【1/29】まとめ_『密教』松長有慶


 お仕事用メモです。

メモ:四度加行は一生に一回、ナントカ灌頂も一回
メモ:印と真言と観法(手で真理をイメージし、声でイメージし、イメージでもイメージする)


Ⅰ ヒマラヤを越えて

・日本密教とチベット密教の相違が生じた理由→「1、日本は中国を経由しているから(密教は各地の民族宗教を取り入れて姿を変える)」「2、日本はインドで八世紀頃までに栄えた密教(を中国が受け継いだもの)を引き継いでいるが、チベットは十一世紀以降のインド後期密教の影響を強く受けている(インドの後期密教はヒンドゥーの色彩が強い)」

・中国には漢民族の文化があったためインド仏教も中国的な変容を遂げた。チベットはそれほど高度な独自文化がなかったためにインド文化を素直に受け入れた。

・密教って呪術的要素が多いんだけど? → 釈迦はバラモン教的な呪術や儀礼を禁止したが、たとえば森林を歩く際に蛇除けとして大声で呪文を唱えながら歩き、前もって毒蛇を追い払うような生活技術に関する呪文まで禁止することはできなかった。たてまえとしては禁止していたが、実際は呪術や儀礼が全面的に排除されていたわけではない。(※これが事実なのか松長先生の推測なのか分からない)

・ヒンドゥーとして通常の生活をしている者が在家信者になるのだから釈迦の教えが変質していくのも当然。

・大仏が刻まれたのは大乗仏教が成立した頃。仏像に香や花を献じて瞑想を行うという宗教儀礼は二世紀頃に始まっている。

・般若経や法華経にも経典を読んだり書いたり聞いたりすれば様々な災難より逃れると書かれており、密教だけでなく仏教も呪術的、神話的なこととは無関係ではない。

・初期密教経典(雑密)はほとんど呪法の経典と言っていい内容で、仏説という形式を取っているが、内容は現世利益が主体。中期の密教(純密)になると唯識、中観、如来像といった大乗思想を根底に据えている(理論化される)。

・タントリズムはなんでうんこ食ったりするの? → タントリズムは徹底して自己の本源に帰ろうとする。そこでは一切の社会的規範はかえって束縛となる。かえって社会的なタブーを犯すことによって自己の絶対的な自由を獲得しようとする。「バラモン教の支配する社会制度、習慣に徹底して逆らい、そこで尊重される浄の観念をあえて放棄するのが、タントリズムの行動様式」「本来的には絶対者にほかならない人間の肉体の本質にせまろうと努める」(でも、師匠をナメるのだけは許されない)

・後期密教のタントラは十一世紀頃に漢訳されるようになったが社会的規範の厳しい中国社会では受け入れられず、その精神は活かされなかった。日本密教は八世紀までの中国密教を引き継いだためタントラの影響がほとんどない。

・空海の師匠の恵果は、インドでほとんど別個に展開した『大日経』と『金剛頂経』の両系統の密教を一系列に統合しようとしたらしい。この一元化の思想が空海に継承されて真言密教の教学の基本となる。

・日本における仏教受容の決め手は仏教の高度な思想性ではなく、「在来の民俗信仰の神々に対して、より呪術的な効力を持つという点」。(しかし、このようなちょっと勘違いした受け入れ方は、日本だけではなく東アジア各地でも民衆はこんな受け入れ方をしてたらしい)

・奈良時代にはすでに密教経典が少なからず写経されているが、ほとんどは陀羅尼を主体とする経典であって、密教の思想面に対する関心が示されている形跡は見当たらない。(空海・最澄が持ち帰るより前に密教は来てたらしい)

・空海は恵果にならって『大日経』『金剛頂経』系の密教を共に授かって帰った。呪術的雰囲気が濃厚なそれまでの密教に対して、大乗仏教の思想によって裏付けられた理論体系と、それに基づく実践法を備えたところが特色。

