【4/6】まとめ「『覚り』と『空』」


 お仕事メモ。


 ***

第一章 仏教の原点

・釈尊の「天上天下唯我独尊」は禅宗の伝説(なの?)

・釈尊には人間存在の謎、矛盾、危機が、老・病・死の苦しみとして自覚された。(※つまり四門出遊の老病死はそのまま老病死ではなく、人間ゴータマさんの「実存的不安」とでも言うべきものの象徴と言ってもいいかもしれない)

・不生・不死の涅槃を求めたといえど、無常の存在から永遠不変の何者かに変わってしまおうとしたのではない。むしろ、本来の自己のありように落ち着きたい。真実の自己を究明したいということ。

・釈尊が最初に目指したのは大国マガダ国の首都ラージャガハ(王舎城)。日本からパリやニューヨークに留学するような感覚。

・苦行中の釈迦は墓場に死骸の骸骨を敷いて寝床とした。牧童たちがやってきて、唾を吐きかけ、放尿し、塵芥をまき散らし、両耳の穴に木片を挿し入れた。(しかし、私は彼らに対して悪心を起こさなかったことを覚えている。私の<心の平静>に住する行には、このようなことがあった)(「マッジマニカーヤ」)

・釈迦は十二支縁起を悟ったと言われるが、文献によっては覚りと十二支縁起は直接は関係のないものとされている。「ウダーナ」では覚りのあと七日間法悦でエヘエヘして、その後、十二縁起を観察したことになっている。

・伝承によって釈尊の悟りの捉え方が異なるのは、後の仏教徒の「釈尊の悟り」の捉え方が違うということ。(すでに「阿含経」や「律蔵」の「仏伝」における釈尊の悟りの記述が多様。大乗仏教ではその悟りに新たな表現を与えている。「釈尊の悟りとはこれだ」と信じるのがある意味では仏教の各宗派であるとさえ言える)

・十二支が初めどのようなものとして具体的に考えられていたかは不明。「倶舎論」の説明によると、「無名と行」が過去生で、「識から有」までが現在世、「生と老死」が未来世と分類されている。(※良く分からない)

・初期の中道は苦・楽の二辺を離れることだったが、後に、有・無の二見(一方的に有る/一方的に無い)や断・常の二見(一方的に断滅する/常住である)を離れることも意味するようになる。

・「スッタニパータ」いわく、釈尊の言ってることは要するに「心を調え、感覚の対象や自我への執着から離れろ」ということ。そうすると、不生・不死の涅槃を実現できる。

・想を滅しようともせず、想が無いとも意識しないとき、真に想を滅したことになる。それは識別作用の死滅にも通じる。対象的認識や想念を否定して、主観-客観の分裂した心を統一していって、日常の分別がきざさないところに、かえって真実を見る智慧が生まれる。(※ウッダカさんのいう非想非非想処はこの辺りか? おそらく意味するところとしては「想が無い」と考えることは「想がある」ことを前提とするのであり、それでは真に「想が無い」というには不十分ということだろう。真に「想を滅する」ためには「想が無い」という意識すら消さなければならない)

・マガダ国の市民の子弟らも釈尊にひかれて出家などするので、「修行者ゴータマがやって来て子を奪う。修行者ゴータマがやって来て夫を奪う。修行者ゴータマがやって来て家を断絶せしめる」と人々は憤っていた(「マハーヴァッガ」)。今日の急進的な新宗教のように釈尊の宗教も"健全な社会"に摩擦を引き起こしかねないものであった。

・釈尊は善を求めて出家し、悟りを完成して法を説いて一生を終えた。善とはこの場合、社会的・道徳的な意味ではない。人間の根源的な開放である。それは豊かさからの開放でさえあったのである。


第二章 部派仏教の展開

・サンガに入団する者は、入団後ずっと指導してくれる師を求める。その師匠を和尚という。基本は和尚の指導の下に修業するが、坐禅や教義の学習に関しては専門の師について学ぶことも許された。その専門の師が阿闍梨。和尚と阿闍梨の本来の意味はコレ。(※クラス担任が和尚で、体育や音楽の先生が阿闍梨みたいな感覚か?)

