【5/26】比叡山で修行してきた


 範馬さんと、比叡山へ一泊二日の修業体験をやってきました。以下はこちらのスケジュール表を参考にしながら御覧下さい。


15:00 入所式、日程の説明

 入所式からさっそくお経を唱えるなど、思った以上に宗教チックなスタートでびっくりする。何の前触れもなく突然日常が宗教的になった感じ。

 そういえば事前に愛忍者さんから、「たぶん若い女性がいっぱいいますよ。最近、こういうのに興味ある若い女性が多いから」と聞いていたので、それは修行の妨げになると思い、「どうか汚いオッサンに囲まれますように」と祈っていたが、はたして願いも虚しく若い女性がたくさんいた。しかし、彼女らが女子大生であったことは不幸中の幸いといえよう。これがJKならとても修行など不可能であった。


16:30 坐禅止観の解説、実修

 座禅はむずむず脚症候群との戦いだと覚悟していたが、今回の座禅はわずか8分ほどであり、むずむず脚症候群に襲われることもなくあっさりと終了。以前に「体外離脱と阿字観は似ている」と書いたが、やはり座禅止観もよく似ている。もちろん体外離脱とは目的がまるで違うのだけれど、意識変容しやすい状態に体を持っていくという点では、なにかこのあたりに共通項があるのだろう。


18:00 非食(=夕食)

 一汁三菜の精進料理だが、これが非常に美味しい。味噌汁は冷めていたものの、それでも十分に旨いといえるレベル。しかし、問題は正座で、食べてる間中ずっと脚の痺れと戦っていたため、食事の旨さに関わらず顔は常に引き攣っていた。また、食事中は私語厳禁で食器は必ず手に持って食べなければならず(漬物をつまむ時も漬物の皿を持ち上げねばならない)、さらに食器を置く時に音をさせてはいけないので非常に面倒臭い。脚の痺れとそれらの煩雑さにより、メシは旨いものの、食事は全く楽しくなかった。洗鉢(お椀にお茶を注がれて、タクアンとかを箸でつまんでお椀を洗い、そのお茶を飲むアレ)は意味と必然性が理解できなかった。なお、私と範馬さんはは「うめー」とか思ってたけど、一緒に受けていた看護学院の男の子たちは粗食にぶーぶー言ってた。まあそりゃそうだよな。客観的に見れば確かに粗食だよな。


19:00 講話(比叡山についての話、ビデオ鑑賞)

 千日回峰行に関するビデオ。一日に30キロ野山を駆け回ったり、九日間の間、断食、断水したりする修行。これまた何の意味があるのかさっぱり分からなかったが、どうも後で居士林院長の方に聞いた話からすると、「自然の中に己を投げ込むこと」がポイントのようだった。山川草木悉有仏性というやつだろうか。


20:00 開浴(=入浴)

 入浴は10分。看護学院の子たちはやっぱりぶーぶー言ってたが、私は家でも10分くらいなのであんまり変わらない。むしろリンスインシャンプーが置いてあったことにらしからぬサービス精神を感じた。


21:00 放心(=就寝)

 これがまいった。布団がカビ臭いしウェッティだ。こんなところで環境を劣悪にする必要はないと思うのだが、仏教には糞掃衣という言葉もあるのだし、このカビ臭い布団にも何らかの意味があるのだろうと思って我慢して寝た。


5:00 覚心(=起床)

 寝るのが早かったので普通に起きれた。


5:15 坐禅止観

 昨日よりも少し長めの座禅。30分くらい? しかし、むずむず脚症候群に困らされることもなく、特に辛い思いもせず終了。あと、樫の棒でバチーンと打たれるやつを初体験した。「音の割には思ったほど痛くない」ものだと思っていたけど、そう考えていたよりは痛かった。でもまあ、後に残るほど痛いもんでもないし、タイミング的にもちょうど良い感じで気付けになったので、「基本的には凝りをほぐすためのもの」という事前説明にも納得できた。


6:30 浄土院参拝

 参拝して説明を聞いた。そんだけ。


7:00 錬成(=体操、森林浴を兼ねたウォーキング、ジョギング)

