《メモ》五島列島には少なくとも数十年前まで隠れキリシタンがいたらしい
・赤道アフリカの草原に住むファング族
『神は上にあり、人は下にあり、神は神なり、各々その家に在り』(※確かに神は人より上だけど、テリトリーを分けて棲み分けてるからあまり関係ないよ的なニュアンス)
・普段忘れられていて顧みられないこの種の神も、様々な苦難に際し、司祭や呪術者の調停が功を奏さない場合、最後の手段として犠牲と共に祈りが捧げられる。
例)
・「天にある神よ、私の子をとらないで下さい。この子はあまりに若すぎます」(遊牧民のセルクナム族)
・セマング・ピグミーは自分の子羊を竹のナイフで傷つけ、血を流させて、「ダ・バドンよ、私は強くなれません。私は過ちを償います。私の償いを受けて下さい。私はそれを支払います」と叫び続ける。
・未開人が持つ、天に住む至高神は、旱魃、災難、病気などの苦しみを追い払う目的でなされた行為が全て功を奏さない時の最後の手段として登場する、というのが共通している性格。
現代の宗教学者ペッタツオーニ(R.Pettazzoni)
『至高神という概念は知的な要求というよりは、むしろ存在の不安から生まれるものである』
→生存の不安は至高神の中に見られる共通の根源である。
※良く分からん話だが、全知全能の至高神なので、最後にこれにすがれば救ってもらえるというアイデアらしい。人間が生きている限りは不安がある。そういった根源的な不安に対するセーフティネットとしての存在であり、信仰形態であるといった意味合いか。なので、実りなどを求める時にはこれに祈ることはない。なお、「知的な要求というよりは」という点はタイラーの合理主義的宗教理解に対する批判と思われる
《シュミット批判》
・至高神だけを未開民族における神概念として重要視しているが、A・E・イェンゼンの『野獣神』のように至高神っぽくない神観念もある。(※野獣神というのが調べても良く分からないが、とにかく至高神っぽくない未開人の神なのだろう)
・シュミットが至高神の性格として挙げた「全知全能、道徳性、慈悲、永遠性」といったものはシュミットの主観的な理想化の傾向がある(※つまり、未開人の至高神は実際はもっと色んな性格を有しているのに、カトリックの神父であるシュミットがキリスト教の神を重ねて、これらの性格ばかりを前面に押し出している傾向があるということ)
・未開人に見られる至高神が、唯一固有のものとはいえないが(全ての未開人が至高神信仰をしているとは言えないが)、現代の未開人にも共通して見られる至高神観念は確かにあるので、名前を変えてみてはどうか。「原始一神観」→「高神信仰」(byヘッケル)
《タイラー以降の論議の総括》
・人類最古の宗教を発見することはできあにが、現存する最古の社会(未開人)はアニミズムじゃないの?「=宗教進化論」(byタイラー)
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・高められた神観念が複雑な形で認められるよ「=原始一神観」(byシュミット)
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・というか、宗教現象を「起源」でまとめるのが無理なんじゃね?(byエリアーデ)
以下、エリアーデの説。
まず、宗教の「起源」の研究をするには、前提として以下の2つの仮説が必要。
1、現存する未開人と原始人の宗教的表現には連続性がある(とはいえ、未開人ったって現代人なんだぜ? 原始人と現代の未開人がイコールとは限らないよ)
2、現存する未開人と研究する側の現代の科学的人間の間にも連続性がある(人間だから同じだ、とひとくくりにして本当に大丈夫なのか? 「彼らはこれをこうこうして、これをこう理解しているのだ」「あー、なるほどなー」と私たちは思ったりするけれど、彼らの捉え方が私たちと同じとは限らない。文化的差異を考慮に入れず、ここまでは同じであると楽観視していいのか?)
⇒一般的に宗教と名付けるものの起源は個人的、地域的、文化的な相違という環境の多様性に基づいて様々な宗教の形態が生み出されてきた可能性がある。
(※このエリアーデの見解も価値を相対化する現代の流れの理解と無関係ではないだろう)
⇒確かに、様々な現象を一つの説明原理でシンプルに説明することは科学の美学であり、宗教的な現象の多様性が一つの起源から出てきているというアイデアは魅力的であるが、一般的な進化論に基づく「起源」という問題の立て方、そのものが無理ではないか(F.J.ストレング)
文化的発展を反映する宗教的生活
↓
民俗学的区別がある。
宗教的現象、儀礼は、人々の経済や文化的欲求を反映して様々。
民族のエートス(気風)によって多様
※ここらへんは「聖と俗」を読めばいいかもしれない。
聖と俗―宗教的なるものの本質について (叢書・ウニベルシタス) | |
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