ってくる)(※輪廻のメカニズムは理屈は分かるがイメージはしにくい。主観、客観の認識構造が異なることによって個性が生じるというのは、「世界の見え方」が人それぞれに違うということだろうか? であれば、これは言語の影響が大きくなってくるが、それゆえに名言習気(言葉)があるのだろう)

・アビダルマでは実体性のない心身の機能が持つ影響力が輪廻の原動力になるとしたが、唯識はその機能を阿羅耶識に還元して考察した。(★P204、これも理屈は分かるがイメージしにくい。アートマンであれば、死んだ人の体から抜け出てひょろひょろとどっかに行く様子がイメージできるが、唯識において外界がないのだとすれば死んだ後はどのようにして輪廻するのか、どうイメージすれば良いのだろうか?)

・龍樹によれば、世界と自己が認識されているのは人間に必須である言語活動によるもの。言語は必ず二項対立において世界を認識する。私たちが認識している世界は言語による二項対立の多様な虚構的展開によって成り立つもの。この言語による虚構的展開を戯論といい、戯論の滅した状態を涅槃という。従って、言語で理解している涅槃は本当の意味での涅槃ではない。

・大乗仏教では釈尊は菩提樹下において究極の体験をしたと考えたが、唯識はすべてが空であるとしても、それは私たちが言語によって虚構的に構成している世界においての問題であって、言語仕様を離れた究極の体験自体(すなわち釈尊と同じ体験)は厳然として存在すると考えた。

・言語化された戯論の世界が「妄想されたもの」。言語を離れた究極の実在が「完成されたもの」。「妄想されたもの」からその妄想の出現する機能を取り払うことによって「完成されたもの」へと転換する。両者を媒介するのが「他に依るもの」である阿羅耶識縁起。


第九章 三性 ―心に見える三種の存在形態

・個別にあると妄想されている事象が遍計所執性(言語により把握された世界とその世界にある物々)。その個々に自性はない。枯れ尾花が幽霊に見えた場合、その幽霊は自性(それだけで存在しているもの)ではない。(※もちろん「枯れ尾花」もそれだけで存在しているものではない)

・インド思想の傾向として「世界は幻のようなもの」である。一方、ヨーロッパではキリスト教に基づくため、「世界は神が作った実在」である。

・依他起は縁起の言い換え。つまり、阿羅耶識縁起が依他起。依他起は唯識そのものとも言える。

・世界は全て唯識。そこに実在があると錯誤すれば遍計所執となって執着の世界。しかし、唯識であることを自覚して妄想されたものが認識から全て消え去れば悟りへつながる。

・準備段階の修行(加行)を完成しきると、忽然として瞬間的に真如を見るという。この時の決定的な体験とは空性の体認である。真如とは「その通りであること」の意味で、釈尊の体験と同質の体験がことばを離れて体験されている状態。(※全体ドカーンじゃねえの?)

・主観と客観の根源的分割が成立しない=無分別=無分別智を得ること=真如を見ること=円成実性。

・枯れ尾花を幽霊に見間違える(遍計所執性)。しかし、それに気づいて、「気のせいで枯れ尾花が幽霊に見えたんだ」と考える(依他起性(に気づいている状態))。その枯れ尾花でさえも言葉によって仮に設定されたもの(戯論)であると気付く(円成実性)。

・円成実を深く体験しないと依他起であることは深く知ることはできない。空性体験の後は分別知が空性に支えられて清らかな働きをする(得清浄世間智)。釈尊が菩提樹下で空性体験をしたのは、そこまでなら独覚だが、彼が独覚でなく仏陀なのは説法をしたから。日常生活を滞りなく行い、しかもその日常生活に汚されない。これが大乗の菩薩がモデルにする理想像。(※「全体ドカーン」の体験の後に、その体験が影響して一般的な世界認識が変化する。そうして変化した世界認識において釈尊は世界と関わったから釈尊は偉い、ということ)

・円成実には自性がある。「自性の無を自性とする」らしい。(※要するに釈尊の菩提樹下での究極体験のようなものはしっかりと有る、ということか)

