作品内に多数の謎を内包する「テニスの王子様」にあって、その中で最もミステリアスな謎の一つが『手塚ファントム』であることは今更言うまでもないだろう。そして、この『手塚ファントムの謎』に対して、原典を重視し、原理主義的に研究を行う研究者のことを古典テニス学派と呼ぶ。「許斐先生が回転だと言う以上、それは回転による現象なのだ」(2007 rindou)という一文からも古典テニス学派の研究姿勢を伺うことができる。
しかし、筆者は彼らの活動について否定的にならざるを得ない。端的に言ってしまえば、彼らの誤謬は「ボールの回転により手塚ファントム現象は発生している」というスタート地点に立脚していることである。彼らはその点に関し、なんら批判的考察を持っていない。キリスト教原理主義者が聖書の記述に疑いを得ないのと同様である。
だが、我々は現実を見るべきだ。古典テニス学派の研究により、『手塚ファントム』の謎は幾ばくかでも解明されたであろうか。否、何ら有意義な結果は提出されていないではないか。古典テニス学派の研究は「テニスの王子様」の現状とかけ離れており、実学としての意味を失っていると言わざるを得ない。ボールの回転に原因を求めていては、テニス解釈学の未来は先細るばかりだ。
また、古典テニス学派の諸君は、以下のニ点についての可能性を見失っているのではなかろうか。
・作中の登場人物たちは「ボールの回転」と考えているが、それは彼らの誤解である(回転をかけた気になっているだけであり、実際は別のエネルギーが働いている)
・作中で触れられている「回転」は、「"ボールの"回転」を指していない。
これらの可能性を見過ごしていては、「手塚ファントム」を正しく理解することは困難であろう。上記二点を考慮することによって、従来の古典テニス学では至ることのできなかった、幾つかの有力な仮説が現れたことは広く知られる通りである。
「回転を掛けていたのは地球だった」(2007 Neko to Jyukinzoku)
「回転とは「竜巻の回転」のこと」(2007 Cagami Kyousuke)
これら、新古典テニス学派の研究が、現在の「テニスの王子様」の現状により即したものであることは言うまでもないだろう。つまり、「ボールの回転」から、「手塚ファントム」を解明しようとする古典テニス学は、テニス解釈学において既に限界を迎えているのである。「テニスの王子様」が従来の解釈法で解決できなくなってきた現在、古典テニス学派はその役割を終える時が来たのではなかろうか。これからは、「新古典テニス学派」へと移行し、ボール以外の回転に解決を求めるべきであると筆者は主張したい。
しかし、一方で、古典テニス学派の中にも、「手塚ファントム」の解明を宣言した研究者もいる。
「「手塚ファントム」の謎が解けました。正攻法で可能です」(2007 Izumino)
手塚ファントムの謎を解明したとされるいずみの氏の研究は、今後、リンドウ氏が引き継いで発表する予定であり、関係者からは高い関心が寄せられている。だが、果たしてボールの回転だけで、本当に手塚ファントムの謎を解明できるものなのだろうか……?