論理病をなおす!―処方箋としての詭弁 (ちくま新書) | |
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献本。なんで人は詭弁に騙されるのかなー、という話。
本書ではいくつかの型の詭弁が紹介されてますが、どうも詭弁ってのが良く分からない。まず単純に詭弁と気付きにくい。たとえば本書で紹介されている以下の文章はどこが詭弁だか分かるでしょうか。恥ずかしながら僕は答えを言われるまで分からんかった。
死刑存続論者のもう一つの大きな主張は、死刑のもつ威嚇力を重くみることになる。死刑の廃止は、殺人犯への威嚇力をなくして、殺人が野放図におきるようになるだろうという。しかし、この論旨は、どれだけ実際の殺人犯の調査にもとづいておこなわれているのだろうか。私は百四十五名の殺人犯について、犯行前あるいは犯行中に、自分の殺人が死刑となると考えたかどうかを質問してみた。犯行前に死刑を念頭に浮かべた者はただの一人もいなかった。犯行中に四名が、死刑のことを思った。殺人行為による興奮がさめたあとでは二十九名が、自分の犯罪が死刑になると思った。つまり、死刑には威嚇力がほとんどなく、逃走を助長しただけでだったのである。殺人の防止には、刑罰を重くするだけでは駄目なことは、私が多くの殺人犯に会ってみた結果、知りえた事実である。
はー、なるほどなーとか思っちゃったんですが、これ、答えを聞いてみれば簡単な話で、「犯行前に死刑を念頭に浮かべて殺人を止めた人」に一人も調査していないんですよ。そりゃあそんな人は殺人犯じゃないですからね。なので、これは詭弁ということになるわけですが僕は分からんかった。ちょうどこの型の詭弁(偏った標本)の説明途中に挙げられたテキストにも関らず。
そして、詭弁の型の説明の時に何度か出てくるのが、「しかし、これが詭弁かどうかは判断が難しい」という流れ。たとえば「ゆとり教育」を説く教育学者がいたとして、「あいつはゆとり教育を謳いながら自分の息子は進学校に通わせている。騙されるな!」というのは「人に訴える議論」であるとして詭弁だとしています。教育学者の子育てがどうであろうと、ゆとり教育の是非は別に議論されるべきことだからです。しかし、これも全くの詭弁かといえば判断は難しくて、たとえゆとり教育が正論だとしても、「少なくとも自分の息子には適用する気のない『正論』」であると言えるわけです。そこには一抹の真実はあるわけで、なので詭弁の判断は難しい。
つまりまとめると、「詭弁の型を知っても、実際に詭弁を使ったり詭弁から身を守ったりするのは難しい」「詭弁だと思われる議論を見つけても、それが本当に詭弁かどうかの判断は難しい」と、要するに詭弁は難しいってことなんだなあ、ということくらいしか分かりません。ですが、どうもこの辺りが筆者の主張でもあるようで、「詭弁は難しい」「詭弁だと思って正論を退けるのも、それもまた騙されている」という結論のようです(ここは誤読の可能性あり)。「あとがき」を読んでも、「やり方を学んでもしょうがない」「詭弁の型とか学んでも詭弁が使えるようになるわけでも防げるようになるわけでもない」と言ってるような感じがします。
うん、でも、だからと言われてどうすればいいのか分からないのが困ったなぁ……。人の意見を詭弁と言い切るのは危険ってことくらいだろうか。本書はちょっと巧く読めなかった(から巧くレビューも書けない)です。
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