・宗教現象は合理主義的立場、もしくは非合理主義的立場から扱われる。
⇒非合理主義的立場とは「言ってることがムチャクチャ」という意味ではもちろんなくて、宗教現象を合理的に理解しようとする研究を批判する立場。現代では大体こちらの立場(非合理主義的立場)に立って研究してるらしい。
⇒と、いうのは「宗教とは人間存在の『非合理主義的側面』に根ざして成立しているもの」であるから。「人間存在の非合理主義的側面」とは、つまり感情(理性が完全に統御できない領域)である。
・宗教をある合理的な自明性というものに還元して説明することはできない
⇒宗教の本質は合理だけでは説明しつくせない
・宗教は他の領域の説明原理に還元して説明しつくせない
⇒宗教は昔の人の説明原理に過ぎないから(雷は雷様のせい、とか)、科学が発達すれば宗教の位置に置き換えられるよ、というのは違う
・「宗教とは人間の営みの固有の領域である」というのが今の考え方らしい
・以下、宗教現象理解の非合理主義的立場の伝統
○Johann Gottfried Herder(ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー)(1744-1803)
ドイツの哲学者、文学者
「宗教は理性ではなく、特殊な体験や感情に基づく」
○Friedrich D.E. Schleiermacher(シュライエルマッハー)(1768-1834)
ドイツの哲学者、神学者。啓蒙主義的な宗教軽視からの宗教の復権を唱えた。
・宗教というものは未熟な哲学や原始的道徳として理解すべきものではない(哲学でも道徳でもない)
・宗教を認識作用や行動規制の一種と見なす、当時も今も根強い傾向に反発した(精緻な哲学や道徳で塗り替えられるものではない)
・形而上学にも道徳にも還元できないまったく独自の領域である(感情に基づくもの)
※ここでいう宗教とはキリスト教だけなのだろうか? 哲学的側面の強い仏教などはここで考慮されているのか?
・シュライエルマッハーの宗教の定義
『宗教とは絶対的依存の関係である』
⇒私がある対象に対して絶対的依存の感情を持ったなら、それは宗教である。(「絶対的依存」あたりは今後論争になるような感じだけど、「感情」のタームが重要らしい)
・ヘルダーもシュライエルマッハーも共に、宗教をある合理的な自明性というものに還元して説明しようとする合理主義的立場を否定している
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・シュライエルマッハーの弟子でもあったWilhelm Dilthey(1833-1911)も同様に宗教的世界観の「非還元的正確」(他の領域に還元不可)と、「その個々の形式の内的理解の必要性」(宗教個々の文脈・形式・場面で読み取る)を強調。
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・こうした伝統は宗教の非合理的要素の中心性(感情が中心ということ)と、非還元性を説くドイツの社会学者、Max Weber(1864-1920)などを通じて現代へ(宗教というのは好き嫌いや好みの問題が大きい。理屈で「間違ってる」といっても、「だってこれが好きなんだもん」で終わってしまう)
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・ヴェーバーから多少独立した系譜として、ある一つの頂点に至る事になる。
⇒Rudolf Otto(1869-1937)
『聖なるもの』(1917)※ヌミノーゼの人
他、この系譜の20世紀の宗教学者
Gerardus van der Leeuw
Mircea Eliade※ヒエロファニーの人
Joachim Wach
Gustav Mensching
・一方、宗教減少理解の合理主義的立場(19世紀フランスの実証主義、およびイギリスの功利主義の勃興に影響を受けている)
⇒歴史主義的様相を帯びた合理主義的解釈として『宗教進化論』が登場。
・Edward Burrett Tylor(1832-1917)
主著『原始文化』(1917)で『宗教進化論』が説かれる。
⇒宗教は進化する。未熟な形態の宗教から高度な宗教へとなっていく。
・宗教の起源の形態を『アニミズム』と命名(ラテン語のanima(霊魂)から)
タイラーはイギリスの人類学者、民俗学者で、メキシコやキューバに旅行(1856年)、先史時代や未開人文化に対する広い知識を持つに至って、文明の進歩と文化の地理的分布、伝播の研究に従事することになる。