【3/10】まとめ「仏教誕生」


仏教誕生 (ちくま新書)仏教誕生 (ちくま新書)

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 お仕事用メモです。

・最初期のヴェーダの宗教における輪廻転生(五火説)→死んで焼かれた後はいったん月世界に行き、そこでしばし留まった後に、雨となって地上に落下し、植物に吸収されて穀物などの食物となり、それを食べた男の精子になって、女の胎内に注ぎ込まれて胎児となり、かくしてまたこの世に生まれる。

・「不死」とは死なないことではなくて、もう輪廻しない(もう生まれないからもう死なない)こと。それから先一回しか死なない。

・「解脱はどうすればいいのか?」という疑問からスタートして、輪廻のシステムを考え出したのがヤージュニャヴァルキアさん(ウパニシャッド)。輪廻の主体はアートマンで、輪廻の原動力は業だという考えは彼によるもの。この人は紀元前六世紀の人なので釈迦の100年前くらいに、今の僕たちがなんとなく知っている「いわゆる輪廻転生」の考えが生まれたことになる。

・ヤージュニャヴァルキアさんは「いわく言い難い真実のアートマン」を感得することが解脱であるとし、アートマンが輪廻すると見るのは「無知による惑わし(気のせい)」だとした。

・日常生活を送っていると必ず善悪の業を積んでしまう。それだと輪廻しちゃうので、善悪の価値基準を捨てた生活、つまり、俗世間を捨てた生活をしなければならない。それが出家である。

・ヤージュニャヴァルキアさんが追い求めたのは「真実のアートマン」。みんながアートマンだと思ってるのは「真実のアートマンではない」。真実のアートマンは言葉で表現できず、「わたしは~~である」ではない。あえていうなら「わたしは~~ではない」。

・真実のアートマンを感得するためにはそれなりの行為(修行)がいる。ヴェーダの読誦、供犠、布施、苦行、断食など。世俗的生活をしながらこれらをやっても感得は難しいので出家しちゃう。

・保守的バラモンにとっては働き盛りの男たちはしっかり稼いで、その稼ぎを(祭祀などの見返りとして)バラモンに納めてもらわないと困るので、出家がブームになるのはビビってた。なので、バラモンたちは林棲期の後に遊行期を設けて、「ようし、わかった。十分に稼いで子孫を作って、しっかりオレたちにカネを納めた後のジジイになったら、好きなように出家しろ」という形にした。

・ガンジス川中流域はお米が安定して採れたので経済的にも発達して、ニートを大量に養える余力があった。よって、出家者や自由思想家たちが大量にいた。

・プーラナ・カッサパさんは道徳否定論ではなくて、解脱の境地は善悪の彼岸にあると言いたかったのではないか? 釈迦との違いは、釈迦がビギナーには「まあ、そうは言ってもイイことしなよ」といったのに対して、プーラナさんはビギナーにも「善とか悪とか関係ねえ」って言って、ビギナーたちがビビったことではないか? 釈迦は究極的には道徳否定論者であるが、初心者教育に当たっては善悪を説く道徳家でもあった。

・天上天下唯我独尊は「神々をふくめて、この世に自分より優れた者はいない」。このままでは単なる鼻持ちならねえヤツなので、学者は色々と肯定的な解釈をしているけど、ウパカさん相手に説法しようとして失敗した時のセリフを使っただけでは? 釈迦が生まれた時から偉大だったということにするための神話では?