・遍計所執は「有ではない」。依他起性は仮有である。円成実性は空性という自性はあるので「無ではない」。まとめると非有非無の中道になる、唯識は釈尊の正統性を受け継いでいる、と主張する。(※だからなんだと言うのか。そう思わざるをえない。こんなものは釈尊の言った「中道」というタームを何とか結びつけただけで、これに実際の意味があるとは思えない。単なる言葉遊びであり権威主義ではないのか? 中「道」は単なる理論ではなく実践の道だというが、この中道解釈が実践でどのような意味を持つのだろうか)

・唯識の修行階梯は、①資糧位(六波羅密や利他行を行う準備段階の準備段階)、②加行位(唯識を体験するための本格的な修行で教理としての唯識と密接に関連する。最終段階で空性を体験する)、③通達位(よく分からない。加行位の最終段階の一瞬の体験のことなのか?)、④修習位(先の体験で得た無分別智を持続的に体験する)、⑤究竟位(完成)。


第十一章 唯識位 ―修行の階梯と仏陀の境界

・資糧位の段階は唯識の意義を深く受け止めているが、主観、客観という認識構造の根本分割の事態が空であることを体得していない状態。なので、心が外に向かって瞑想などに専念していない。(※「ひきこもって瞑想ばっかしてんじゃねー」ってのが大乗仏教のスタートなのに……。終わった後で外に出ていくことを想定しているのだろうか?)

・主観と客観を分裂して認識しちゃうのはそういう種字(随眠)が阿羅耶識に眠ってるから。輪廻転生しても有情の体に伴って付いてきて、眠っているかのように潜んでいる。

・随眠は二種に分けられる。煩悩障は涅槃=解脱へ向かう際の障害となり、「我」への執着をもたらす(※主観を形成する)。所知障は菩提=智慧に向かうことの障害となり、「法」への執着をもたらす(※客観を形成する)。アビダルマは我への執着を消すことばかり関心が向かい、法の執着の方が克服できないからダメと批判した。

・資糧位では随眠を克服はできるが、消滅させれない。(※飲酒が習慣化している場合、飲酒を我慢することはできるが、長年の習慣により潜在化した思いが突き上げてくることがある)

・加行位では心の洞察をする。尋思という瞑想法。(※この瞑想法は要は外界のモノは言語によってそう名付けているだけ、というアイデアを植えつけるものだろう)

・そう考えている自分も空。

・しかし、そう考えてもまだ「空」をイメージとして捉えている。

・だが、この直後に突然に真如を体験するらしい。

・最初の強い体験が真見道(根本智)。その直後に相見道(後得智)。これまでの修行中の心のあり方を反省して、分別の随眠を除去する。後得智は体験から生じる分析的な智慧。これは釈尊が菩提樹下で体験をして、それを十二支縁起などに理論化したと考えるためである。

・出世間智(無分別智)を得て、菩薩が自利と利他の修行を繰り返し、「唯識」の体験を持続的に心身に刻み続ける。その結果、煩悩障と所知障が排除される。

・その修行過程は十段階で、それぞれに波羅蜜行(十波羅蜜)を修する。ただし初地に入るだけでも果てしない時間を要求する。

・迷いから悟りは依他起性という阿羅耶識縁起の総体を根本的に転換すること(転識得智)。八識をランクアップさせる。

・阿羅耶識が自己と他者・世界を偏向して認識する根源なので、それをランクアップさせ大円鏡智にすると、全てが偏向なく心に映し出される。

・末那識が自己を捉える働きをしているので、それをランクアップさせ平等性智にすると、自己と他者、主観と客観の分裂がなくなる。

・意識は日常世界の物事を差異化して個別の事象を認識しているが、それをランクアップさせると、個々の個別の悩み苦しみを知ることができる(ことによって対機説法が可能となる)妙観察智となる。

・前五識は具体的な世界への対応だが、それがランクアップすると有情を個別に救う具体的な働き、成所作智となる。

・初地の空性体験により平等性智と妙観察智が獲得され、仏陀になると大円鏡智と成所作智が獲得される。


おれまとめ

・アビダルマやってる修行者の間でヨーガが流行って、大乗教徒も影響受けてヨーガするようになった。彼らは般若経を信奉してたので、般若経の実践手段としてヨーガし始めた。また、般若経をアビダルマの分析方法で解釈するようになった。