 ウォーキングとあるが、号令をかけ、足並みをそろえての、悪く言えば軍隊式の、良く言えば小中学校のマスゲーム的なものであり、森林浴というほど和やかな雰囲気のものではない。しかしまあ、たかが30分ほどのものなので朝飯前の軽い運動に違いはない。


7:30 作務(=清掃)

 これも修行と思い、普段の150%増しくらいで気合を入れて掃除してみたが悟りはひらけなかった。


8:00 小食(=朝食、朝がゆ)

 食べる前にちょっと長めのお経を唱える。メシを前にして「いただきます」の長大バージョンを行うのはだるいかと思っていたが、いざやってみるとすらすら事が進んで意外とだるくもない。朝食はおかゆと味噌汁と漬物。昨日の夕食は見た目より遥かに美味しかったけれど、朝のおかゆは普通のおかゆだった。タクアンは昨日の夕食からチャレンジしていたが、結局、音を立てずに食べる技術を確立できなかった。脚の痺れには相変わらず悩まされる。朝食もやはり楽しくなかった。正座に慣れて、音を立てないコツを身に付け、それを自然に行えるようになれば、もう少し楽しめるのかもしれないが。そもそもお坊さんたちは食事を楽しんで摂っているのだろうか。


9:00 写経

 む、難しい……! お手本シートの上に半紙を重ねて、般若心経のわずか276字を書き写すだけだからすぐに終わるかと思ったのに半分も進まなかった。写経中は基本正座なのでやっぱり脚が痛い。ちなみに一行書くごとに脚を崩せるので食事の時ほどは辛くなかった。


11:00 法話(お坊さんのお話)

 居士林(この研修施設)の院長さんのお話。たぶんかなりの高僧なのだろう。院長先生のお話は、仏教をある程度勉強してると「ふむふむ、なるほど」と感じると思うのだけど、たぶん看護学院の子たちには浅薄な道徳論にしか聞こえなかったんじゃないかなあ。あと、小さな子供が二人いたんだけど、彼らにも退屈でしょうがなかったと思う。法話は縁起とかもっと根底のところを教えた方が若い人たちは興味を持って聞いてくれるんじゃないかと思ったけど、それは私が哲学をかじってるからなだけで、普通の人には哲学も宗教もどっちも退屈なだけかもしれない。


12:00 正食(=昼食)

 炊き込みごはん。すごく美味しかった。しかし、正座がきつくて食事時間が楽しくないのは相変わらず。食べ始める前にごはんを数粒だけ脇の皿に移して、それを戸外の鳥の餌場みたいなところに移す儀式を体験した。これが施餓鬼米らしい。


13:00 退所式

 最後に感想を言う機会があったので、「どういう修行をしたら悟れるのかを知るために、また、あわよくば一泊二日で悟ってやろうという意気込みで来ましたが、ぜんぜん糸口も掴めませんでした」と言ったところ、院長さんから「悟ることよりも、修行の過程が大切」といったお言葉を頂いた。ううむ、良く分からん。


 ***

【まとめ】

 まず、今回の修行体験に至るまでの思索の過程をまとめると次のようになる。

「悟り」という状態は様々な宗教に見られる一種の精神変容状態である。これは言ってしまえば物理的な状態変化であり、極端な話、LSDなど薬物でも同様の変容は起こせるかもしれない。それで、釈迦はこの「悟り」という精神変容状態を意図的に引き起こすためのプロセスを体系化した一種の発明家であり、また、仏教はその「悟り」(これはLSDでも起こせるかもしれないが)に対し、文脈による意義付けを行うものである。

 と、いうのが現在のところの僕の仏教認識。それで、今回の目的は「意図的な精神変容」の手段である「体系化されたシステム」であるところの「修行」が実際にどのようなものかを体験し、「なるほど、これを続けていると『悟り』に至るのだなあ」と実感することだったのだけれど、上に書いた通り、まったく糸口すらつかめませんでした。僕が哲学的に理解してきた「悟り」状態と、これらの修行がどのようにリンクするのか、さっぱり分からなかったということです。ただ、(特に食事に顕著ですが)日常の行為と懸け離れた生活習慣を我が物とした時に、(それが悟りに繋がるのかどうかは分からないけど)何らかの精神変容が起こること自体は間違いないだろうと感じました(これは「変わったことを毎日していれば、それに準じた精神になる」というだけで、当たり前と言えば当たり前ですが)。