・自然科学の立場に立っても、人間は分子・原子の集合にすぎないということになって、常住の自我など認められない。

・もし、本来存在しないものを誤って存在するとみなし、しかもそれに執着するとしたら、、これほど悲しいことはない。(※たとえば、偽の小切手をつかまされた人がいたとして、その小切手が風に吹かれたので必死に追いかけたり、悪者に取られることを過度に警戒していたとしたら、仏教はその小切手が偽物であることを指摘し、気づかせるような教え)

・アビダルマは釈尊が初転法輪で説いたとされる五蘊無我をさらに詳しく分析して、自我の空なることを説明した理論。

・たとえば「りんご」というものを、我々はそういう一つの個体が有ると考え、それが丸い形や赤い色や甘酸っぱい匂いをもっていると思っている。しかし、アビダルマの法の体系においては、あるのは色、香、触等々のみである。そういった五感の対象が個々別々にまず有る。りんごというのはそれら先にある別々の感覚を言語により後でひとまとめにしたものに過ぎない。「もの」はやはり幻想の産物でしかない。実際、我々の認識において最も直接的なものを考えるとしたなら、アビダルマの分析のようにならざるを得ない。

・縁起は単なる因果律とは異なる。因→果に縁(条件)を加味して見ていく。植物の種子が発芽し、花を咲かせる場合は、種子が因、花が果だが、土・水・日などの諸条件がなければ成立しない。この諸条件が縁。

・縁起における世界観では「超越的で思いのままに人間世界に介入してくるような存在(いわゆる神であろう)」を認めない。

・涅槃は初めからどこかに存在していて、修行してそこに到達する、というものではない。禅定を深めて、煩悩の激流を渡って、真にこの世とかの世を離れたところに涅槃は実現する。


第三章 大乗仏教の出現

・大乗仏教は正統的な部派教団としては考えられないもの。仏教の「新興宗教」。

・大乗経典を編んだのが「当時の誰か」であることは明らかだが誰かは分からない。だが、これを人々に説いて聞かせた者は分かっていて法師と呼ばれる者であり、音楽や手品や語りなどの芸に行きる一種の旅芸人である。彼らは決して正規の出家僧ではない。

・部派仏教が高踏化していたのに対し、民衆の心の琴線に触れるものを身をもって体得していた法師たちはこぞって大乗の新しい教えを語った。旧来の仏教僧からすれば法師らはどこの馬の骨とも分からぬいかがわしい存在で、公的権威を持たない新奇な教えを説く迷惑な存在であり、しかし痛いところを見事に突いてくる厄介な存在であっただろう。

・法華経の常不軽菩薩がみんなから迫害に遭ってたのも、そういううさんくせえ大乗仏教に敵意を持つ者への心の愛憎を表していると言える。

・我法二空ということは、この世界のどんなものも実は真に生まれたものでもないし、滅したものでもない。本来、生滅も去来もなく、したがって本来、寂静であり、本来、涅槃に入っている。つまり、我々の生死の世界も、実は本来、涅槃の世界そのものである。

・悟りを開いても特別に涅槃の世界に入るのではなく、生死の世界が涅槃の世界と別でないなら、自由に生死の世界に入れるし、生死の世界に染まることがない。これにより永遠の利他行が可能とされる。

・玄奘三蔵がインドへ向かう途上、悪鬼に囲まれて般若心経を唱えたら、悪鬼が声を上げて消えたという霊験譚がある。

・無自性であるがゆえに、菩薩は無量無数の人を涅槃に導くけど、涅槃に入る人も導く人もなんら存在しない。ひたすら大悲の活動を行って、微塵もそれに執われないことに繋がる。

・あらゆる存在が空・無自性であるという平等の本質を悟るとき、他者がそのことを知らず苦悩に沈んでいる姿を見て、おのずから何とか救いたいとの心が湧いてくるのであり、そこに人間の真実があると「般若経」は説く。(※これは言い換えれば「空を悟ったら他の人に教えてあげたくなるもんだ」「だから、"教えてあげたくなったから"釈迦も説法したんだ」ということだろうか?)

