【12/24】まとめ「原始仏教 その思想と生活」


<釈迦のちょっと前>

・大国では王権が伸張し、バラモンは以前ほど威信を持てなくなった。
・多くの農産物が産出されたので物質的生活に余裕が出てきた(飢饉が来たら死ぬけど)
・商工業が発達し、貨幣経済も進展した。この頃から貨幣が使われ始めた。
・「シュードラでも金持ってりゃ偉い」という風潮が出てきた(from 原始仏教聖典)
・物質的に豊かになるとバラモンへの敬意が下がり、道徳の退廃も著しくなった。
・バラモン教なんて迷信じゃん、という空気もあった。
・思想の自由は極度に容認されており、この流れから六師外道が出てくる。


<オレたち六師外道!>

・第一外道! 道徳否定のプーラナ!

「どんな悪行をやっても悪の報いはなく、どんな善行をやっても善の報いもない。善悪の区別は人間が仮に定めたものであり、真実においては存在しない。業に対する応報もありえない。ファッキン道徳!」


・第二外道! 七要素説のパクダ!

「人間の各個体は地・水・火・風の四元素と苦・楽・生命(霊魂)から構成されている。苦とか楽とかは実在する実態だ。霊魂も要素の一つだからそんなに特別なものではない。七要素は不動で安定しているから、ある個人が別の個人を苦しませたり楽しませたりすることもない。剣で斬りかかっても相手は死なない。ただ、相手の七要素の間を剣が通過するだけである。ファッキン道徳!」(※この論理は正直分かりづらい)


・第三外道! 宿命論のゴーサーラ!(アージーヴィカ教)

「生けるものは霊魂・地・水・火・風・虚空・得・失・苦・楽・生・死の十二種で構成される。霊魂は物体のようなニュアンスだ(唯物論的/インド人は抽象観念を実体視する傾向がある)。輪廻の生活を続けるのも解脱するのも全ては運命だ。意志を持って修行とかしても意味はない。個人の業により因果応報なんてないんだ!」


・第四外道! 唯物論のアジタ!

「地・水・火・風の四元素のみが真の実在で、人間はこれらの四元素から構成されている。人間は死とともに無となるので、死後も独立して存在する霊魂なんてない! だから現世も来世もないし、前業も悪業も関係ない! アイアム唯物論者! ファッキン道徳!」(※現代人の唯物論者の感覚に近いものと思われる)


・第五外道! 懐疑論のサンジャヤ!

「なに? 『来世は存在するのか』だと? フッ、そんなことを聞かれてもオレは適当な返事でお茶を濁すだけだぜ。形而上学的問題は判断中止する。それがオレのやり方だ――!」(※不可知論者が「よく分からないものはなんとも言えない」というところを、サンジャヤは「よく分からないものには適当に曖昧なことをいう」感じ)


・第六外道! ジャイナ教のナータプッタ!

「永遠のやすらぎである至福状態に達するには、苦行により過去の業を滅し、新しい業の流入を阻止する。虫とか殺しちゃダメ。ただでさえ霊魂は肉体により覆われ束縛となってるのだから、服とか着ずに全裸の方がグッド」

・仏教でもジャイナ教でも「修行を完成した人」を「ブッダ」とか「ジナ」とか呼んでたけど、後世になって仏教は「ブッダ」と言うようになり、ジャイナ教は「ジナ」と呼ぶようになった。発生時代や発展過程、教理や神話伝説などでも仏教とジャイナ教はよく似ている。

※第一~、第二~は適当に付けた順番なのでサンクチュアリに行ってもこの通りの順番で待ち構えているわけではありません。


<釈迦>

・釈迦はネパール人(中村先生がどういう意味でいってるのか良く分からない。人種的な問題か?)
・釈迦の誕生年はBC624~BC463のあたりと考えられている。学者によって100年くらい差が出る(まあ大体BC500くらいに覚えときゃいいんじゃない?)。
・原始仏教の僧園は都市から「遠からず近からず」の場所に作られた。当時の仏教徒は(農民ではなく)大都市の住人であったため。都市生活の「否定態」として出家者集団は成立していた(つまり「アンチ都市生活」であったと思われる。「アンチ都市生活」をするためには「都市生活」が必要となる)。また、托鉢する必要があるので、都市から近い方が便利だった。
・釈迦は自分が教団の指導者であることを否定している。頼るべきものは名々の自己であり、普遍的な法に合致するものである。


