重要そうな部分をちょっとだけメモ。
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・喜怒哀楽の感情の蓄積により生まれる、より複雑な感情、たとえば憎しみ、怨み、愛情などを「心が捏造したに過ぎない感情」だとしてバカにする。心を構成するものは、記憶をもとにした価値判断や歴史認識である。
「江戸時代の盤珪禅師は庶民への布教に尽瘁した方だが、よくおっしゃったのは「嫁・姑」の不仲のことだ。嫁がなにをした。姑がなにをした。今なにかをしたから憎いんじゃなくて、これまでの記憶が憎いんじゃろ。あんたがあんたのなかの記憶を憎んでいるだけじゃないか、と繰り返しおっしゃったのである」
この価値判断や歴史認識を妄想(もうぞう)といい、こういった先入見を禅は否定する。この先入見を排した出逢いが「一期一会」。
・脳機能の面から考えるなら、「悟り」とは脳の「方向定位連合野」(世界の中に自己を位置づける脳機能/時間・空間認識能力?)への入力情報が極端に減少する状態(かもしれない)。脳がこのような状態になると、
「万物は隔てなく一つであり、空間の感覚も、時間の経過の感覚もない。自己とそれ以外の世界との間に境界はない。そもそも、主観的な自己というものがなく、絶対的な合一の感覚だけがある。思想もなく、言葉もなく、感覚もない。心に自我はなく、純粋な、未分化の気付きとして存在している」
というリアリティを感じる。これは「虚心」「涅槃」「梵我一如」「道」などと呼ばれる状態と同じである。これを「宇宙に溶ける」とする。一方、カトリックの瞑想などでイエスのイメージに集中する場合は、先述の「方向定位連合野」にイエスの入力情報しか入らなくなる。すると、「宇宙に溶けた」場合に対し、空間がイエスのイメージで形成されるため、イエスと合一化する(神秘的合一)。公案を用いる際の禅も同様と思われる。(※ここから敷衍して大胆なイメージで仮説を語ると、ひょっとすると様々な宗教の原点にはこのような脳機能の働き、つまり物理的現象が先立っており、その現象から派生していったのが各宗教ということかもしれない。もちろん、「悟り」「神秘的合一」に類する物理的現象を経ずに成立した宗教もあるだろうが。ただし、このアイデアもまた宗教的であることは留意すべきか)(※上記の話は「脳はいかにして神を見るか」の要約らしい。これはそのうち読むべきか?)
・「万物は隔てなく一つである」という「悟り」の精神状態は、実際、区別のある現実世界においては直接的には役に立たない。現実では何らかのポジションが必要となる(たとえば、悟りの状態では宇宙と一つであっても、会社では課長や社長、家庭では父や息子でなければならない)。しかし、そういった区別の世界で、比較により妬みを抱いたり、積み重なった記憶が怨みになったりしても、自分のポジション(課長だとか父親だとか)は「便宜上、その役割を演じているだけ」だと意識できる(悟りをひらくと「宇宙と一つ」というリアリティを得ているため)。今の自分の現実は方便だと考えられる。これは砕いて言うならば「余裕」ができるということで、これによって意にそぐわないできごとであっても「風流」だと感じることができる(「風流」とは「苦痛」や「不足」など思うようにならないものを楽しむ余裕のこと。茶道で欠けた茶碗などを「風流」というのもこのニュアンス)。(※仏教の縁起思想や現世否定的な傾向はこういった意味合いと思われる)
・キリスト教におけるカルヴァン派と同様に、仏教において最も労働を尊ぶのが禅。
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