・日本の神仏習合は奈良時代に始まるとされるが、目に見える形で進み始めたのは真言、天台の両宗において。


Ⅱ 人間と宇宙

・現象世界の中にこそ真実なるものが存在する。「煩悩即菩提」「俗諦即真諦」など一件正反対の概念を即で結びつけて、本質的には同一であることを示そうとする。

・「法」という言葉は仏教では相反する二つの意味を持つ。現象世界を示す時と、絶対世界を示す時。現象世界の中に実在を見出す仏教の考えを映し出したもの。(ただし混乱をきたすため、後に大乗仏教において、実在を意味する時は「法性」という言葉を作り出した)

・大乗仏教では誰でも仏陀になることができると説く。六波羅蜜への実践が成仏への道。これは誰でも実行可能だが、完璧にやり遂げるとなると絶望的。今生で達成できなければ来世で~と生を無限に重ねることになる。(※ユダヤ教と戒律の関係みたいだ)

・そんなヤベエ成仏を今生一発でやっちゃうのが密教。密教では人間存在そのものが絶対存在。ミクロコスモス以外にマクロコスモスはないと考える。現実に存在するこの身体をおいて、悟りはありえない。レッツ即身成仏。

・応身である釈迦には説法がある(歴史上現れたゴータマさんは説法ができる)。法身は真理を仏心に見立てたものだからそれが説法することはない。これが大乗の常識。でも空海は「法身だって説法するよ!」と言った。これが顕教に対する密教の特色の一つ。

・といっても、別にいたこや霊媒を通じてその声を聞くのではない。法身はいつも声ならぬ声で語りかけてくれてるけど、我々の方にまだそれを見たり聞いたりする能力がない。その能力開発がポイントとなる。

・歴史上のゴータマさんの教えは時間、空間の制約を受けるから具体的になる。具体的だから分り易いけど、誰にでも通じるわけではない(→対機説法)。一方、法身の説法は無限定であり、だれのために、どこで、といった制約を持たない。じゃあ、何が楽しくて法身は説法してるかといえば、法身が楽しいからやってるらしい(自受法楽)。

・密教の「秘密」には二種類の意味がある。「如来の秘密」は衆生のためを思って、衆生の進捗に応じて公開したり秘密にしたりするもの。「衆生の秘密」はこちらの受け取る能力が欠けていて、自分の責任で秘密になっているもの。

・仏教経典のほとんどは釈迦がどこかの場所で人を集めて説法するところから始まってる。対して、『大日経』や『金剛頂経』では説き手は大日如来(薄伽梵)だし、場所も金剛法界宮だとか大摩尼殿だとか訳の分からん場所となり、聴衆も菩薩となる。舞台が実在から架空へ移ったのは、仏教が歴史上の人物、場所といった限定されたものから、時間と空間を超越した宇宙的空間に枠組みを広げたことを意味している。

・大日如来は太陽の神格化ではない。宇宙の永遠性、普遍性を仏としたもの。大日如来は太陽を喩えとするが太陽の持つ有限性を超えている。太陽の特性に喩えられるが、普遍と常住の性格を併せ持った思議を超えた宇宙的存在。(※石濱先生は釈迦から大日如来まで全て太陽のイメージで説明していたが、この辺り意見が割れているのか、それともコンフリクトしていないのか分からない)

・大日如来は時間と空間を超えた存在なので、われわれの認識活動によって把握し尽くせるものではない。ただ宗教的な直感を通じてその中に入っていくことが可能となる。

・本尊と行者、相対する二つの存在が本質として一であることを行者は体験として知っているが、なぜ両者が本来的に別個でないのか、どうして二が一になるのか、理論的に説明できなかった。空海は六大説によりマクロコスモスとミクロコスモスの一体化に理論的な裏付けを与えた。

・六大とは、地、水、火、風、空の五大と識大を合わせたもの。大は根源的なものという意味。初期仏教では六大を宇宙の本体と見なす。大乗仏教の『般若経』では六大を空としてその実体を否認する。

・空海は「六大が宇宙の構成要素」と考えたのではない。つまり、全体はいくつかの要素に分解され、要素が集まって一つの全体となるという思考方法ではない(それは何ら目新しい見解ではない)。