<原始仏教の基本的立場>

・六師外道とかいろんな哲学者がいるけど「彼らは自説にこだわってるからダメ。執着である」「自分の思惟能力では解決できない形而上学的問題を論争すると確執が生じ、図らずも悪を犯す」と批判。
・なので釈迦は「形而上学的な論争をしない」。原始仏教は特殊な形而上学説を樹立しようとしたのではない。(「特別な哲学を持たない哲学」と言ってもいいかもしれない)
・「世界は常住か、そうでないか。空間は有限か、無限か。身体と霊魂は一つか、別か。人格完成者は死後に存在するか、しないか」などの質問に釈迦は答えなかった。釈迦はこれらの哲学的議論は無益と考えていた。これらは真実の認識をもたらさない(→毒矢のたとえ)
・「無意義なことは議論しない」「はっきりした確実な根拠がなければやたらに議論しない」
・戯論を捨てることによって安らぎ(ニルヴァーナ)へ到達できる。
・「(仏教以外の)哲学者たちは自分の見解に執着している点では愚者であるが、部分的には真理を見ている」(盲人たちが象に触れて、尻尾に触れた盲人は「箒のようだ」と言い、足に触れた盲人は「柱のようだ」と言うように)
・釈迦は真理を直接体験する。直接体験だから他の教説と比べて「優ってる」とか「劣ってる」と比較することはそもそもできない。共通の立場にないから比較ができない。「これが真理だとか、あれが真理じゃないとか、そういうレベルじゃないよ。だって、オレは真理そのものを体験したんだもん」というニュアンスか。
・「この文字というものはつまらぬものである。このつまらぬことがらについて論争に陥るな」「無論争の境地を安穏なりと観ずる」
・なので、形而上学説を論争するのではなく、実践的に真実を認識する。「法を観る」立場。
・ウパニシャッドは自分の息子や信頼できる弟子だけに説いたが、仏教は誰にでも教えを説いた。
・「国の俗法に随い、是とすることなかれ、非とすることなかれ」。世人の言説はその時々における妥当性を有しているが、それだけの意義は認めるにしても、それに固執してはならない。仏教倫理が諸国において柔軟な形で具現化された根拠。(相対主義的に感じた)
・しかし、世人の見解に従うわけでもない。一般人は欲望をよろこぶが、仏教では欲望を離れることで心の安らぎをうることを説く。
・釈迦いわく「要するに真理を見ればいい」ので、どの宗派に属していてもいい。どの宗派に俗していようと「要するに真理を見ればいい」を理解していれば、「仏教を実践している」ことになる。
・仏教は諸宗教の修行者たちに「真の修行者の道」を明らかにしようとしていたのであって、何か別のものを目指していたわけではない。他の宗教の排斥もしていない。
・なので、「相手に合わせて真理を説いた」(方便)
・どのような筏(教え)でも向こう岸に連れていってくれる。各個人がその状況に即した最適な筏を選択する。
・如来の語義は「このように行った人」。釈迦はみずから見出したことを他人に告げているにすぎず、何らかの哲学体系を述べているわけではない。