・大乗仏教では一般に仏になるまで三阿僧祇劫かかる。一劫は四十里四方の石を百年に一度柔らかい布でなでてその石がすりへりなくなる時間。阿僧祇とは無数のこと。阿僧祇劫は無数の劫ということでほとんど無限といっていい時間。(※部派仏教は「がんばったら阿羅漢にはなれるよね。仏陀にはなれないけど」。大乗仏教は「頑張ったら仏陀にだってなれるさ! ほぼ無限に近い時間を修行すればね!」。ただし、華厳経では信満成仏と言って、「信解が得られたら仏になったも同じだよね」という考え方もある)

・久遠実成の釈迦牟尼仏を説くということは、ほとんど無始以来、この世に仏の大悲が差しつづけていることを説くことでもある。

・親鸞は法蔵菩薩の本願の、初めは第十九願により、次に第二十願により、最終的に第十八願によることによって救われた。「三願転入」。(19で「そっかー。御来迎があれば救われるんだー。でも、御来迎がなかったらどうしよう……」。20で「そっかー。念仏すればいいんだ。でも、どのくらい念仏すればいいのか分からないよう」。18で「なるほど! 10回念仏すればいいんだ!」)

・サンスクリット原文によれば「いろいろな善根がそのために熟するように振り向けたとしても」の条件付きで、「仏国土に生まれたいという心を起こすことが十返にすぎなかったとしても」なのだが、中国・日本では「十回念仏すればオッケー」と読み取られた。また、観想念仏から口称念仏でよいとし、「乃至十念」を「一念乃至十念(1回~10回)」と解釈して1回でも良いという説すら出てくる。

・無量寿経にも「諸仏が阿弥陀仏を讃えるその名号を聞いて、信心歓喜すること一念すればただちに往生」と書かれており、「一念乃至十念」の読み方を支持する根拠となっている。

・もちろん人が如来となった時には、他の人々にさかんに働きかけていくであろう。如来蔵思想の根本は、如来の働きかけをうけて如来となり、如来として人々を如来に仕立てていくという無限連環のことであり、まさに大乗仏教の主題を純粋に取り出したものといえる。


第四章 空の論理

・「中論」には「行くものは行かない」など、逆説的な表現がいたるところに出てくるが、これは日常言語表現が矛盾をはらんでおり、解体されざるを得ないことを示そうとしている。

・龍樹が隠身の術を使ったのはどこか空の思想を象徴しているようである。

・十二支縁起は因果関係を繰り返し覚えてもそれで無明が滅するとは考えられない。縁起の修習は一切が空であることを見ることにまで達しなければならない。縁起観がおのずから空観へと深められなければならない。中論はそういうことを言ってるらしい。

・「我々は『私は○○する』というように、主体としての主語をたて、それに動詞で述語することを日常、不断に行っている。そこでは実は、無意識のうちに、一切の作用以前の私という、現実世界とは没交渉の実体的我を想定している。あるいは、元来、あらゆる作用を離れた静止的な実体が存在していて、しかもそれが時に応じて作用するという致命的な矛盾を平気で認めているのである」

・空、無自性という知見を得て、しかも一面的にそれに固執するならこれも否定されねばならない。空をも空じた空空へと透脱されなければならない。

・真理の世界は不生・不滅であり、戯論を離れており、言語を離れている。このことを知るがゆえに、かえって相手に応じて適切な言葉を立てていくことができる。そこに仮設としての言葉がある。龍樹は言語を超えた地平を見ていて、しかもそこから自由に言葉を操っている。

・龍樹は王に対し、「我意識を止息させる法が正しく理解されないならば、ともかくも、施し、戒め、忍耐の法に専念して下さい」と、「難しいこと分かんなかったら、六波羅蜜の初歩をともかくもやっといて」と言ってる。(※釈迦と同じで、出家者じゃない人にはそんなに厳密なことは言わない)