・空海は六大を宇宙の六種の象徴と見た。すなわち宇宙という一つの完全体が六つの方向から見られる面を持つということ。六大は法界を体とするものよりなった身、つまり仏身であり、マクロコスモスでもある。六大は相互に融通無碍に相応し合い、常住不変で実際に住す。つまり真実そのものである。

・六大は仏の身体であるとともに行者の身体でもある。マクロの世界もミクロの世界もともに同じく六大よりなる。よって、マクロの世界もミクロの世界も本質的に異ならない。さらに空海は仏と衆生だけでなく、自然界も六大よりなると考える。天体現象も鉱物も仏や衆生と同じく六大よりなる。

・自我意識にとらわれ自己を中心に世界を見るとき、そこに対立する意識が鮮明となり、ものごとを二元的に把握する。仏教はこの自我意識を否定し、無我を説く。自我を中心に展開する世界には対立する他者が存在するが、自我意識をなくすれば対立はもはや存在しない。自分も他人も、動物も植物も本来一体のものとして捉えるところに、仏教が説く慈悲の精神の原点が見いだされる。

・主体と客体。密教ではその関係を「智」と「理」という独特の言葉で表す。

・人間の認識作用の基準は相対的で、それだけにたよっては、時間と空間を超越した真実の世界を見透かすことができない。物と心、主と客など対立概念は、無量、無辺の真実の世界では一つである。


Ⅲ 自己の発見

・近代人は自己を中心として世界を見る習慣が身に付いているが、このような固定的な視点を放棄するところに密教の出発点が存在する。己を中心として世界は展開していると見るのはちっぽけな自我であり、密教ではこのちっぽけな自我に対する倒錯を執着とみなし、それを徹底的に打ち破ることがまず必要だと言う。

・人間は生まれてから大地に足をつけ、太陽を眺めるが、宇宙飛行士たちは虚空の中で太陽と地球を見る。自我という大地にしがみついて見続けてきた大地を、自我という母体から離れて大空の中からのぞく。その時、今までとは全く違った無限の視野が目前に広がる。

・インドにおけるヨーガは瞑想を通じて精神を統一し、絶対者と合一することで自らの中に宇宙意識を見つけ出す方法。

・初期仏教で教団員が必ず学び修せねばならぬさん項目は戒定慧。その定とは禅定のことでヨーガの一種。ただし仏教では絶対者を認めないから、禅定という修行は絶対者と行者との一体化よりも瞑想を通じての精神統一に重点が置かれる。心の諸機能を制御し、意識の働きを停止させることによって涅槃、すなわち悟りに入る目的を持つ。

・現象界のことごとくが人間の認識作用のあらわれにすぎないとみる唯識学派の見解はヨーガの行を通じて得られるとされる。(なので唯識学派=瑜伽行派)

・ヨーガは美容体操ではなく、精神統一により宇宙意識を獲得するための実践法であり、身体の機能を活性化させ、人間に生まれながらに備わった完全性を回復する目的を持つもの。

・阿闍梨による弟子の認定は目で見てのチェックだけでなく、弟子に前夜に見た夢の内容を詳しく報告させ、それによって受法の適、不適を最終的に決める。(※夢見なかったらどうすんだろう)

・仏や菩薩の印契や持ち物は仏や菩薩を区別する基準となるものだが(印契や持ち物で名前が分かる)、本来はそれぞれの仏や菩薩の悟りの内容を象徴として表現したもの。言い換えれば、印契や持ち物は「宇宙の真理の一面を凝縮して形を取ったもの」。

・印契が形として真理を凝縮したものに対して、音を集約したものが陀羅尼、あるいは真言。元々サンスクリット語で発音されるものが中国を経由してるために元の発音や綴りを失い、意味がわかりにくくなったりしてる。あるいは、インドにおいて、風の音や鳥の音など元々意味を持たないものがそのまま陀羅尼に取り入れられたりする。その場合は、内容の理解よりも、音の持つ力に何かの目的をもって期待が寄せられている。

・音とか言葉は意味や内容を他に伝達する手段だけでなく、そのもの自体に不思議な威力が備わっているという信仰は洋の東西を問わず古くからある(言霊)。インドにおいても古くから、真実の言葉は魔を寄せ付けない力を持ち、幸運をもたらすと信じられていた。