苦しみと無常

・苦しみは「自己の欲するがままにならないこと」。感覚的苦痛&精神的心理的苦悩。
・感覚には「快感」「不快感」「どっちでもない」があるが、後にはその三者のいずれも「苦」であるという見解も現れる。われわれがとらわれており、自由にならない境地が「苦」。
・なぜ苦しむかというと、全てのものが無常であるのに事物を全て我が物と考えて固執するから。
・人を動かすのは欲望である。仏教の根本は迷いを起こさせる欲望を捨てること。
・欲が少なくて満足していることが望ましいとされる。
・傲慢は人間に本質的なものとして戒められている。金持ちや権力者でなくても、「自分は若い」「自分は健康だ」、そして、「自分は生きている」と思うおごりがある。(※「生きている」はおごりなのか?? ただの現実認識としか思えないんだが……)
・欲望をすてれば苦しみはなくなるが、わかってても実際にやるのは難しい。そこで教えに説得力を持たせるために「無常説」「無我説」が説かれた。
・欲望を捨て去った究極の境地になると「わざわざ欲を捨てることもない」となる。(煩悩を否定せず、あるがままに認めてとらわれぬようにしようとする後世の思惟に通じるものか?)
・無常説はウパニシャッドやバガヴァッド・ギーターにも説かれていたが、バラモン教ではブラフマンや諸の霊魂(ここでいう霊魂が人間全てに宿っている霊魂なのか、神々の霊魂なのかがちょっと分からない)は常住不変と考えていた。仏教はそれらの説をも否認した。
・「諸の作られたものは無常である。生じては滅びる性質のものであり、生じては滅びる。それらの静まることが安楽である」
・無常の理を見失っているから煩悶し嘆き悲しむ。無常を逃れられぬと悟るならば煩悶も消え失せる。たとえば「人は死ぬ」。逃れられない。だから、近親者が死んでも「嘆き悲しむな」。「泣いて何かいいことがあるのか? ないだろう? じゃあ、泣くな」という態度。
・人は死ぬからこそ、どのように生きたら良いかを考えられる。


無我説

・我ならざるものを我(アートマン)と見做すから苦が生じる。
・初期の無我説によると、修行者は「わがもの」「われの所有である」という観念を捨てねばならぬという。無我説とはこのような意味における我執の排斥である。
・なぜなら、おそよ自己の所有とみなされているものは常に変滅する(無常)から。永久に自己に属しているものはない。(自分の体もそのうち壊れるし、死ねば所有物もなくなる)
・われに属さないものを、われに俗すると思うことが、初期仏教で言うところの「我執」。
・アートマン以外のいかなるものをも「これがわがものである」といって執着することがなければ、それが解脱である。一切のものについて解脱し、「これがわれである」と見ない人はもはや輪廻の正解を脱している。(※なぜ我執をなくすことが輪廻の世界を脱することなのか分からない。逆に言えば「輪廻は我執(執着)により起こるもの」というアイデアが前提としてあるということか?)
・初期仏教では「これ」として具体的に示して見せることのできるいかなるものも「アートマンではない」。「修行完成者は自ら自己を見ることができない」。
・初期仏教ではアートマンを否認しておらず、積極的に承認している。
・たとえば自己(アートマン)は善悪の行為の主体であると考えている。(修行をする時はアートマンが働いて修行を行っているといったニュアンスか?)
・「自己(アートマン)を尋ね求めること」はジャイナ教やウパニシャッドにも説かれている。原始仏教はこの点ウパニシャッドを継承したのか?
・原始仏教では自己愛も説いている。アートマンは愛しいものである。
・自己を愛するということは、人間の正しい理法に従うこと。つまり、善を行うことが自己を愛することになる。
・自分が愛しいことを知り、他のみんなも自分が愛しいことを知ることにより、「同情」や「愛」が成立する。(この論理でなぜ愛が成立するのかはよく分からないが、確かに同情は成立する)
・「自己を守る人は他者の自己も守る。そうすれば損ぜられない」。相手を犠牲にして利得を得るのではなく、他人と協力することによってますます実現されるところの自己。(これはつまり「自分を守ってくれる人をわざわざ害するアホがいるだろうか」ということか?)
・たとえば怒らない人は「自己と他人との利を行う」。
・一方で修行者は「自己を捨てる(自己の欲望から離脱する)」ことも求められる。
・自己を愛し守ることと、自己を滅することの相反する二つが説かれているが、滅するべきは煩悩の基体としての凡夫の自己であり、愛するべきは理想として表現されるべき自己。
・最初期の仏教では自己と他人との区別をはっきり認めていた。(縁起による「みんないっしょ」感がないという意味か? それとも「自分を救える(解脱)のは自分だけ」という意味か?)
・自分が修行完成者となり真理を体得した後に、他人に真理を理解させ体得させるという流れ。原始仏教におけるブッダへの信仰は「見習うべき規範」であり、ブッダが神秘的パワーにより他人を救ってくれるわけではない。
・「自己を知る」とは、形而上学的なアートマンを知ることではない。アビダルマ教義学におけるように仮に想定されている我を分析することでもない。法(真理)がアートマンらしい(自己を法と一致させるのが目的という意味か?)
・後に成立した経典では「自己に帰依すること」と「法に帰依すること」が同義語として併称されている。(「自分自身を灯明とせよ~」)
・諸仏の権威は法に基づく。根本に法があれば仏はいくらあっても構わない。
・みんなが誤って「これって自我じゃない?」と思うものはアートマンではない。アートマンは把捉され得ないものであるから、どのようなものも自己に属さない。じゃあ、自己に属さないもの(=具体的に把捉されるもの)なんてどうでもいいんじゃね?と考える。
・よって「無我説」は「客体的・実体的なあるいは機能的なアートマン観に対する反対」でしかない。アートマンが存在するか否かは「沈黙を守る」。
・つまりこれは、仏教以前の思想が固定的なアートマンを想定し、それに関して形而上学的な判断を下しており、またそれによって論争が起こっていたが、仏教はそのような固定的なアートマン観に対し沈黙することで他宗派との抗争を回避していた。(初期仏教における無我説の意味合いはつまるところこれか?)
・苦しみはアートマンならざることに関係して起こっている。アートマンは苦しみとは無関係である。ということは、アートマン(自己)は既に「苦しんでいない」。我々は実は既に「解脱を体得している」。初期仏教ではここまでは言わなかったが、後世の大乗仏教の理論的根拠となるらしい。


