>> 個人的にこの作品が好きになれない‥‥。
>> なんでだろうなぁ、感動のシーンのためにキャラ設定に無理があるからかなぁ?
>> あと敵さんたちが侍だけを嫌いになる理由も分らん。
>> 過去はまぁかわいそうだねーと思うけど、それで侍は全員屑って考えるのは短絡的っていうかキチガイだよなぁ。(掲示板より)
>> この漫画に出てくる「いい人」って
>> 「農民と同じ立場で交流している」→「だからいい人だ」
>> 「敵チームの人間にも薬をあげる」→「だからいい人だ」
>> という理屈くささというか、記号でしか描いていないという感じがして、「これは本当にいい人なんだな」というのが読んでいて実感として全然伝わってこないんです。
>> この漫画を読んでいて感じる気持ち悪さは、そこら辺が原因じゃないかと思う(掲示板より)
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これねー。僕も前々から感じてたんですよ。サムライうさぎは何かが気持ち悪い。でも、何が気持ち悪いのかは分からない。僕の場合、一つには、「こんなサムライねーよ」ってのがあると思ってて、なんといいますか、すごいツッコミたいんだけど、「でも、この漫画はつっこんじゃいけないんだよなあ」と思うと突っ込めない。そこらへんのフラストレーションがあるんじゃないかな、と思ってたんですよ。
でもですね、こないだ「暴れん坊将軍」を見てたんですけど、これもやっぱり、「こんなサムライねーよ」なんですね。なのに、暴れん坊将軍は気持ち悪くない。むしろ気持ちいい。徳田新之助サイコー。特に突っ込む気もしません。心の中で「ねーよwww」とか思いながらニヤニヤしているだけです。だから、「ねーよ」が気持ち悪い原因でもないみたいなんです。
さて、両者は共に「こんなサムライねーよ」なのに、一体何が違うのか。この点に関して、日記の方で一件のコメントを頂きました。
>> サムうさと暴将についてですが、僕も同じように感じました。概念的な話になるのですが、暴将はきりっとまじめな顔して喜劇をしている感じで、サムうさはふざけた顔して悲劇を演じてる感じがします。要するに、茶目っ気の違いがあるんだと思います。どっちもあべこべの組み合わせですが、効果は逆ですね。(日記より)
この「喜劇」と「悲劇」がポイントなのかもしれません。すなわち、暴れん坊将軍はなんだかんだいって物語全体としては楽観的でポジティブなのです。良いサムライ(吉宗)も悪いサムライ(悪代官)も出てきますが、全体的にどこか明るく喜劇的です。また、悪いサムライが出てくるとはいえ、善であり最高権力者である吉宗が最後には決まって悪を滅ぼします。すなわち作品中に、「きもちよいサムライ」のイメージが一貫しているのです。
これに対して「サムライうさぎ」は、「悪いサムライ」が基本であり、その「悪いサムライ」が牛耳る閉塞的な世の中を、「(極少数派である)良いサムライ」が打ち破るという構造になっています。でも、まだ打ち破れていない。今のところ伍助は非力で、暴れん坊将軍のラストのようなカタルシスは得られていません。
よって、サムライうさぎは作品全体のイメージがいまのところ、「きもちわるいサムライ」のままであり、その点で暴れん坊将軍と異なっているのかもしれません。あと、僕たちがサムライのことが好きすぎて、「(気持ち悪い話を描くために)訳の分からんサムライを書くんじゃねー」ってのも無意識下にあるのかもしれないです。きもちいい話のためならメチャクチャ(茶目っ気)も許せても、きもちわるい話にされるのはなんか嫌、という心理かもしれません。
とはいえ、サムライうさぎのやり方が悪いという訳でもありません。いまは読者にストレスが掛かっていますが、これは必殺仕事人でいうなれば依頼人がカネを握り締めたまま息絶える辺りのシーンまでのこと。その分、この「きもちわるいサムライの世の中」が解消された暁には、それだけ逆にカタルシスとなるはずです。それがいつ来るか分からないけれど。……もうちょっと小出しにして欲しい気もしますけどね!
そういえば、時代劇により多くの人に「きもちよいサムライ像」が確立されている中で、あえて真逆の方向を目指したサムライうさぎは実験的ともいえるのかなあ。実際、僕らは「気持ち悪い」と思ってる訳だし、これは結構リスキーな賭けかもしれませんね。でも、最近テレビで時代劇とかやってねーし、メイン読者である小中学生には関係ないことなんだろうか。
追記:甲賀忍法帖における「こんな忍者ねーよ」と閉塞的世界観については、また機会があれば考えてみたい。