<……前回の続き>
・カラスカミとトカゲカミは同じ一つのカミの二つの姿というわけである(※どちらも同じカミ)
・同じ一つのカミ、それを宇宙神といってもよいし、自然神といってもよい
・そうするとアニミズムのカミは一にして多、多にして一のカミということになる
・一即多、多即一
『華厳経』
⇒大乗仏教の経典で、漢訳の『六十華厳』(全六十巻)、『八十華厳』(全八十巻)などがある。正式名称『大方広仏華厳経(だいほうこうぶつけごんきょう)』。「大方広仏(広大なる仏)」「華(雑華、「あらゆる華」の意)」「厳(荘厳、「飾る」の意)」。つまり、「広大なる仏をあらゆる華で飾った」の意。(※仏とは、「悟りを様々な角度から擬人化して分かりやすくしたもの」)
・入法界品(にゅうほっかいぽん)
⇒善財童子という求道者が五十三人の善知識(坊さんとは限らず色んな人)を歴訪し、最後に普賢菩薩に会う。華厳経全体の縮図といえる菩薩の修行過程のストーリーで、分量的にも華厳経の四分の一を占めるらしい。東海道五十三次の出典とされる。
・華厳経の中心思想が重々無尽縁起(重なり重なり尽きることのない縁起)
⇒帝釈天(ヒンドゥーのインドラ/帝釈天という天界にいるから名前が帝釈天/ここでは天界の名前の方)にある網(因陀羅網)には網の目ごとに宝珠が編まれていて、それぞれの宝珠から光が発し、一つの宝珠には全ての宝珠の光が映されている。つまり、この世界に存在する全てのものは重なり重なりする尽きせぬ縁起の中にあるということ。一即一切、一切即一。
(※ここらへんが岩田さんのアイデアのイメージしてるあたり)
大乗仏教経典:『大蔵経』
・「一切衆生悉有仏性」(いっさいしゅじゅうしつうぶっしょう)
⇒一切衆生、悉(ことごと)く仏性を有す。つまり、「全ての人は仏になりうる潜在的素質をもっている」。
上記が一般的な捉え方。これに対し、道元さんは以下のように捉えた。
⇒一切は衆生にして、悉有なり、仏性なり。つまり、「全てのものは生きていて、一切存在は仏性そのものである」。
※どうも道元さんには、「全ての人に仏性があるのに、なんでこんな辛い修行せにゃ悟れんのん?(´・ω・`)」という疑問があったらしい。
・仏性は全ての人が仏になりうる可能性として、人間に内在する潜在的素質と一般に解されるが、仏性の真義はこのような人間に内在する可能性ではなく、草木国土、日月星辰のすべてが現に仏であることと道元は理解する。(※これは「仏から見たら」ということね)
※なお、この見方に対して、「(差別や貧困も含めた)現状肯定ではないか」という批判が曹洞宗の坊さんから出てるらしい(=如来蔵思想批判)。というのは、仏教には部落の人に差別戒名を付けたりしてた過去があって、それはこういう思想が影響していたのではないかという反省/内部告発的なものらしい。
・こうした華厳経の重々無尽縁起や道元の仏性論は、森羅万象を関係の連鎖のうちにあるという存在の共生関係を説くものであり、アニミズムもこうした観点から現代において見直されるべきかもしれない。
上のようにアニミズムを再考する一例(by岩田さん)
・アニミズム世界というと、ある意味で人間が草木虫魚となり、野獣となって生きる世界、草木虫魚と野獣がそのまま人間となって語りかける世界、もろもろの欲望が剥き出しにされた血生臭い世界だということができる。
※岩田さんは極めて血生臭い世界との交流とも考えているらしい。きれいな仏の世界というだけでなく、もっと生々しい面もあるんだよ、という感じで。ここらへんは良く分からん。