<迷いと理想>

・ヒンドゥー教では最高神に帰依することによって再びこの世に生まれることがないようになるが、初期仏教では自らの修行と悟りによって達成される。(※ヒンドゥーの方は阿弥陀信仰に似てないか?)
・仏教は「悟った人」「目覚めた人」を目指すものと言われているが、初期仏教ではむしろ「偉大な人」(修行を完成し人間として完成した人)になることを説く。
・仏教の理想の境地は一般にニルヴァーナとされるが、これは当時の諸宗教の用いた特殊な単語。ニルヴァーナはジャイナ教も使う言葉。
・実際はもっと近づきやすい平易な言葉で「安穏(安らぎ)」くらいの言葉。仏教以前のヴェーダ聖典でも「願わしい境地」であり、仏教はこれを継承したに過ぎない。
・ただ、仏教は実践の究極の目的として「さとり」を得ることを強調した。(つまり他の哲学者たちが「仮説」を述べているのに対し、仏教はそれを判断停止し、「真理」を直接に掴むことを重視したということだろう)
・仏教の目指す最高の境地は「楽しい」ものである。修行者は自己の楽しみを求める。
・ただし、その「楽しさ」は世間の「楽しさ」とは別物であり、世間の「安楽」は聖者の「苦悩」であり、聖者の「安楽」は世間の「苦悩」である。つまり、世俗的価値観を転換させている。
・生に執着しないから死も恐れない。これが解脱であり「不死の獲得」である。この世に執着しないから来世にも執着しない。なので解脱者には来世がなく輪廻を脱している。(来世に執着しなければ来世が来ないという論理が良く分からない。「解脱者には現世も来世もない」というのがインドの一般的思考なので、そういうものなのだろうか?)
・我執を滅すればニルヴァーナの境地。当時はそんなにニルヴァーナを難しい神秘的なものとは捉えてなかったらしい。
・人はどうして努力してニルヴァーナを目指すのか? 既にニルヴァーナに至った人を見て、「あの人、毎日楽そうだなー」と思って自分も目指すのである(これは初期仏教で言ってることではない。BC2くらい。初期は何も言ってなかった)。(「人間は必ずニルヴァーナを目指すべきである」という概念が当時インドにあったかどうかは定かではない。「他人を見ていいなと思ったら」はギリシア人のメナンドロス王に対して方便として語ったのかもしれない)
・解脱しても生理的苦痛がなくなるわけではない。ただ、そういった肉体的作用に囚われなくなる(どうでも良くなるということか?)。
・生理的現象としての老死にとらわれなくなることが「解脱」であり、それ以外に解脱という特別な状態があるわけではない。
・後世になるとニルヴァーナを二種類に分けて、「生きてるうちのニルヴァーナ(まだ肉体に縛られている」と「死んだ後のニルヴァーナ(肉体にも縛られない)」を分けるが、初期仏教では区別していなかった。
・聖者も眼や耳や鼻から情報は入ってくるが、それらに対する欲望を制御する。ことがらに対して「心を制止する」のではなく、心の動きが人間の規範(ダルマ)に合するように制する。
・肉体的苦痛は感受しても、心的苦痛は感受しない。つまり、「痛くても気にしない」ということか。しかし、理想はそうであっても現実はそうはいかないので、後世になると「死んだら完璧なニルヴァーナ」という考えになる。
・修行完成者は解脱し輪廻から解き放たれたとして、じゃあどうなるのか、生きてるのか死んでるのか。初期仏教は沈黙(エポケー)する。