・当時、修行法には苦行と禅定があった。六師外道の皆さんはみんな苦行をやってたので、苦行の方がメジャーだったっぽい。一方、禅定の方で当時有名だったのがアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタ。

・アーラーラさんの「無所有処定」は(仏教の「無所有処定」と同じものだとすると)「この世にはおよそ存在するものはない。空々漠々たるのみ」ということを瞑想体験として得る心的状態らしい。

・ウッダカさんの「非想非非想処定」は、「無所有処定」で「認識の対象は全くない」という体験を得た後に、「しかし、無の認識がある以上、区別して認識するということがないわけでもない。ただそれをそのままに受け入れるのみ」という心境らしい。

・釈迦はこの2つでは「解脱できねーな」と思い、師の下を離れた。

・釈迦は2人の教えにはこの体験の次に得るべき「智慧」がないと考えた。釈迦の教えは合理的思考で理屈っぽいものである(※宮本先生がここで言っている「初期仏教における智慧」は後の大乗仏教的なニュアンスでの「智慧」と違い、合理的思考に基づく理論、といったものと思われる)。大乗仏教では禅定の最高境地である「三昧」をもって解脱と見なす傾向が次第に強くなり、智慧が軽視された。

・三昧は禅定に向いている人なら結構簡単にできちゃうもので、三昧体験を驚異的なこととして尊ぶのは「向いてない大多数」が「なんかスゲエ」と思って憧れただけに過ぎない。釈迦は「すごく向いてた」人で、なので、アーラーラさんとかのテクをすぐにマスターした。禅定の最大の問題はそこから元に戻っちゃうことで、老いや病や死から最終的に逃れる方法とは釈迦には思えなかったこと。

・ブッダは「~~に目覚めた人」ではなく、「~~から目覚めた人」。「夢から目覚めた人」くらいの感じ。夢とは、生への執着に絡め取られ右往左往するだけを余儀なくされていた状態。仏教は「目覚めた人の教え」。

・説法をするのをためらってる時の釈迦→「どうせ教えを説いても誰も理解しないだろうし、疲れるだけだからやんなくていいや」(「サンユッタ・ニカーヤ」)

・梵天勧請は後代の神話的捏造であろうが、釈迦の心変わりを釈迦自身がなんとなく説明しづらかったので「いやー、梵天が来たんだよ」くらいに言ったのかもしれない。

・バナーラスに向かう釈迦はウパカさん(アージーヴィカ教徒)に出会って、「なんじは誰を師としてなにを正しい教えとして信奉しているか」と問い掛けた。対して釈迦は「自分は全てに打ち勝ったものであり、全てを知る者である。自分には師はいないし、また神々の中にも人間の中にも自分に並ぶようなものはいない」と高らかに言った。ウパカさんは、「ああ、頭のおかしい人だった」と思ったことだろう。「自分でそう仰るなら、まあそうなんでしょうな」と言って去っていった。釈迦の最初の説法の試みはこうして失敗した。

・五比丘に再会して、五比丘が「ゴータマさん!」と懐かし気に呼びかけたら、釈迦は開口一番「わたしに呼びかけるに本名をもってしてはならない」と叱責した。

・「釈尊にとって、ある種肝腎なことがらを外すことがなければ、あとのことは、その肝腎なことがらに資する可能性が多少ともありさえすれば、どうでもよいことだった」※世俗倫理における「善」に対する釈迦の態度とも言える。基本的に「どうでもいい」。どうでもいいから、「どちらかと言えば善いこと」は「どうでもいいので」良しとする。

・釈迦が食って腹痛になったのは「スーカラ・マッダヴァ」。「柔らかい豚肉」か「豚が掘り出した茸(つまりトリュフ)」のどちらか。これで食中毒を起こしたというのが一般的な説だが、元々直腸癌で(その前から体調が悪かった)茸の消化不良で悪化した可能性もある。

・仏教の最終目標であり、釈尊その人が到達したところは、「生存欲を断つこと」。これに到達したものはこの世に生きることに何の意味も見いださず、したがって、何の価値判断を下すこともない。ただし、釈迦は「存在論的に世界は虚妄である(真に実在するものなど何もない)」と言ってるわけではなく、「意味論的・価値論的に世界は虚妄である(世界には何の意味も見いだせない)」と言っている。