 ***

 以下、気付いたことを列記。


1、小学校教育はおそらく仏道修行の影響を受けている

 居士林のスタッフは4名のお坊さんで、1人は四ヶ月の(おそらく新米の)お坊さん(以下、坊主A)。他に二人の年季が入ってそうなお坊さんがいて(坊主B、坊主C)、最後に院長のお坊さん(院長)。それで、坊主Cが坊主Aを事あるごとにすごい勢いで怒るんです。念仏などを唱える時、僕ら一般参加者の声が小さかったら、

「ハイ、声出してー」

 って感じだけど、坊主Aに対しては

「A! お前が声出さんかいっ!」

 って感じですごい怒鳴るんですよね。

 で、そういう分かりやすいケースはともかくとして、僕が見ていた感じでは、他はどうも坊主AがKYな時に怒られてるようでした。KYといってもかなり高いレベルを要求するKYで、「あー、こりゃ僕でも絶対気付かないなー」って場面で怒られてるんです。

 で、これ、何かに似てるなあと思ったら、小学校の先生に似てるんですよね。小学校の先生もかなりレベルの高いムチャな要求をしてくるものですが、あれに似たものを感じたのです。もちろん、お坊さんは自分から望んで出家してきてるはずですから、その是非を同列に並べることはできませんが、小学校教師の教育姿勢は仏道修行の教育姿勢にどこかのタイミングで影響受けてるんじゃないかなあと思いました。良い悪いは別として、道徳的な面とか、「いただきます」など食前の挨拶とか、マスゲーム的な行進とか、どうも小学校教育と共通項の多い感じを受けました。


2、仏門に入るには精神的タフネスが必要

 上に関することですが、仏門に入ると、たぶんどうやっても怒られます。おそらく、「怒られながら学んでいく」のが仏教の基本じゃないかなと思いました。シグルイ藤木の「痛くなければ覚えませぬ」的な。あと、坊主Cも明らかに頑張って怒ってるんですよね。「怒鳴るの疲れるけど、がんばって怒鳴るぞ(´・ω・`)」みたいな感覚を受けました。ある意味、坊主Aは愛されてるってことなんだろうけど、本人は辛いだろうな、アレ。


3、むりやり受ける仏教は明らかにつまらない

 これは仏教に限らず、他宗教でも同じと思いますが……。

 今回は、僕たち以外にも個人参加の人たちが何人かいて、また別に、看護学院の若い男女が十数名と、あと小さい子供が二人いたんですが、看護学校の男の子たちと小さい子供達が非常につまらなそうにしてたのが特徴的でした。

 それでも看護学院の男の子達は常識も社交性もあるので、部屋に戻ってはブーたれながらもそつなくスケジュールをこなしていましたが、しかし、この経験が彼らにとって何らかのプラスになったかどうかは非常に怪しい。上述の法話の点でも述べましたが、仏教は良くも悪くも表層的には「常識的」で「道徳的」なので、「悪口を言ってはいけません」とか、「感謝しながらごはんを食べましょう」とかは、「そんなこと言われなくても分かってるよ」と思ってしまうのではないでしょうか。彼らのように学校行事で来たり、子供たちのように親に連れて来られたりした場合、つまり、強制された宗教には何か意味があるのかどうか非常に怪しく思いました。これが一年やら二年なら何か心変わりがあるかもしれないけど、一泊二日や二泊三日ではかえって仏教嫌いになるだけじゃないかなあ。

 なので、もし、ここの研修施設にそのうち放り込まれるという人がいたら、あらかじめ仏教の勉強をしておくことをオススメします。全く仏教に興味がない状態だと、「良く分からんがとにかく窮屈な生活」以上のものにはならないんじゃないかと思います。あの生活にいきなり飛び込んで、そこで一発で何かを掴むのはかなりの感受性が必要なんじゃないかなあ。

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ただ自然に―比叡山千日回峯行 酒井雄哉画賛集酒井 雄哉

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