<慈悲>

・「わがもの」という観念を捨てて、あわれみ(同情)に専念する。
・自分を愛すると、他人も自分を愛していることが分かる。よって他人を愛することができる、という理屈。
・慈悲は純粋の愛。憎しみの対立項としての世俗的な愛とは異なる。他者へのあわれみ(同情)。
・「やさしい人」が理想の人間。心を平静に保つことが心を柔和にするポイント。
・心の平静を保つためには他人との交わりを避け、一人でいなければならないという主張も現れた。
・慈しみはこれと矛盾する。どうも初期はこの矛盾がスルーされてたようだが、後世になって独居は独覚(一人で修行し一人でさとる)のための道を説くものと解されて、慈しみの実践を説く人は菩薩と考えられた。
・慈悲の実践は困難である。誰かを救うためには誰かを傷つける必要が生じることもある。初期仏教はこの点をあまり追求しなかったが後世になり浄土教などで自覚される。
・ジャイナ教は「殺さない」という方向で徹底する。浄土教は「殺している」ことを認める。


<不安と孤独>

・出家はバラモン教の「遍歴の行」と元は同義だったらしい。
・出家が賛美されたのは人口増加に対処するためかもしれない。人口増加に生産量が追いつかないから(自主的・社会的な姥捨て山とでも言うべきか)。近世になって労働量による生産性の向上が必要になるとインドでも出家は排斥されるようになった。
・当時の出家者には肉体に対する嫌悪感があり、出家とは身を捨てきることだった。
・理想の出家者は一人で住処なく遍歴するもの。出家修行者が三人以上いると修行の妨げと考えていた。
・理想は自然の中で一人修行することだが、多くの人はおそらく耐えきれず、サンガの精舎に居住して、昼の間に森に出て修行するようになった。そのサンガも人里離れた山林からやがて村落の中に住居するようになった。
・孤独な修行を推奨しながらも、共同生活も否定していない。「善い友達と交われ」。この「善い友達」は世俗から離れるという方向において一致している。
・つまり、「世俗的なものへの絶望と孤独のうちに真の自己を追求した人々」は、その方向を同じくする人と「結集した」。(※しかし、そうは言うけど矛盾としか思えない)


<初期の教団>

・初期仏教には「仏の弟子」という表現はない。「教えを聞く人」という言葉があるだけ。指導者、被指導者の関係と比べて考えるのは後世のことなのか?
・最初は出家も在家も「教えを聞く人」だったが、そのうち出家だけが「教えを聞く人(声聞)」となり、在家は「優婆塞(仕える人)」と呼ばれるようになった。
・「道の人(沙門)」とはヴェーダ聖典の権威を認めず修行する宗教家の総称。バラモン教以外の宗教家の総称と言える。
・最初期の仏教徒には特別な宗派意識がなかったので、仏教徒を表す特別な呼称がなかった。(※釈迦が他の宗派を排斥せず、「どこでもいいから、オレのやり方でやってみなよ」というスタンスだったのと関連しそうだ)
・仏教は社会の階級的身分的差別が無意義であることを強調したので、あらゆる階級の出身者が参加した。(※差別の無意義さを主張する根拠が分からない)
・昔は盗賊も入れたが途中から入れなくなった。悪人を救うことよりも教団の治安を保つことを優先したのだろう。
・初期は入団の年齢制限はたいしたことなかった。満二十歳と定めたのは後世のこと。
・「婦女は聖者を誘惑する」。なので、最初から近づかないでおこう、といった意味で戒律が作られた。欲望が起こりそうなことにそもそも近づかないための予防線的なもの。
・つまり、人間が一定の性質や性向を保つための予防線が「戒め」だったが、この「戒め」を守ることが「別解脱」となった。解脱は何か一つの状態を体験することや、その状態に留まることではなくて、過ちを犯すかもしれない一つ一つに気を付けることである(と解釈できるかもしれない)。これは禅の修証不二に近いものかと思われる。
・糞掃衣は教団に余裕ができたマウリア王朝末期の頃から既に豪華な布を使ってた。