・「断食という苦行をうまくやれば食欲と性欲は見事に消滅するし、幻覚剤メスカリンを服用したのと酷似した意識の拡大が起こる。心身の清澄なること、余人の想像を絶するものがある。釈尊がかつて断食に耽溺した一因は、おそらくこれだと推察される」

・ただし、断食を止めれば清澄な気持ちはなくなってしまう。恒久的に食欲と性欲とを抑えこむには徹底的に合理的な理念(智慧)が必要になる。釈迦はこのため苦行を捨てた。なお、断食で心身の清澄を得る体験をする人は稀である。

・ジャイナ教は生存欲を生理的に止めてそのまま死んでしまうが、仏教では食欲中枢、性欲中枢をまったくの機能不全に陥れるのではなく、生存欲を持続的に抑制する安定した心的状況を確立した。性欲機能は完璧に抑制しつつ、生きるに足る程度に食欲を解放するという器用なことをしている。

・成道後の釈迦には善悪はまったく存在しない。ただ、釈迦は究極の目標に達してない人に向かっては、悪をやめるよう勧めた。悪をなしている限り、本格的な修行にとって必要な心の安定が得られないからである。釈迦の言う善悪の峻別は方便ではないか?

・民衆教化路線により釈迦は超人的な存在となり、崇拝対象となった。祈れば救われるので簡単。大乗仏教はその上に開花した民衆宗教であり、智慧が安易に扱われ、「たんに生理的、心理的な現象に過ぎない三昧に至れば、「自動的に」智慧が全面的にそなわる」となった。

・毒矢の喩えは「理屈、理論よりも実践修行が大切」ということを説いたと言われるが、釈迦は理論を軽視してはいない。むしろ、理論、理屈をよく理解し、頭にとどめておかなければ正しい修行は不可能だとした。釈迦が不可としたのは「ろくな結論もでない議論」である。

・釈迦は成道後、苦楽中道的な生き方を貫いたが、彼にとってこれは修行ではない。「釈尊は生涯に渡って修行生活を送った、覚りは修行のなかにのみ現れるからである」とする道元禅師の解釈は彼独自の美しい誤解である。

・苦行はソーマ(幻覚剤)の代替物。苦行はうまくやればメスカリンみたいな効果が得られる。苦行によってハイになったら、その状態を「スゲエ状態」と考えて、「すげえオレ」で神々をビビらせて、取引により願望を達成しようとする。ヴェーダのバラモンたちにおける苦行の意味合いはこの辺り。

・その後、時が下って、輪廻思想や出家がブームになると、出家者は「世俗の享楽的生活を否定する実感を得るため」「輪廻の原動力である善悪の業(とその原因になる貪欲)を力づくでねじ伏せるため」に苦行を行った。

・一方、瞑想(ヨーガ)の方はアーリヤ人侵入以前からインドの先住民族にあったもの。苦行が雑念を力づくで抑えつけるのに対し、雑念と言う心作用そのものを静かな精神集中によって沈静化しようとする。

・苦行と瞑想とどっちが解脱を得るのに有効かというと、釈迦の時代には苦行の方が優勢だった。なので釈迦も苦行をしてたけど、最終的には瞑想を取った。

・釈迦が苦行を捨てたのは、苦行が苦しみに耐える心を養うことはできても、苦しみそのものを発現せしめる心的機構を解体するものではなかったから。苦行で苦しみを最終的になくすことは不可能と考えた。心的機構を解体するのは智慧である。智慧とは合理的思考のことであり、当たり前のことをまともに当たり前の事実として受容する態度のこと。

・四無量心(慈・悲・喜・捨)であるが、釈迦にとって捨(自他共に根本的にはどうでもいい)は完璧だったので、慈・悲・喜は意味のない世界をあたかも意味があるかのごとく生きるための幻術であり、方便だった。捨が欠落していれば、他三つはかえって修行者を仏教から遠ざけるいまわしい心理的要因でしかない。

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