ポイントのまとめ。茶色は本書からの引用。矢印はそれに対する僕のコメント。
イエスの生涯 (「知の再発見」双書) G´erald Bessi`ere 田辺 希久子 創元社 1995-02 売り上げランキング : 264687 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
・らい病患者の扱い
「律法は彼らとの接触を一切禁じていた。神だけが、彼らを癒すことができる。メシアの時代がやってくれば、彼らは清められ、新しく生まれ変わった民族の中に加えられるだろう」
→現世において被差別的な立場にある人たちは、来世(キリスト教的には復活後だが)で地位を取り戻す(言い換えれば、現世における被差別的立場は受容せざるをえない/この点はヒンドゥーと同様)
「らい病人が『イエスのところに来てひざまずいて願』った。イエスはなんと、『手を差し伸べてその人に触れ』たのである」
→上記の如き被差別的立場の人間に現世での解決案を与える(ヒンドゥー教に対する仏教と同様)
・イエスの言葉
「イエスは語る。饒舌にではない。切り込むように鋭く語る」
「特別な言葉遣いはせず、万人が使う言葉を、簡潔に用いる。ラビ(律法学者)がするように、過去の権威とか律法の注釈を盾にとったりしない。『群集はその教えに非情に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである』」
→ユダヤ教における律法学者の説教が現実との乖離を示していたということだろうか。砕けていえば、「小難しくてよく分からない」状態で、論理的根拠などを省くことにより、逆に「権威ある者」として認識されるのか?(現実的な応用が考え辛い)
・イエスの治療
「イエスが聾唖者を治すやり方は、当時のユダヤ人や異教徒の魔術師のそれと変わりない。耳に指を差し入れ、唾をつけて舌に触れ、息を吹き込むというものだ。福音書はしばしば、癒しの動作を記していない。イエスが言葉だけで癒したことを示したかったからである」
「イエスは群集とその期待に対して献身的である。限られた特権階級しか医療を受けることができず、学問の活力は大衆とかけ離れた小集団――とくにサドカイ派とエッセネ派――に封じ込められている当時の社会において、イエスは悪魔祓い師、治療師として民衆の中に入っていく」
→治療行為が他と変わらない(奇跡ではない)ということは、イエスの特異性は治療行為を民衆にまで及ぼしたという点にある。「イエスの言葉」が民衆に向かうものであったことも併せて考えるに、イエスの非凡な特徴は当時のユダヤ教の宗教活動を民衆に浸透させようとした点にあると考えられる。(鎌倉仏教に近いかも?)
・イエスと家族
「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。(中略)イエスは『わたしの母、わたしの兄弟とはだれか』と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ』」
→教祖のウィークポイントである「おまえの母ちゃんを連れてきたぞ」に対する対処法。現実的に応用しづらい。
・イエスの奇跡
「これらの奇跡は、神がユダヤ民族をエジプトから救い出し、約束の地に導き、自分の民として選んだユダヤ建国の時代を思い起こさせる。モーセが紅海に命じてユダヤ人を通らせたのと同じように、イエスも怒り狂う湖を凪がせ、静める。神がエジプトを脱出した自分の民に食べさせるためにマナを降らせたように、イエスはおなかをすかせ、お金も無い大勢の人々を満腹させる」
→イエスの突飛な奇跡描写は、旧約聖書の「神の奇跡」の再現であり、それを下敷きにしている。
・安息日
「安息日の起源ははっきりしない。最初は祭りであると同時に、神に捧げられた日だった」
→当時のユダヤ社会においても、安息日の正当性がはっきりしていないのであれば(疑問を持たれていたのであれば)、イエスの安息日に対する行為は、「人が決めた良く分からない掟で生じる不都合」に対するアンチといえる(神の意志に適っておらず、本質から外れている)。「わたしの父は今もなお働いておられる」とも言っている。
・儀礼と愛
「『あなたが祭壇に供え物を捧げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を捧げなさい』。兄弟とのつきあいは儀式の代わりにはならないが、儀礼的行為の健全な遂行のために欠くことのできない前提条件である。その他の禁忌も、何よりも大切な他者との関係をおろそかにさせるものであってはならない。こうして儀礼や掟を守るという、外面的で社会からも認められやすい行為から、愛の優位性、他者への思いやり、人間の内面や真意の直視へと人は導かれていく」
→形式よりも実際の対人関係を重視している。安息日や治療に対する見解とも重なる。(キリスト教は愛の宗教というが、逆に今までのユダヤ教に「対人への愛」が足りなすぎたというニュアンスだろうか)
・人間が「イエスは神である」ということ
「どうして信徒は、まるで絶対者がただちに解明されることを望むかのように、このことを焦って再確認しようとするのだろう。確実なのは、絶対化する指示が、絶対者を「神秘化」し、次いでそれから自分の身を守ろうとするということだ。「解き放たれた者」「無限なる者」である絶対者をほしいままにし、操り、社会的に利用可能なものにし、特定の大義名分に結び付けようとするのである」
「イエスが絶対者の"顔"であるなら、人間のさまざまな企図を統率したり、疑いを解消したり、世界の破綻を取り繕ったりするために利用するのはもうやめるべきだ」
「まがいものの絶対性をイエスにかぶせようとするのである」
→有限者である人間がイエスを神(無限者)だと言うことは、イエス=神を有限なものにし、利用可能な有限者として扱うということだろうか。これの真意としては、「イエスを神であると(公会議などで)定義することに意味は無い」「実際にイエスは神なのだから(と信じていればいいのだから)」くらいの意味になるのだろうか。
・イエスと教会
「世間から逃避することを拒否し、進んで民衆の中に入っていくイエス(中略)宗教的な面で孤立し、民衆と一線を画そうとするあらゆる試みに対する力強い反論である。イエスは、分離主義へと導くパリサイ派のような閉鎖的集団も、エッセネ派のような本格的セクトの体裁を整えた共同体も望まない」
「では、なぜ12人の集団を作ったのだろう? (中略)12人は、イスラエルの12部族からなる民族全体に対するイエスの要求を示すものでなければならなかったのだ。キリスト自身から一緒にくるように招かれたより大きな弟子集団もまた、宣教のためにイスラエル全土に散らばらなければならない」
→イエス自身が12人の弟子で12部族を象徴とか考えてなかったと思うけどなあ。まあ、ともかく「宗教的集団を作ろうという意志はなかった」ということらしい。
・イエスとイスラム教
「コーランが慈善と呼ぶところの慈愛の預言者であり、聖性の象徴であるイエスは、キリスト教徒にとっても、またイスラム教徒の中でも、律法それ自体が目的なのではなく、律法を超えたところに"現実"の"道"が見えてくるのだと考える人々にとっては、一つの規範なのである。ひと言でいえば、キリストの人間的人格をめぐってであれば、"預言"の延長として"神の友ら"の聖性があると信じるイスラム教徒との対話は可能である」
→キリスト教とイスラム教がどちらもユダヤ教の刷新運動だとすれば、イエスの行動はイスラム教にも通じるところがあるという考え。
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