<その他の倫理的なもの>

・バラモン教やウパニシャッドでは具体的な生活倫理には書かれてなかったが、仏教にはあった。
・簡単に言うと「悪いことをするな」という非常に常識的なもの。
・釈迦の道徳観念は、当時のインドの社会的な道徳観念に従ったものである。仏教は特別に新しいことを説いたのではなく、永遠の理法である正しい道徳を伝えてるだけ(つまり、正しい道徳自体は仏教以前からある)という立場。
・実践法は八正道。そして、中道。当時は「道徳否定論者」と「苦行主義者」がいたので、両者から離れた(否定した)というニュアンス。(でも、初期仏教は苦行もやってたらしいけど)
・悪いことやったら地獄に堕ちるよ、いいことしたら天界へ行けるよ、ってのはこの頃も言ってた(解脱を前提とすれば大して意味はないはずなのに)。どうも、「こういうのがないと道徳的実践ができないから」と考えていたらしい。
・道徳は「法」に基づいているが、道徳成立の根拠などはあまり追求してないらしい。(※「法」に基づいているとは言っても、それが何なのかはなあなあだったということか? 良く言えば現地の実情に照らして柔軟に道徳観が変化した?)
・人間と鳥では特徴が異なっている(鳥には羽があるが人間にはない)。だが、人間と人間の間では、たとえばクシャトリアとシュードラを比べてもどちらも手は二本だ。だから人間の間には区別は存在しない、と考えるらしい。区別はただ名称や職業によるのみ。職業にやはり上下の区別はない。(※仏教における平等思想の根拠か。いやに合理的だなー)
・ただ、道徳的品性により「卑しい人」と「尊い人」が分かれる。
・(在家に大しては)夫妻は仲良くしなさい。
・他人の妻を犯すことなかれ。
・基本的に男女平等だが、社会通念に妥協してるところもある。妥協した上で実質的に同等の救いが与えられるとする(→転成男子)
・仏教も社会通念の男女格差を埋めることはできなかった。後世の教団では女性出家者集団を足手まといと感じるようになる。そこで後世になると「女性の出家は釈迦の真意ではなかった」とする物語が作られる。
・両親を大切にしろよ。
・飲酒の禁止は社会的理由があると考えられる。精製されてない酒は健康に悪いとか、暑い国だから飲みすぎちゃうとか。北の方へ行くと禁止もゆるくなる。
・忍耐の徳。誤解による他人の悪口も耐え忍ぶ。でも、非難すべきものは非難する。(※線引きが分からない)
・「師は自分の弟子をして、他人の弟子に勝たしむべし」。意外にも競争の原則が承認されている。
・出家修行者には財を卑しめと言ってるが、在家に関してはお金を貯めろと言ってる。
・無駄遣いせず、蓄財し、資産運用せよ。利子を取ってもいい。
・この辺りもどうも中道の思想によるものらしい。収入と支出のバランスを取って、適当な生活水準を維持することが承認されている。
・財を(適切に)人に与えることが推奨される。社会主義的な思想に近いらしい。
・出家者の生産活動の放棄は当時から非難されていたが、仏教ではこれを悪とは考えていない。


【疑問点】

・「これがわがものである」という我執をなくせば輪廻を解脱できるというのはなぜか?
・初期仏教ではアートマンの存在を認めていたというが、それがいつから今のように「仏教ではアートマンを認めていない」ことになったのか? もしくは現代においても「仏教はアートマンを認めている」のか?(大我ってやつか?)

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