・よって、真実のことばがぎっしり詰まっている経典には、それを受持し、読誦することで、厄を払い、福を招く呪力が付随すると信じられた。翻訳された経典でもそんなスーパーパワーがあるので、元々のインドの音韻を持つ真言や陀羅尼はもっとスゲー功徳と考えられた。

・一般に荒行と言われている山岳修行とか水垢離の行とかは、密教では前行とでも言うべきものであって、本来的なものではない。

・灌頂を授かる前に修する行が加行。瑜伽の前行にあたる。四段階あり、四度加行という。十八道、金剛界、胎蔵界、護摩。空海の頃はまだこのような加行の組織は出来上がっておらず、現在の四度加行になるのは鎌倉時代初期。

・灌頂を受けるものは阿闍梨から木片が与えられ、それを歯で噛む。その歯形を持って阿闍梨は灌頂を授けるに足る能力をもつ人物か否かを判定する。(※意味が分からない)

・密教では真理を言葉とか文字だけによって十分理解されるとは考えない。真理はこの現実世界に、形、色、姿、音、香り、味などを通じて象徴的に表現されていると説く。したがって密教では、荘重な儀礼もまた真理の重要な表現方法である。密教が大規模な宗教儀礼を執行するのは、このような思想に裏付けられている。(※密教がビジュアル系仏教な理由はこれか)

・即身成仏は行者の観法による功徳力と、如来から差し出される救済力と、宇宙万物に宿る生命力、これら三種の力の総合形態の上に成り立つ。

・加持は一般には祈祷により病気を治したり、不思議な現象を目の前に表したりすることのように思われているが、本来は、仏の方から力が加えられ、それをわれわれが受け支える、そのような働きを言う。

・『大日経』の観法で代表的なのは五字厳身観(五大観)。大日如来を象徴する五大を意味するサンスクリットの五文字を観想の中で身体の五ヶ所に布置して、行者の身体と、仏の身体の入我我入をはかる。五輪の塔婆は宇宙の象徴であって、観法の中で行者の身体の頭上、眉間、胸、臍、尿道に配置される。われわれの身体が仏身にほかならぬことを直感できるよう構成されている。

・『金剛頂経』の代表的な観法は五相成身観。五段階に分かれた観法で、行者が自己の心が本来清浄で、その身体が仏身に他ならないことを月輪とか金剛杵を観想することによって悟るよう組織立てられている。(※説明がアバウトすぎてさっぱり分からん)

・在家信者にもできるのが月輪観や阿字観。月輪観は行者の眼前の一メートルばかりのところに、満月の形をした月輪を掲げ、月輪との一体化をはかる。満月は行者が自分の中に本来持っている清浄な菩提心を象徴したもの。阿字観は月輪の中に阿字を置き、それとの一体化を目指す。阿字は本来不生であることを示し、本来不生ということは無始無終であり、限定をもたぬ絶対であり、つまり大日如来の宇宙生命の象徴である。

・インドの後期密教の観法では虚空全体に隙間なく如来が充満している中で種子が生まれ、その種子が如来、菩薩、明王などに変化し、そこに曼荼羅世界が現出する。この場合、虚空はマクロコスモスであり、法身としての大毘盧遮那如来であるが、そこから宇宙の本源的な声である種子があらわれ、つぎにそれが具体的な姿を持った仏の姿に変化する。(※具体的に何がイメージ上で起こっているのかさっぱり分からない)

・観法の形式としては、一すなわち絶対の世界から、多すなわち現象世界に展開させる広観がある。逆に現象世界を次第に集約させて絶対に入る、多から一への斂観がある。

・胎蔵法と金剛界法の構成に付いてはP125~を参照。まとめるには量が多いんでな!