第五章 唯識の系譜

・いわば識が描き出している映像があるのみで、個体的、実体的な物や自我や存在しない。

・唯識は阿羅耶識という識があることを確信させるために説かれたものではない。唯識は唯識ということ自体さえ自ら否定する構造を持つ教え。

・唯識の修行は唯識観の観法が中心となる。はじめに、実在する対象は存在しないということを観察する。次にそれに見合う形の実在する主観もないことを観察する(対象と主観は相対して初めて成立するから)。主観-客観の分裂を取らず、「世界は唯だ識のみである」という諒解さえ「対象的な認識」として否定されたとき、無分別智が開かれて真如が示される。

・唯識の教学は悟りへと導くための方便。それ自体が最終的な真理というわけではない。唯識は自らこれを自覚している。「所詮は言語により表現されたものだけど、一定の論理的な反省がなされた言語体系」と自覚している。(※つまり、修行によらず論理だけで描かれた世界はあくまで真理には到達できないということだろう)

・「仮に外界に物が存在するとして、我々は決して直接それを確かめることはできない。認識することはできない。素朴な認識のモデルによっても、外界の刺激が何らか信号化され、それが神経を伝わって脳に達し、そこで脳が信号をもとに像を再生したものを、我々は見たり、聞いたりしていることになろう。まさに映像的世界である」

・「我々は映像的現象に対して言語を立てて、そして逆にそこに常住不変の物の存在を認めるような認識を行っているのが実情というわけである」

・「円成実性は依他起性の本性である。それは、我々が迷っていようが、多量に煩悩、随煩悩の心所が生起していようが、その依他起性の本質・本性として、我々の足下にある。それを自性円成実という」

・唯識の修道過程では八地以降は我執はなくなってしまう。ただ、救うべき衆生はいる、実現すべき菩提はある、といった法執をあえてわずかにおこして、自由自在に人々を救済していく活動をするようになる。(※「仏陀はどうやって利他行すんの?」に対して唯識では「あえてちょっとだけおこす」と考えるらしい)

・「平等性智、妙観察智は初地におきるのであったが(第七識・第六識がそのときそれにすっかり変わってしまうというのではない。初めのうちは、一時的あるいは修行時のみにおきるのである)、大円鏡智、成所作智は仏果に至って初めて実現する」(※一枚悟りのようなことだろうか?)

・「中観派は一切の言表を、論理的に成立しないものとして退けるのであったのに対し、唯識は見られるものと見るものが同じ一つの識の中にあるという識や、縁起で生じても刹那のうちに自然に滅するという刹那滅など、おそらく形式論理的にはそれ自体すでに矛盾そのものである概念をもとに、とりあえず我々の我法の実体視の虚妄性を解明してみせてくれたのであった。その意味で詭弁を弄するかのような『中論』は、矛盾律を駆使するなど案外、形式論理を守っているのであり、理論的整合性をどこまでも追求しているように見える唯識の哲学は、かえって既成の論理を超えた論理に根ざしたものなのである」(※形式論理学が良く分からないので良く分からんが、とにかく唯識の方が「論理的」からは遠いらしい)


第六章 その後の仏教

・南都六宗の倶舎宗は『倶舎論』を研究する学派。成実宗は『成実論』を研究する学派。実際は倶舎宗は法相宗の、成実宗は三論宗の中で研究された。

・三論宗は龍樹の『中論』『十二門論』、その弟子アーリヤデーヴァの『百論』の三つの論を研究する学派で中観派の流れを汲む。

・法相宗は『唯識三十頌』を根本とする『成唯識論』の教学を研究する学派で瑜伽行派の流れを汲む。

・華厳宗は『華厳経』に基づいて、智儼や宝蔵が理論的に整理した教学を学ぶ学派。

・律宗は各宗に共通で、教団の基礎となる戒律を学ぶ。

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