>> 『天衣無縫の極み』という概念、およびその修行方法については
>> 1924年にドイツの哲学者オイゲン・ヘリゲルが
>> 京都で弓の達人に師事した記録『弓と禅』がモチーフなんじゃないでしょうか。
>>
>> 最高の境地に至るには全てを捨てて「無」にならなければならないという件についても
>> (テニスでは道具の放棄や記憶喪失という形で表現している)、
>> 闇夜の中、師匠が当たる筈のない標的を撃って命中させ、どうやったのかと弟子に訊かれて
>> 「見ていない」「狙っていない」と返答した件についても。(掲示板より)
掲示板に上記の書き込みを頂きました。それで、「弓と禅」のあらすじがこちらです。
では上記のあらすじと今週のテニスとに共通する箇所を挙げてみましょう。
<テニス>
南次郎「目に見える外側に囚われている様じゃ……、まだまだだぜ」
<弓と禅>
師範「あなたは精神を集中し、まず意識を外から内へ向け、次に内にある意識すらも無くしていくことを努力しなさい」
<テニス>
リョーマ「あんな真っ暗で見えないのにオヤジは~」
南次郎「見てねーんだよ」
<弓と禅>
師範「こんな暗さで、的を狙うことができると思うか? これでもまだ、あなたは、狙わずには当てられないと言い張るつもりか?」
また、先のサイトではこのようなエピソードも紹介されています。
「1000万回やったら、一発くらいは外れませんか?」
こう聞かれた肥田は、答えました。
「当ててから矢を放っているのですから、外れるということはありません」
中島敦の「名人伝」にも、「弓の修行のため、眼前に吊るしたノミを見続けたら、そのノミが馬の如く巨大に見えるようになった」というエピソードがあります。この状況ではノミの心臓に矢を当てることすら容易で、先のサイトで言われている「当ててから矢を放つ」というのも、これに類する状況ではないかと思われます。僕は弓道家ではないので分かりませんが、熟練者の中ではこのような感覚がありえるのかもしれませんね。
で、ここからが本題ですが、以上のエピソードがモチーフとなると、僕が今週のジャンプ感想で書いた「『天衣無縫の極み』とは因果律決定能力ではないか」という線が(我ながら信じられないことに)現実味を帯びてきます。
師範「的と自分が一体になれば、矢は自分の中心から放たれ、自分の中心に当たるということになる。故に、あなたは的を狙わず、自分自身を狙いなさい。それが出来れば、あなたは宇宙になれる」
これをテニスに置き換えると、「あなたがスマッシュを打てば、それは得点になる」というような話ではないかと思われます。「あなたがスマッシュを打てば、それはイノシシの眉間に命中する」でもいい。「天衣無縫の極み」の正体が、本当にここら辺である可能性が出てきちゃったかもしれませんね。(ただ、「人体=宇宙」を漫画の中で適用すると、安易にメタフィクションで解決できちゃうのがネックですが)
***
余談ですが、「名人伝」では弓を使って百発百中の実力を得た主人公が、更なるステージアップとして、弓を使わず的を射ることを会得しました。テニスにおいてラケットを用いず枝や石ころを使うのも、それに類することなのかもしれません。最終的には無手でコートへ立った瞬間に、無条件で勝利が確定するのかもしれませんね。