・チベット密教では「略集成就法」。P129~。


Ⅳ 感覚で捉える

・古代インドにおいてコスモスの考え方に近いものに「リタ」がある。リタは天体の運行、法則など宇宙的秩序をあらわし、その中に直接的な意味でカオスを含まない。

・仏教において秩序あるコスモスの意味を持つ言葉として「ダルマ」すなわち「法」がある。整然とした法則をもつ絶対の世界をあらわすと同時に、多種多様な存在を含む現象世界をも意味する。

・密教では現世利益的な陀羅尼なども認めているが、現世利益をそのまま認めているわけではない。欲望の根底にある人間の執着が空であることを教え、本能的な欲求を一度否定した後に、それが持つエネルギーを積極的に活用しようとする。そのエネルギーは成仏(人格的完成)や衆生救済に向けられる。

・七世紀頃、仏教徒はそれぞれの抱く宇宙観の中に、数多くの神々と大乗の菩薩たちを含めてパンテオンとして視覚化した。それが曼荼羅。曼荼羅は仏教徒の抱く世界観の図像化であり、単なる仏や菩薩の集合体ではない。仏教思想による意味付けと独自のシステムを持つ。(マクロコスモスの象徴的表現)

・曼荼羅の中に種字が描かれるのは「現象界に存在する一切のものが音から成り立っている」ことを象徴的に示している。ウパニシャッドでは「声はブラフマンすなわち最高実在たる梵である」という。ここの声は我々が日常使ってるものではなく、宇宙の本源的な声。(インドのタントラの徒は「宇宙は聖音オームのような基本音となる単音節のマントラから展開したもの」と考えている。われわれがこの宇宙で見たり感じたりする物体は全て振動をそれぞれ凝集した音なのである/タントラによれば生物であれ無生物であれ、すべてのものはある特定の周波数をもった振動音だと言うことができる/音というのは形の反映であり、形は音から生まれたものである。音を根源とし、音に寄ってあらわれる動的な力を図形化したのが「ヤントラ」である)(さっぱり分からないが、禅定に入り「みんな一緒」感が生まれる際に何か音のようなものが聞こえるのかもしれない)

・現象世界で発せられる音も、宇宙のエネルギーである本源的な声のあらわれであり、名もその本源的な声とつながる。だから名もまた単なる符丁ではなくて、名を呼ぶことは実在を動かすことになる。声を発したり、名を呼ぶことは単なる意思伝達行為にとどまらず、不可思議な現象を引き起こすと信じられた。

・西洋的な近代思想では、色と形と運動はそれぞれ別個の概念であり互いに関係性を持たない。一方、密教やタントリズムでは色とか形は宇宙の本質的なものとつながり、それぞれが独自の意味を持つ。

・チベット仏教の仏像の毒々しい色彩も、色は芸術性を高めるためではなく、宇宙の真理の象徴なのである。日本仏教がわびさびなどの美的感覚に傾斜した一方、空海は色の持つ思想性を残した。

・密教の曼荼羅や絵画、彫刻などのもつ色や形は、大日如来の何らかの面を象徴をもって表現しようとしたもの。

・胎蔵曼荼羅は、くわしくは大悲胎蔵生曼荼羅という。母親が胎児を慈しみ育てるように、仏が大悲によって衆生の苦しみを救う精神を絵にしたもの。

・金剛界曼荼羅はダイヤモンドのように壊れることのない堅固な悟りを本体とする曼荼羅という意味。

・曼荼羅は通常の宗教絵にあるストーリー性がない。だから分からない。しかし、物語性はなくても、そこには論理がある。空間を覆い尽くす色と形が意味を発信している。だが、それらの意味を理解したところで曼荼羅の完全な理解に繋がるかどうかは疑問。曼荼羅を理解するアクセスは「曼荼羅の前に立った時に、声なき声をもって語りかけてくる何か」を感じること。平常の感覚とは異なる何かの衝撃。宇宙全体に漲るエネルギーを全身に受け止める。宇宙のエネルギーを実感として捉える。

・密教だけでなく東洋の芸術作品に共通するのが、彫刻や絵画は作者の個性を発揮する場ではないということ。個人の表現や信条吐露ではなく、宇宙生命を彫り上げ、描き出すもの。創意や独自性を介入させる余地はほとんどない。宇宙生命を表現するのに最もふさわしいのが仏や菩薩。人間や鳥獣、鬼神や精霊を書くときもある。色、形、構成などの基準は儀軌と呼ばれる密教典籍に従わなければならない。

