・涅槃(ねはん/ニルヴァーナ)……「悩みのない状態」。釈迦も悟りをひらいたら、心的には既に涅槃だが、それはそれとして現実に体がある限りは、毒キノコを食ったら腹が痛くなったりして苦しい。心は涅槃でも体は涅槃じゃない。なので、死んだら体も涅槃に入ると考えるようになり、そのうち、涅槃は「高僧の死」の意味も持つようになる。
《大乗仏教と菩薩の誕生》
・紀元前後におきた大乗仏教運動の発生と共に、あえて輪廻に留まり、苦しんでいる他者を救う菩薩(Bodhisattve)という新たな人間像が生まれる。菩薩は解脱(輪廻から解き放たれる)できるのに、あえて輪廻して他の人を救おうというマゾみたいな人のこと。
・大乗の人たちは、それ以前の仏教を「少人数しか救えない」という意味で小乗と蔑称し、自らを大乗と称した。(蔑称なので小乗の人たちは自分達を「小乗でーす」とか言わないよ)
・大乗と小乗は「利他」「自利」で区別する。小乗は自分の幸せのために悟りを求める(自利)けど、大乗はみんなを救おうとするよ(利他)。
・幸せな人ってのは周りの人にも幸せを分けてあげることができるけど、仏なんかは激ハッピーな人なので時空を超えて(輪廻の外から)救いまくれる。
《戒律から見た大乗と小乗》
・小乗(声聞・阿羅漢)の戒は250もあるよ。(女性は気をつけなきゃいけないことが多いので、さらに多くなります)
○四波羅夷法 ⇒ セックスとかを禁止。これを犯すと即追放。
○十三僧残法
○三十捨堕法
○九十単堕法
○四悔過法
○百十二悪作 ⇒ うっかり虫を踏んじゃうとか(夏安居といって、雨季の間は虫とか増えるから、うっかり踏まないように家に引きこもる)
↑これを全部足して計250戒(具足戒)
・これに対し、大乗は十善戒だから10コしかない。小乗に比べると楽ちん。(あんまり厳しいと在家の人とかたまったもんじゃないから)
《初期仏教の仏と王》
・初期仏教(小乗)においては、俗世間のトップである王は出世間のトップである仏よりはるかに劣る存在とされている。
王(世間のトップ)<<<(超えられない壁)<<<仏(出世間)
王様は所詮一地域を支配しているだけなんだけど、仏のやろうは宇宙レベルだから。※いわゆる三千世界ってやつは世界10億個分で、仏は一人で世界10億個を管理できるので、王は世界制覇しても所詮仏の10億分の1でしかない。
・だから、俗世の王にできることは仏の経済的サポーター止まり。仏教にカネを払うくらいしかできない。いわんや、仏教にカネを払わない王なんかもうダメダメ。アショーカ王くらい寄進すべき。(ちなみに高僧のサポーターを「旦那(ダーナ)」「施主」というらしい)
・アショーカ王伝説……王様のアショーカが仏教に入れあげてバリバリ寄付するから、困った大臣や息子が国庫を閉じたら、アショーカは食器まで寄付して、最後には食べかけのマンゴー(半アーマラカ)まで寄付した。その上、「全国土を寄付する」といってバッタリ死んだので、大臣たちは大枚はたいて寺院から国土を買い戻したという、どう考えても迷惑な話。
⇒王様は統一するまでにバリバリ人を殺してきてるから、死にそうになったらマジでビビる。でも、それまで全然修行とかしてないから、しょうがないので寄付をする。そういうところを見ると、やっぱり王様なんてたいしたことないね、さっさと出家すべきだね、出家カコイイ、という価値観になる。
《大乗仏教の菩薩と王》
・大乗仏教になると、輪廻に留まって人々を救う菩薩が大人気になる。その結果、仏教を信じて人々に愛がある王は菩薩王(菩薩の王)と尊ばれ、王の地位が限りなく仏に近付いた。聖徳太子とかも菩薩らしい(上宮皇太子菩薩?)。王家が仏教の権威を利用してるとも言える。
・大乗仏教は精神論(まあこんくらいで大丈夫だろうと楽観的)であんまり形式を守らない(10コくらいしか守ることがないから出家しなくてもできる)ため、在家と出家、王と僧との区別が限りなく不分明になった。
《大乗経典に現われる菩薩思想》
・「世尊いわく、スブーティーよ(仏の弟子の一人よ)、戒律(ハラミッタ)を守って、転輪聖王の一族に生まれて、命あるものを十善業道に導こう」なんてことが『摩訶般若波羅蜜経』なんかに書いてある。※王様になればいんじゃね、っていう姿勢。(cf.小乗は「出家カコイイ」)
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