・仏教儀礼に内在する王権のイメージ(3)
王権儀礼と融合する仏教の灌頂
《フビライとパクパ》
・元朝はモンゴル人が中国を征服して建てた王朝である。初代皇帝にして最盛期の王フビライはチベット僧パクパ(1235-1280)を国師として、彼よりヘーヴァジラ尊の灌頂を授かった。さらにパクパに帝国の文字を作らせ(八思巴文字)、王権の演出を任せた。
《ダライラマ三世とアルタン・ハン》
・16世紀に再びモンゴル高原東部を統一したモンゴル王侯のアルタン・ハン(1507-1582)はフビライとパクパの故事にならって、ダライラマ三世をチベットから招聘し、ヘーヴァラ尊の灌頂を授けた。
・当時のモンゴル王朝は元朝の時代と比べると遥かに弱体化していたため、アルタンはダライラマから灌頂を授かることによって、王権を強化することとなった。
《乾隆帝とチャンキャ三世》
・清朝は満州人が中国を征服して建てた王朝である。満州人は建国以前からモンゴルを通じてチベット仏教に接触しており、チベット仏教の信徒であった。
・特に最盛期の皇帝、乾隆帝(1711-1799)は即位十年目にパクパとフビライの故事に倣い、北京のチベット仏教センター雍和宮(ようわきゅう)にてチベット僧チャンキャ三世(1717-1786)よりチャクラサンヴァラ尊の灌頂を授かった。
※チャンキャ三世は立場的にはダライラマほど偉くないけど、乾隆帝と小さい頃から親友だったらしい。二人は電波入ってて「オレたちパクパとフビライの生まれ変わりじゃね?」とか思ってたらしい。
・また、1780年には乾隆帝はパンチェンラマ4世を呼んでチャクラサンヴァラ灌頂を受ける。パンチェンラマはすごい歓待を受けた(道程の宿を新築したり)。そのため財政に大ダメージを受けたらしい。さらにパンチェンラマが死んだため(高原に住んでるチベット人は中国の方に降りてくると病気で死にやすいらしい)、多額の香典を送ったところ、それを目当てにネパールがチベットを襲ったりしたらしい。
《結論》
・灌頂儀礼はもともと古代インドの王の即位儀礼であった
・灌頂儀礼は仏教(密教)に取り入れられ、仏になる為の入門儀礼となった
・さらに仏教が盛んになると、世俗の王が王権の強化のために仏教の灌頂儀礼を受けるようになった。ただの王ではなく、菩薩王として人々の心の中にまで君臨するため。
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