・密教芸術は瑜伽の観法を通じて作者の心に浮かんだ像の投影である。作者は芸術家であるより瑜伽の行者でなければならない。儀軌通りに仏と合一する。このような瑜伽の行を通して行者の眼前に現れた仏、菩薩の像が写し取られる。

・なので美術館で美術品として眺めることには意味はない。本来あるべき場所において、人間の全身を投げ出して、対象に没入し、真実の世界に入り、宇宙生命に触れることによって、はじめて全体をもって理解することができる。(果たして本当に意味はないのだろうか? 密教的には確かに意味はないかもしれないが、美術品としての意味はあるはずである。それは「意味」の定義次第ではなかろうか)

・奈良時代の国家公認の僧たちも一年の半ばは吉野の山に入り苦行を積んでいた。

・空海は晩年になると高野山にこもったが、空海の入定信仰(滅後百年ほど)は民衆の「空海は山に籠って坐禅に耽ったりしないもん」「空海は死なずに高野山から民衆救済に当たってるんだもん」という思いによるもの。

・社会活動の原動力は人間的な欲望の持つエネルギー。

・人間も動物も生きようとする力を持っている。おのずから備わっている生命力の根源は、大宇宙そのものの生命力と言える。この宇宙の生命力が我々の日常生活の中で色々な欲望となって現れる。長生きしたいとか、金持ちになりたいとか。もしこのような欲望がなくなれば生きていく意欲も失ってしまう。欲望は人間が生きていく根底となるエネルギーと言える。

・初期仏教ではこの欲望を消そうとして必死に修業した。ある程度その目的は達成できた。

・大乗仏教では人間の欲望も空として否定するが、金儲けを否定すれば経済が成り立たない。そこで欲望のもつ生命力を逆に生かそうと考え出す。維摩経など。

・密教では人間的な欲望もまた宇宙生命に繋がるため全面的に否定せねばならぬとは考えない。欲望を肯定することと欲望を断ち切ることが矛盾しない。欲望を始めとする我々の様々な弱点を含んだこの現実世界を全面的に肯定し、その中に理想形態を見出し、現実世界の中に絶対の世界を実現するのが密教の理想。煩悩も迷いも全ては絶対の世界に到達する方便。

・菩薩は仏になれても最後の一人が悟りに到達するためこの世で頑張る。逃げられない現実世界の矛盾と苦悩の中で、永遠に欲望と戦い続ける人間の姿。(要するに隠棲してたらダメだから社会に出るしかないけど、社会に出たらアレコレ大変。でも大変だけど大変とか言ってられないので永遠に戦い続けるスーパーヒーローとして菩薩を設定した、ということか)

・渋柿のしぶは取り除けないが、渋柿のしぶさを生かして、太陽に干せば渋さはそのまま甘さに変わる。欲望もこのように扱う。欲にあって欲に離れる。煩悩に即して煩悩を断ち切る。煩悩即菩提。現実即理想。

・現世利益を目指して陀羅尼や経典の読経が行われたこともあるが、心ある人々は物欲の充足に満足できなくなり、成仏への道を求めた。欲に即しながら欲を超越する。このような境地に達すれば浄化された清浄な欲。

・理趣経は貪欲も愛欲も怒りも全てが清浄であると書く。人間のもつ生命力のたくましさと美しさを現実世界に生かしきることが密教の理想であり、目的である。

・最澄や空海が国家と言う場合、天皇だけじゃなくて、国土、民衆を含めてることもあるよ。ただ平安中期以降になると弟子たちが空海の意図を見失って、国家といえば天皇となる。

・密教の社会福祉の理念としては三平等がある。自己と仏と衆生の三者は別個ではない。行者は仏と一体化できる。衆生の苦しみも自己の苦しみにできて手を差し伸べられる。

・空海は「国王の恩に報いる」と書いた場合は、恩に報いて出家させる、の意味なので、空海が天皇や貴族に媚びへつらったわけではない。

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