あんまり見るべきところがなかったので適当に抜粋。
・往相と還相があって、阿弥陀パワーで浄土に行くのが往相回向。浄土で仏になった後、この世に還ってきて迷う人々を救うのが還相回向。(還ってくるのヤだなあ。まあ、無事に仏になれればイヤとかいうこともなくなるんだろうけど)
・親鸞は堂に100日篭ってたら95日目に聖徳太子が現れて法然(浄土宗)の下へ行った。(この頃、親鸞は天台宗で修行を続けるべきか、浄土教に入るべきか悩んでたらしいので、数多の可能性の中から聖徳太子が特にそれを示したというよりは、なんとなく入ろうかなと思ってるところを後押しされた感じだろうか。明け方に現れたらしいので夢か寝ぼけてたかだと思う)
・今度は結婚しようかどうか迷ってたら、夢に観音菩薩が出てきて「その妻は私の分身だから結婚すれば?」って言ったので結婚した。(こんなんばっかりだな)
・どんな罪深いものでも念仏を唱えれば救われるので(一念義)破戒行為をする人がいたが、「毒を消す良薬があってもわざわざ毒薬を飲むことはしない」ということで、故意に悪事を働くことは禁じられていた。親鸞は妻帯してたので破戒行為と見なされて流罪になった。(浄土教では妻帯は浄土往生の妨げにならないらしい。確かに悟りをひらくわけではないから、そう言われればそういう気がする)
・浄土真宗の異端A「造悪無碍」。悪いことをしても念仏すればいいやという考えで、社会秩序を乱すので取り締まられた。
・浄土真宗の異端B「専修賢善」。念仏だけじゃなくて善行もしようとする。(現代感覚からするとむしろ良いことのような気もするが、善悪概念は時代で揺らぎやすいので善行をすれば良いとは簡単にはいえない。キリスト教のアウグスティヌスやルター、カルヴァンなども同様に善行は救済の助けにはならないとしている。つまり、浄土真宗は予定説に近いのでは? 親鸞には「凡夫には善悪は決められず、ただ念仏だけがまことである」との言葉がある)
・阿弥陀仏は一度救うと決めたら必ずそれを実行する。逃げても追いかけてくる。摂取不捨。(こわい)
・「大念には大仏を見る」。大きい声で念仏をすると大きな仏を見て、小さな声だと小さな仏になる。金品を多く納めると大きな仏になり、少ないと小さな仏になる。というのは全くの誤りである。from 歎異抄(信じるだけでいい、念仏を唱えるだけでいい、と言われても大きな声で唱えようとしたり、お金をたくさん納めようとするあたり、あまり簡単だと逆に難しい(信仰を保ちにくい)ということではないだろうか)
・礼拝対象は「木像<絵像<名号」。木彫りの阿弥陀仏よりも、絵に描いた阿弥陀仏の方がグッドで、それよりも南無阿弥陀仏と字を書いただけの方がグッド。ただし、木像への礼拝を拒否するわけではなく、順列がこうですよ、というだけ。(木像や絵像は芸術的な美の世界に人々を留めるものなので、宗教の本質そのものを示すには文字だけの方がいいらしい。でも、達筆だったら意味がないような……)
・源信は念仏者が臨終の時に阿弥陀仏が迎えに来てくれる(来迎)としたが、親鸞は仏の本願を信じた時に救いが成立するので臨終に来迎を待つ必要はないとした。(感覚的な話をするなら、信仰を持った時点で救いは成立するので、確かに親鸞の方が理に適っている気がする)
・当時、世間では百万遍念仏や融通念仏が行われ、念仏をたくさん唱えてその功徳で浄土へ生まれようとした。つまり念仏は呪術的なものと捉えられていたので、親鸞は名号にちゃんと意味を書き添えていたらしい。
・蓮如教団の構成員の大半は毛坊主という兼業坊主(髪を剃っていない)で、彼らが地元で中心となって念仏の集会をひらいた。毛坊主は村の自治を確立するリーダーでもあったので、浄土真宗門徒は一揆(一向一揆)が多かった。(宗教フランチャイズ? これが蓮如時代に発展した要因か?)
・これまでは信仰という媒介で共通していた浄土真宗門徒が、檀家制度により、形式上入ってくる檀家が増えた。(形式上むりやり?入れると経済的には潤っても団体としての信仰心は揺るぐということか? 檀家制度による仏教堕落の一要因としてチェック)
・念仏札に「往生六十万人」と書かれてて、和泉式部の幽霊が「60万人しか極楽いけないの?(´・ω・`)」と聞いたら、「六(六字名号)」「十(十界の依正)」「万(万善万行)」「人(人中の分陀利華)」に分けて、要するに念仏を唱えれば全員浄土ですよ、といった。(うっかり数字を限定してしまった時も一工夫でなんとかなるということか)
・「サンガ」=「仲良し集団」(すごい訳し方だ……)
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