・唯識は六識の背後に末那識と阿羅耶識を想定した。

・行為をすると阿羅耶識に何らかの「クセ」が付く(薫習)。その「クセ」に影響されて行為をするため、その行為がまた阿羅耶識に「クセ」を付ける。これが阿羅耶識縁起。

・阿羅耶識には認識したものを言語化して分別する機能(種子)もある。これにより人空、法空が阻害される。

・私たちが対象を認識し、それを元に行動しようとする時は常に阿羅耶識が働いている。

・うっかりさんの末那識が阿羅耶識を自己と捉える。これが迷いの原因。(同じものを見ても人それぞれで違う感想を持つのは、そこに「自己」があるからだと考えるが、違う感想を持つのは各々の阿羅耶識に溜め込まれた「クセ」が違うからであって、その「クセ」の総体を「自己」と勘違いする)

・阿羅耶識はしょっちゅう変わってるんだけど、末那識は阿羅耶識が変わってない、常の我と考える。そのせいで「我」があると考えて、色々と問題が生じる。

・末那識は自己保持と自己執着だが、自我意識ではない。「私は~である」と言語化して考える現代的意味での自己意識は第六意識の方。

・阿羅耶識に溜まっている「主観と客観を分けちゃうクセ」を排除して、末那識の働きを消しちゃえばゴール。

・ありのままの世界は、まず阿羅耶識の影響により「私の見る世界」に変わる。そして、末那識が自己を構想して、意識が「世界を見ている私」と「私に見られている世界」との主客の関係を形成する。

・言語が二項対立を引き起こしている。釈尊は菩提樹下で言語以前の体験をした(と大乗では理解する)。なら、言語以前の体験をすれば「主観と客観を分けてるクセ」は解決できるんじゃね?(※こうすると末那識の活動も自動的に消えるのか??)

・言語による一般的に認識される世界が遍計所執性。阿羅耶識縁起でできてるだけじゃん、と理解するのが依他起性。言語以前の世界を見るのが円成実性。

・円成実性の体験をした後に、分別された世界に帰ってきて説法する。(釈尊の体験→説法の流れで唯識も考えている)

・尋思という瞑想法によって「外界にあるものは、ただそういう名前が付けられてるだけ」という瞑想をすると、外の世界が空になる。そう考えてる自分も空になる。でも、まだ空というイメージが残ってる。これが突然に全部空になる。

・八識をランクアップさせればいい。阿羅耶識→大円鏡智でありのままに全てが見れる。末那識→平等性智で自分と他人がごっちゃになる。意識→妙観察智で良く気付くようになる。前五識→成所作智で衆生を救う具体的な行動をするようになる。空性体験で平等性智と妙観察智が獲得されて、仏陀(ゴール)で大円鏡智と成所作智。

・これってつまり理屈上、仏陀には(ほぼ)なれないんだから、「常にありのままに世界を見て」「衆生を救う具体的な行動を(完璧に)する」ことなんて出来ないってことじゃねーの?


分からないことまとめ

・一切法が日常世界に出現する可能性を秘めた種子として蓄えられているのが阿羅耶識。それゆえ、阿羅耶識を「一切法が現実化する可能態である種子を蓄えた心」という意味で「一切種子識」という。(★P53、よく分からない。五位百法の一つ一つが種子ということ?? イメージできない)

・外界は阿羅耶識が生み出した器世間であるが、そのような外界を拠り所にして、識の内部にイメージが生み出される。(★P193、よく分からない。外部に何かがあって(仏教的には外部に興味関心を持たないとしても)それに触発されて阿羅耶識にイメージが生まれるというなら分かるが、その外部を阿羅耶識が作るとなると、その元々の外部はどうやって阿羅耶識が作るのか?)

※どうも私は阿羅耶識が外界一切を作るというニュアンスが理解できないらしい。

・アビダルマでは実体性のない心身の機能が持つ影響力が輪廻の原動力になるとしたが、唯識はその機能を阿羅耶識に還元して考察した。(★P204、これも理屈は分かるがイメージしにくい。アートマンであれば、死んだ人の体から抜け出てひょろひょろとどっかに行く様子がイメージできるが、唯識において外界がないのだとすれば死んだ後はどのようにして輪廻するのか、どうイメージすれば良いのだろうか?)

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